【寺井・加賀・金沢】
今年4月、九谷焼中興の祖といわれる九谷庄三の生誕200年を記念して能美市九谷焼資料館で開催されると報道されていました。庄三は、年表によると文化13年(1816)に寺井の農家に生まれ、若杉窯に入り、17歳の天保3年(1832)小野窯に招かれ、赤絵細描や粟生屋風色絵の優れた作品を作り、天保6年(1835)から能登の梨谷小山焼や越中の丸山焼より陶技の指導にまねかれ、天保12年(1841)の26歳で寺井に帰り独立し庄三と改名します。
(北国新聞記事)
能登の火打谷(現志賀町)では「能登呉須」言われる岩土を発見します。また、幕末から明治初期にかけて輸入された洋絵の具をいちはやく取り入れ、中間色の絵付を行っています。この多彩な色を駆使し、色絵の技術の留まらず陶石や顔料、発色の研究を重ね、50代に彩色金欄手という絵付を確立しています。この画風が産業九谷焼の主流となり、全国に普及していき、外国貿易品とし、また、同時に政府の輸出奨励策として、明治前半の輸出貿易品として大量に輸出されました。
(北国新聞記事)
今でも、この庄三風が代表的な九谷焼であると多くの人に思われているほどで、海外の九谷焼の展示品も、この庄三風作品が多いようです。庄三は明治16年(1883)に68歳で没しますが、教えを受けた弟子は200人とも300人ともいわれていて寺井九谷の隆盛の基礎を築いた人として知られています。
話は変わりますが、後に日本の産業政策(美術工業)を推進した納富介次郎は、明治5年(1873)ウイーン万国博覧会に政府随員として渡欧し、ゴットフリード・ワグネルの斡旋によりオーストリア帝国・ボヘミアのエルボーゲン製陶所で伝習生として陶磁器の製造を学びフランスのセーブル製陶所を見学した後、明治8年(1875)に帰国しています。
(ワグネルはドイツで学んだ化学の知識を基に日本の窯業に深く関わります。アメリカ企業のラッセル商会の石鹸工場設立に当たり、慶応4年(1868)に長崎に着きますが、製品開発はうまくいかず、工場は軌道に乗らずに廃止されます。その後、佐賀藩に雇われて明治3年(1870)有田町で窯業の技術指導にあたり、有田での窯業指導は伊万里焼(有田焼)の近代化に先鞭を付けます。明治19年(1886)東京職工学校の教授となります。)
この渡欧を通じて介次郎は、一品制作による美術品の輸出には限界があり、工藝品の量産体制を整える事が日本の貿易収支改善のために重要なことを認識し、帰国後、西欧製陶技術を広めています。明治9年(1876)米国フィラデルフィア万国博覧会審査官をへて、明治15年(1882)石川県の招きで工藝品改良指導で訪れます。
さらの明治19年(1886)石川県からの依頼で再び巡回指導につき着任と同時に支那(中国)への工芸輸出貿易を国策として進めることを提案し金沢の資産家や実業家には高く評価され大きく進展するかに見えますが、県議会で否決されてしまいますが、そのような状況下であっても、陶磁器に留まらず金沢の描金、金彫、木彫などの工業者に新しい図案を与えて指導に励んでいます。
納富介次郎の2度目の巡回指導で来県した頃、私立画学校の設立運動は「画学校の設立もやむなし」とする考えが県側にあり、その考えと巡回指導技師として手腕を発揮する納富を本県に引き止めたいという思惑もあり、県は任期を終えて去ろうとする納富に、実践したいとことがあるならば聞かせて欲しいと申し出ます。
欧米視察で工業教育の重要性を痛感していた納富は、我が国には工業学校が未だに設立されていないが、その必要性を述べます。納富の考える学校は「学理を講究してこれを応用する技術者を教育する工業学校」であり、画学校を中心に納富を置きたいとする県の考えには大きな差があり、納富は区会議員の啓蒙を図り、明治20年、金沢区の20年度予算総額2,484円をもって金沢区工業学校の創設を可決されます。
当然、その工業学校には、産業九谷焼を意識した窯業科の前身の美術工藝部陶画科が設けられ、美術工藝部と称しながら産業(美術工業)としての陶磁器研究や技術者を養成しることから美術工藝の範疇の陶芸とは違う産業としての窯業を学ぶ学校だったようです。
(因みに、日本で窯業(陶磁器)を学ぶ学校は、東京工業大学の前身東京職工学校でワグネルが外国人教官として唯一就任した新設の陶器玻璃工科が最高学府でした。当時の東京美術学校には、工藝科は金工、漆工はあるものの、陶芸を学ぶ陶芸科はなく、昭和30年(1955)新制東京芸術大学になり加藤土師萌教授を迎え始っています。)
≪再興九谷≫
春日山窯 文化4年(1807)・若杉窯 文化8年(1811)・小野窯 文政2年(1819)民山窯・ 文政5年-(1822)・吉田屋窯 文政7年(1824)・木崎窯 天保2年(1831)・宮本屋窯 天保3年(1832)・蓮代寺窯 弘化4年(1847)・松山窯 嘉永元年(1848)
”ジャパンクタニ“と円中孫平②
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11233521859.html
“ジャパンクタニ”円中孫平①
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11220694451.html
参考資料:納富介次郎伝-石川教育センター