【明治の金沢】
維新で火の消えたようになった旧金沢(加賀)藩士は、一時の虚脱状態から少しずつ醒めはじめます。明治6年(1873)の土佐(高知県)の片岡健吉らの海南義社、翌7年(1873)、板垣退助らの愛国公党の創立などが刺激になったようです。
旧金沢(加賀)藩士出身の士族を中心に結成された最初の政治結社は、明治8年(1875)の新春、杉村寛正・長谷川準也などを中心に結成された忠告社でした。忠告社員は、一時は全士族を代表して、当時他県人の多かった県庁高官にたいしてある程度の発言権をもつこともありましたが、内紛を起こして数年足らずで勢いを失っています。
(明治6年に創建された尾山神社)
忠告社について
島田一郎④31歳の生涯その二
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11886436557.html
忠告社と杉村寛正のついて
巽御殿(成巽閣)二束三文で売られた!?
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12167233511.html
(明治8年に建てられた尾山神社の神門)
忠告社に代わって勃興してくるのが、大久保菊太郎・金岩虎吉らの読書会から発展した精義社です。明治12年(1879)初頭から活動をはじめますが、越前の民権論者杉田定一らと提携して政治運動に乗り出し、国会開設の必要を石川県において説いた最初の政治結社でした。
精義社について
”金沢から伊丹へ“③3兄弟≪幾松と金沢≫
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11081662989.html
この自由民権論に刺激を受けて国会開設を目標とする精義社に対抗したのが、士族救済を具体的な目標にかかげて、遠藤秀景・広瀬千磨らによって明治13年(1880)4月に結成されたのが盈進社でした。これらのうち、明治23年まで命脈を保っていたのは盈進社(えいしんしゃ)だけです。
(遠藤秀景の碑・旧泉寺町月照寺)
これらの政治結社は結成の時期には大差がなかったが、その後の展開には栄枯盛衷があり、具体的な活動面においても千差万別でしたが、いずれも旧加賀藩士を中核とした団体で、維新のバスに乗りおくれて色あせた加賀の勢威をいかにすれば往時の輝きに復することができるか「具体的には、生活困窮に陥った士族を日の当たる場所に出すにはどうすればよいか」を目的にしている点では変りはありませんが、その掲げるスロ-ガン、とった行動、また内部の勢力関係などそれぞれ違っていて、その性格において、共通する特長は、最後まで残った盈進社(えいじんしや・明治23年まで)に、もっとも典型的に現われています。
士族中心の政治結社としては当然のことですが、士族を最上のものとし、明治時代においても士族が当然社会の代表であるという露骨な身分意識です。しかもこの身分意識は、平民にむかって発揮されたというよりは薩長系の士族に対するもので、現実においては薩長系と加賀系には社会的差異がありました。
この現実にたいして、旧金沢(加賀)藩士は反抗するか、迎合するかの言動に出るだけで、薩長系士族に有って加賀系士族には無かったのは、ということにたいする反省・考究がまったく念頭なく、”このような性格の身分意識”が基礎になっていたということを、明治の石川県を考える場合、この感情は無視できないことであると思われます。
(忠告社始め県内に起こる士族中心の政治結社は、程度の差はあれほとんどみな同様な経路をたどって姿を消していきました。これらの政治結社は、外部から加えられた条件によってではなく、実に、内部の個人的な感情とか狭い義理人情的な条件によって消えていきました。)
(つづく)
参考文献:石林文吉著「石川百年史」発行昭和47年石川県公民館連合会など