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長町のひるさがり―県庁のご紋章―

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【長町・旧御仲間町・旧小立野与力町】

私のブログは泥縄式です。先日、小説「西郷の首」を読み、関連図書を調べていて金沢の大戸宏著の金沢小説小品集Ⅱ「長町のひるさがり―南州翁の首―」に辿りつきました。この小品集は18篇の地元を題材にした短篇小説で、知ってる地名や聞いた話しもあり、ついつい面白くなって読み込んでしまいました。今回もブログは行き当たりバッタリになります。

 

 (長町ひるさがり)

 

短篇小説の中の―県庁のご紋章―は、前から興味を持ち調べています明治2年(186987日に起こった金沢藩の執政本多政均の暗殺事件とそれに関わる明治の忠臣蔵といわれた“本多家中の仇討”で、その仇討に巻き込まれてしまった被害者の妻と息子の物語です。私が今まで調べた範囲では、あまり聞いた事のないお話で、事実がフィクションかは定かではありませんが、悲惨な話ですが、終わりは心が温まる話になっています。

 

 

 (西郷の首)

 

悪いこと、良いことは絡みあい、悪いときは気を落とさず待てば良いことも・・・・?

 

≪加賀の忠臣蔵とは≫

本多政均は、明治2年(186987日金沢城二ノ丸御殿で、白昼堂々、登城してきた政均に不満を持っていた与力山辺沖太郎、井口義平により暗殺されます。事件後、実行犯は切腹になりますが、本多家の家臣達は共犯者の処分が軽いことに激怒し、仇討ちを誓います。はじめは100人以上の家臣が・・・、月日が経過するうちに15人に減ります。明治4年(187112人が共犯者3人の仇討ちを果たし、翌明治5年(1872)に切腹を命じられます。その後、明治政府は仇討禁止令を出し、そのため、この仇討は加賀の忠臣蔵とか日本最後の仇討とも言われています。

 

 

 (石川門)

 

(この事件を題材に作家の松本清張の「明治金沢事件」や中村彰彦の「明治忠臣蔵」そして郷土の作家杉森久英や戸部新十郎も著作があります。「石川県史」や「加能郷土辞彙」に“本多家臣の復讐”“本多政均”“本多政均の暗殺”などの項目があり、いずれよく調べてブログに書きたいと思っています。)

 

 

 (加賀本多博物館)

 

≪あらすじ≫

この物語は、元本多家の家臣12人が、5人の共犯者の刑が軽いと激怒し仇討をする話ですが、本多政均が金沢城で暗殺されて23ヶ月。明治41123日、標的にされた一人菅野輔吉(すがのほきち)は3年間小立野与力町の自宅で禁固中の出来事でした。

 

巻き添えを食ったのは、仁兵衛(56歳)といい、菅野輔吉の世話で、金沢県庁の小役人(小使)に就職出来た者で、家族は、妻佐代(49歳)、結婚を控えた息子仁八(33歳)で、維新の苦しい生活の中、禄を離れた旧藩士が生計に疲れ、百間堀に入水自殺が絶えなかった当時、仁兵衛一家は御仲間町(今の小橋町辺りか)の小さな棟割長屋で細々ながら食う米の心配もなく比較的幸せに暮らしていました。

 

 

 (百間堀)

 

仁兵衛が、恩人である菅野輔吉に呼ばれたのは、禁固の刑に服している輔吉が手元不如意から秘蔵の古九谷の茶器の転売先を頼まれ出向き、運悪く暗殺の現場に居合わせ、巻き込まれて死亡します。致命的な刀傷もなく、太ももの刺し傷を除けばみな浅手の傷で、おそらく出血多量による死であったと思われます。

 

 (金沢城跡)

 

葬を済ませてしばらくは、父思いの仁八が荒れにあれ、佐代をおろおろさせます。「糞ったれ。おやじ殿を殺した奴ら牢から出たら叩っ殺してやるぞ」と息巻き、錆びた脇差を毎日研いでしたのをみるにつけ佐代は不安でたまらなく、知り合いにも相談し、県庁にも足を運び、仁八の説得を懇願します。県庁では、そのつど話を聞き何がしかの見舞い金を佐代に渡し生活の足しにしていました。葬の時以来、かなりの金額が県庁を通し本多家からひそかに下る下附金の一部でした。

 

そして本多家に属する士族たちの恨みを晴らす復しゅうは血なまぐさく強行され、直接行動した15名、討たれた側3名でしたが、本多家の士族12名は、翌年明治5114日に、そろって白鳥路の金沢刑獄寮(今の金沢方裁判所)で切腹刑に服します。

 

 

 (十二義士墓所)

 

やがて仁兵衛が通っていた金沢県庁は石川県庁になり、石川郡の美川(本吉)に移り、1年足らずで再び金沢に戻り、広坂にあった藩の営修局跡(堂形)に県庁が建ちます。その頃には佐代は内職で目細の毛針造りを仁八は常雇いではないが、県庁へ人足を連れて出入りしていました。

 

ある日、下附金が下り、佐代は出向いた県庁で顔見知りの吏員が、死んだおやじさんのえにしということから仁八の県庁への常勤の話が持ち上がります。はじめは小使いという話でしたが、日ごろ県庁に出入りしていた仁八の仕事ぶりを見ていたのか、下りた辞令では給与を貰える役職で仕事は河川や営繕の作業監督でした。

 

 

 (石川県庁の破風のご紋章)

 

ある日の午後仁八の仕事は、庁舎の破風に金箔を貼った16弁の大菊の天皇陛下のご紋張りの大切な仕事がはじまりました。278歳の女連れの佐代は、あの事件で祝言が延びた許婚の菅野輔吉の息女お袖と共に仁八の晴れ姿をと、大急ぎで人をやり呼び寄せます。佐代は込みあげてくる幸せにほほを濡らし、お袖もいつしか泣き笑いをしている。長年じっと待ちこらえた女2人の同じ思いの涙であった。と結ばれています。

 

“禍福は糾える縄の如し”

 

参考文献:金沢小説小品集Ⅱ「長町ひるさがり―県庁のご紋章―」大戸宏著 昭和534月 株式会社北国出版社発行

 


千田文次郎登文と戊辰(北越)戦争

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【金沢・長岡・奥羽各地】

慶応4年(1868)正月3日、鳥羽・伏見で戊辰戦争の戦端が開かれます。兵力の火力も徳川方が上回っていたが、徳川方の火薬庫に朝廷方の砲弾があたり、大爆発し、驚いた徳川方は敗走がはじまります。

 

 

 

戦いが始まったという報を受けた加賀藩主前田慶寧公は、正月6日徳川方に味方するため、直ちに出兵しますが、越前に差掛かった頃、徳川方の敗走の報が入り、すでに徳川を朝敵とする勅が出ていることを知ります。

 

 

 

慌てた加賀藩は、越前坂井郡長崎まで進軍していた兵を呼び戻し、加賀藩を朝廷方につくことを急遽表明します。「錦の御旗」が北陸道を進むと、加賀藩は遅れを挽回するため、進軍の先鋒を務めることを申し出ますが拒否されてしまいます。それは、元治の禁門の変の時も前年の慶応3年(1867)の王政復古に際しても、京を引き払い国許に戻り信用出来ないということに尽きます。

 

 

 

朝廷軍は加賀藩がつけば渡りに船ということもあり加賀藩を許されますが、足元をみられ、貨幣や爆薬、米などの食料など大量の軍需物資の献納をすることになり、4月になると加賀藩にも出兵の命令が下り、小川仙之助隊と箕輪知太夫隊が送り出されます。また、七尾の軍艦所から「梅鉢海軍」が需要物資と兵の輸送に駆り出されます。

 

 慶応4年(1868415日、新政府軍から加賀藩に北越戦線に出動を命令が出て、千田文次郎登文は加賀藩兵として小川隊の伍長となり、越後高田に出陣します。この時の金沢藩の兵は1500人、北陸13藩で最大の軍勢で、他は薩摩藩約740人、長州藩約570人、長府藩約200人、富山藩440人、高田藩約380人で、全軍の指揮は薩摩の黒田清隆と長州の山県有朋でした。

 

 

 

新政府軍の先鋒は加賀藩兵、奥羽越列藩同盟軍側は桑名藩兵。実戦経験豊富な桑名藩の猛射撃で金沢藩兵は持ち堪えられず、6人の戦死者を出しいったん撤退します。その後、柏崎まで進出します。加賀藩は、慶応4年(1868519日になると、長岡近郊の信濃川の中洲に砲台を設置して長岡城を砲撃して城の奪取に成功しました。

 

 

 

同盟軍は、68日長岡城奪回に、栃尾にいた会津藩、村松藩などの藩兵が三方より森立峠の新政府軍を襲います。これを守備したのは加賀藩の小川隊で、大激戦になり、第一台場(陣地)は奪われ、この時、登文の姉婿澤田百三郎(30歳)が戦死。この日の戦いで飯田藩1人、加賀藩5人、高田藩1人の計7人の戦死者を出し、激戦が続き小川隊100人のうち、戦闘の堪えうる者は18人になります。

 

 

 

最終的には北越戦争に出た加賀藩兵は7,793人にのぼり、これは戊辰戦争で戦った各藩で最大の人員で、千田登文の履歴書では北越戦争における加賀藩の戦死者は103人、戦傷者は226人としています。

(三百藩戊辰戦争事典では、戦死95人、戦傷173人)

 

 

明治元年(186812月、藩主は諸士に戦功を賞せられます。酒肴と賞状等金子を拝受。登文は40(当時の1両が今の3万円として120万円か?)を拝領しています。明治2年(1869)、朝廷の命令で選抜隊を組織して上京することになり、登文は伍長として上京することになります。希望者がおおかったが、自分が選抜されたことに、登文は大いに喜んだそうです。

 

 

(慶応47月、江戸は東京に改められ、明治天皇はいったん東京へ行幸し、12月の京都に戻り、明治2年(18673月に東京にもどり江戸城(皇居)に住む事になります。)

 

 

参考文献:「西郷隆盛の首を発見した男」大野敏明著 株式会社文芸春秋 平成262

発行

千田文次郎登文と明治維新

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【金沢・名古屋・東京】

明治新政府は、明治2年(18696月、「版籍奉還」では土地と人民を天皇にお返しします。加賀藩では、城を新政府に明け渡し、藩庁を加賀八家の長邸に設置され、藩主は藩知事となり城を出て本多邸に仮住まい、武器などは新政府のものとなり、城内には士官生徒を養成する斉勇館が設置されます。

 

 (金沢城石川門)

 

明治4年(187110月の「廃藩置県」では、これまでの藩は消滅し、藩知事は東京に去り、その為、加賀藩が所有していた歩砲兵隊は解体され、新たに設置された金沢県の県下隊が組織され、千田登文は軍曹に、今の西別院(浄土真宗本願寺派)の屯所に勤務し、任務の市内のパトロールにあたりますが、この仕事を好まず、陸軍の教導団の募集に応募し合格します。当時、東京の教導団は陸軍の下士官になることを目的で、その時、千田文次郎登文(以下登文)は24歳でした。

(翌年、金沢県が石川県になります。)

 

(明治の金沢城年表)

(藩政期からある鶴丸倉庫・陸軍で倉庫として使用)

 

教導団の合格者は、陸軍軍曹心得を申し付けられ、登文は名古屋城の屯所に召集され、第3分営(後の名古屋の第3師団)の6番大隊(後の名古屋の歩兵第6聯隊)に配属されます。その隊の小隊長2人は旧加賀の藩士で、この部隊は旧加賀藩士が中心で、明治6年(18739月に名古屋の歩兵6聯隊になり、やがて金沢には名古屋鎮台金沢分営が置かれ、明治8年(1875)に歩兵第7聯隊となります。城は兵舎として使える建物以外は次々撤去されます。この短い間に千田登文は、軍曹心得、4等軍曹、2等軍曹と昇進します。

 

(余談:明治14(1881)19日、金沢城はラッパ長ら2人の兵士が夜中に酒を持ち込み、防寒用火鉢で、サカナを焼いて酩酊、火の始末を誤って出火。200数十年にわたって加賀藩が財力と建築技術を注ぎ込んだ城の大半が、兵隊の「酒のさかな」のため炎となって、一夜にして消滅しました。)

 

 (二の丸跡・陸軍では司令部跡)

(明治31年建設の司令部・現在成巽閣前に移転復元)

 

明治7年(18747月には曹長に、10月には少尉試補(見習士官)になり27歳で登文は将校を拝命。明治8年(18758月には、歩兵第7聯隊の旗手を任命され、9月には青山御所において聯隊旗を拝受します。明治9年(18764月には少尉に任ぜられ、6月には正八位の叙せられます。

 

(江戸時代は1万石以上の藩主・家老などが叙位され、一般の武士には叙位は無縁でしたが、明治になり、天皇の軍人である自覚を持たせるための制度で、天皇が位階を授けることです。)

 

(金沢城内に残る明治に造られた軍の施設)

 

廃藩置県では、公地公民が実現し、土地と人民による税収が中央政府に集中し中央集権国家になります。さらに明治6年(1873)には徴兵令も布かれ、軍事を独占していた武士の特権が奪われ、武士は自身の存在すら脅かされ、さらに明治9年(1878)ついに廃刀令が発せられと武士のプライドの拠りどころまで失います。

 

さらに新政府は最後の俸禄を打ち切り、明治9年(1878)秩禄処分も最終段階で金禄公債となり、公債という形で退職金を支給します。これまでの米や現金で支給されていたのが、公債で支給を受けた士族はその日の生活にこまり、受け入れたばかりの公債をすぐに金に換えたことにより、公債相場が暴落し、二束三文でたたかれ、士族の困窮がさらに深まります。

 

明治維新は武士階級が幕府を倒し、新しい近代国家を建設する出発点となったが、その武士階級がもっとも困窮するという世界史上でもまれに見る皮肉な結果となります。また、幕末の倒幕運動は、尊皇攘夷を大義名分としたが、幕府が倒れ、維新が実現すると、新政府は攘夷の考えを弊履のごとく切り捨て、幕府の開国政策を継承、急激な欧米化に舵を切り、攘夷を唱えた士族は驚くとともに、新政府に強い不快感と裏切られたという思いが募ります。

 

 

   (西郷隆盛)

 

明治2年(1869)の長州奇兵隊の反乱の一因はそこにあり、こうした不満が明治7年(1874)の佐賀の乱、明治9年(1876)の熊本神風連の乱、萩の乱、そして秋月の乱の原因となったことはいなめない。そしてついに西南戦争の火ぶたがきられました。

 

 

参考文献:「西郷隆盛の首を発見した男」大野敏明著 株式会社文芸春秋 平成262

発行

千田登文と西南戦争①乃木希典

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【名古屋・金沢・熊本・鹿児島】

明治10年(1877222日、聯隊本部ならびに第2大隊は神戸着。325日に征討軍指揮下に入いり、第1大隊は32日に金沢を出発します。一方、第3大隊は高知県に派遣され、高知の士族決起の警戒に当たります。

 

 

 (金沢城の歩兵7聯隊)

 

西郷軍は222日、熊本城下に入り、熊本城の鎮台を包囲しますが、このとき、熊本士族団と西郷軍に合流し、池辺吉十郎、佐々友房らの率いる熊本隊では、新政府の士族締め付け政策に反発しての行動です。さらに、宮崎の飫肥(おび)の士族、大分の中津の士族らが決起し、西郷軍に参戦し、もし、熊本城の熊本鎮台が落ちるようなことになれば、全国の不平士族が決起するという不安から、政府軍は熊本城救援に向かい、それを阻止しょうとする西郷軍と熊本の北、植木坂で猛烈な戦闘が繰り広げられていました。

 

 

(熊本城の熊本鎮台)

 

千田登文の所属する歩兵第7聯隊本部と第2大隊は、神戸に集結後、船で博多に上陸します。しかし、旧黒田藩の士族が、西郷決起に呼応して蜂起したため、福岡士族と戦うことになります。福岡士族は福岡城を攻撃、政府機関に放火などをし、聯隊はこれと戦闘して撃退します。さらに第1大隊は植木坂、田原坂、人吉方面に動員され、西郷軍と熾烈な戦闘を展開することになります。

 

   (聯隊旗)

 

≪乃木の軍旗喪失事件≫

乃木希典少佐の小倉歩兵第14聯隊が222日、熊本の北約10Kmの植木坂(今の熊本市北区植木町植木)に進軍します。西郷軍決起と聞いた熊本城の谷千城は篭城戦を決意し、小倉第14聯隊を速やかに熊本城に入城するように命じます。しかし、乃木の部隊は新式銃の交付に手間取り入城を果たせませんでした。

 

Googlieマップ 熊本市北区植木町植木

https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%8D%83%E6%9C%AC%E6%A1%9C+%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%A8%98%E5%BF%B5%E7%A2%91%EF%BC%88%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89%EF%BC%89/@32.8964181,130.685469,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x3540f764f4a6cc35:0xf446b94f88869981!8m2!3d32.8964181!4d130.687663

 

乃木がようやく植木に進軍したころ、西郷軍は熊本城を完全に包囲し乃木の部隊は22日朝、西郷軍と遭遇します。乃木の部隊は農民が主体の下士官が多く200人。彼らは小倉からの強行軍で疲労困憊、そこへ西郷軍約400人が襲ってきます。乃木の部隊も健闘しますが、ついに退却を開始します。

 

   (乃木希典)

 

しかし、聯隊旗を持っていた河原林少佐が戦死し、聯隊旗を西郷軍に略奪され、乃木聯隊は敗走することになります。この事件は、乃木秀典にとって人生の中でも最も恥辱を受けた出来事でした。

 

  

≪その後の乃木希典≫

この聯隊旗を奪われた事件の後、乃木は実質的な総司令官であった山県有朋に厳しい処分を求めましたが、山県は、これを乃木の責任ではないと不問に付しています。しかし、聯隊旗を奪われたことを非常に恥辱と感じていた乃木は何度も自殺を図りました。

 

乃木と同じ陸軍少佐であった児玉源太郎らに説得されて自殺することを一旦は諦めますが、このことが生涯乃木の心に重くのしかかり、明治45年(1912)、明治天皇崩御の際に殉死するきっかけとなったと言われています。

 

殉職の際、乃木はいくつかの遺書の中に、この自刃は西南戦争時に聯隊旗を奪われたことを償うためのものである旨が書かれていたそうです。この殉職は西南戦争から35年もの月日が流れていましたが、ずっと気に病んでいたのでしょう。それほどまでにこの聯隊旗は、乃木をはじめ軍人にとって大事なものであったということが分かります。

 

 

 (30歳代千田登文の写真の模写)

 

≪千田登文と乃木希典との出会い≫

熊本植木坂の戦いで乃木の聯隊は、西郷軍に聯隊旗を奪われ、旗手の河原林少佐が戦死しますが、その後、登文が聯隊旗手を拝命、大いに栄光の思い、聯隊長の乃木少佐(後に大将)の前に立ち、「不肖千田少尉、このたび、当聯隊旗手を拝命し、唯今着任しまいた」と申告すると、「千田少尉か、おぬしの棒持ちする御旗は、なくなってしまった」と、少佐殿ははらはらと涙を垂れられたので、私はびっくりした。と今井均大将の「回顧録」に書かれているそうです。どうもこれが乃木希典と初対面だったのでしょう。その後、登文は乃木とは親交を結び、乃木の死後金沢の乃木会を組織し乃木の威徳をしのんでいます。

 

(津田玄蕃邸・明治45年から大正12年まで大手町にあり、乃木会館でした)

 

このブログは、千田登文(後に少佐)が義理の大伯父に当たる大野敏明氏がお書きになった「西郷隆盛の首を発見した男」を読み、今まで知らなかったことが書かれていて、その深さと緻密さに感銘を受けました。今までの読んだフィクションとしての物語とは違うものを感じ、勝手に思いつくまま一部引用も含め書かせて戴きました。登文が戊辰戦争を含め4つの戦争に従軍した記録を自筆で記した「履歴書」をベースに、登文の娘婿今村均陸軍大将の「回顧録」の「千田登文翁」に、登文から直接聞いた話が書かれていて、これこそが史実であると思うに至りました。縁あって金沢に住むものとして、この「西郷隆盛の首を発見した男」を末永く多くの人に伝えたく思い引用させて戴きました。

 

(つづく)

 

参考文献:「西郷隆盛の首を発見した男」大野敏明著 株式会社文芸春秋 平成262

発行

千田登文と西南戦争②西郷説得の密命?

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【鹿児島】

明治10年(1877422日、千田登文(のりふみ)は総督本部詰を命じられ、次に第4旅団の伝令となります。後年であれば聯隊旗手が聯隊をはなれるということは考えられませんが、この時代は融通無碍であったのでしょう。登文中尉は旅団主力とともに、熊本から船に乗り、一気に鹿児島に上陸します。

 

 

 

鹿児島市内は西郷軍の本拠地であったため、苦戦を強いられますが、政府軍は増援部隊が到着、一方、西郷軍は人的にも経済的にもジリ貧状態となり、鹿児島県内での攻守が逆転します。登文は頭部に負傷しますが、戦闘の状況や負傷の程度はよく分かりません。

 

 

 

明治10年(1877728日、登文は中尉となり、4旅団伝令から総督本部詰に戻りますが、頭部の負傷がまだ癒えず伝令の任を解かれたのでしょう。

 

一方、西郷軍は明治10年(187791日、決起してから6ヶ月。政府軍の包囲網を破り鹿児島に戻ります。2月に決起したさいに鹿児島を出発した時の兵力は13,000、この日、鹿児島に帰りついたのはわずか400人たらずだったと伝えられています。

 

 

 

ここで、少し脱線!!

 

何回か前の拙ブログで、「長町ひるさがり―南州翁の首―」で紹介した平成8年(1996)の月刊アクタス4月号(北国新聞社発行)の石川近代史発掘・迷宮の旅の「七連隊・千田中尉西南戦争の秘話、西郷の首を拾った男」では、事実ともフィクションとつかないドラマチックな記述があります。

 

(大野敏明氏の「西郷隆盛の首を発見した男」に書かれている、ゲラの形と言われものを推敲されたものか?かなり文章が違うようです。)

 

 

●迷宮の旅「七連隊・・・・・」の概要1部引用)

明治10年(1877222日、金沢の第7聯隊に出動命令が下り、登文少尉は聯隊旗手として出陣します。以後、田原坂や人吉の戦いで敵味方入り乱れますが、戦闘が小休止状態になる56日に登文は北越戦争で旧知の第2旅団司令長官の三好軍太郎(重臣)から「君は西郷と面識があるから何とか敵陣に潜入し西郷に降伏するよう勧告してくれ」と命令され、刀一本を腰に郷士の姿で夜陰にまぎれ西郷軍の前線に至ります。

 

明け方西郷軍の歩哨に捕らえられ、待つこと1時間。西郷隆盛が現れ破顔で「命懸けできなのだな、千田君。昔と変わらぬ勇敢さだ。・・・」と言い、千田の説得に「気がはやる者ごもは承知すまい。若者があっての拙者だから」といい、さらに食い下がる千田に「山県閣下に伝えてくれ、西郷は若い者に囲まれ元気にやっているとね」そして「・・・・北越のころが懐かしい。武運があれば再会しよう。」と言ったと書かれています。

 

 

迷宮の旅「七連隊・・・・・」では、次回書く「西郷の首発見」にも、千田登文の「履歴書」とは随分違いがあります。また、田原坂の戦には第7聯隊派参加していなのに参加したように書かれていたり、各所に幾つか史実にも合わない記述が書かれています。

 

また、西郷軍が熊本から人吉に撤退しているが、もし、登文が西郷説得に動いたのはこの時期だったと思われます。それが事実だとしたら「履歴書」に書かないはずがないし、婿の今村均大将の「今村均回顧禄」にも書かれていません。どこまでが史実でどこまでがフィクションなのか、よく分かりません。

 

月刊アクタスの記述「迷宮の旅の「七連隊・千田中尉西南戦争の秘話、西郷の首を拾った男」は、作者の大戸宏氏は隣家で親しくしていた千田家に取材しゲラの形のような文章を残していたことは確かですが、ドラマチックに書かれたこの文章は、あくまでも小説として書かれたもののようです。

 

 

千田登文の「履歴書」とは、自身の生い立ちから、戊辰、西南、日清、日露の戦争状況など、また、登文の人物や考え方、そして近代陸軍を代表する軍人一家が書かれた自叙伝です。明治295月から7月まで過去をさかのぼり書かれ、7月以後は死の前年の昭和3年まで、毎年、これを書き進められたものと思われます。その和綴じ100ページほどの「履歴書」を、登文が義理の大伯父に当たる作家大野敏明氏で登文の3男で祖父にあたる北川三郎氏を題材にした平成255月の「切腹の日本史」を上梓するにあたり、「履歴書」が金沢の千田家に保管されていることを知り、読み解く許可をえて、「履歴書」の登文の強いくせ字で時間と労力を費やし読み解かれそうです。

 

 

(つづく)

 

参考文献:「西郷隆盛の首を発見した男」大野敏明著 株式会社文芸春秋 平成262発行

 

千田登文と西南戦争③西郷の首と生存説

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【鹿児島・金沢】

「西郷の首」は明治10年(18779月の鹿児島城山の戦いで、西郷が切腹した後に、政府軍の将校(千田登文中尉)によって発見され政府軍の指揮官だった山県有朋らによって首実検が行われ、胴体とともに鹿児島市の西郷南洲墓地に埋葬されたといわれています。しかし、その首は西郷の首ではないという説が出て、西郷自身の生存説も広まり、100年もの間、その首が本物だとする専門家と偽者だとする専門家がいて、西郷の首の真贋について論争が起きていたらしい。

 

 (桜島・山澤忠浩画)

 

(日本の歴史では、惜しまれた人物ほど「実は死んでいなかった」という説が後世に残されたりします。その典型的人物は、源義経、豊臣秀頼、真田幸村などがあり、西郷も民衆に慕われていたことなどから、西郷が海外に逃れて生き延びていたという説が当時多数流れたといいます。)

 

拙ブログ

長町ひるさがり―南州翁の首―

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12328914166.html

 

 

≪西郷隆盛生存説≫

明治維新より西郷の人気は絶大で、城山の戦い後に「中国大陸に逃れて生存している」というのが広まり、旧薩摩藩の西郷を慕う者を中心に元士族達の間から生存伝説があり、明治から大正にかけて西郷隆盛生存説は庶民にも流行り、“ロシアで生存しており目撃者がいるとか、ロシアの戦艦に乗って帰国する”と言われていたそうです。

 

明治24年(18895月、日本にロシアの皇太子が訪れます。当時のロシアは超大国。機嫌を損ねまいと日本は国を挙げて皇太子を歓迎します。その想いが高じたのか、ニコライ2世の来日に西南戦争を生き延びた西郷隆盛が同行するとの噂が囁かれていたそうです。

 

 

  (西郷隆盛)

 

ニコライ2が滋賀県の大津市で、護衛に当たっていた津田三蔵巡査にサーベルで斬りつけます。大津事件です。ニコライ2は軽傷ですみます。斬りつけた津田は、元は西南戦争で政府軍の伍長で、当時、滋賀県警に奉職し護衛に当たり事件を起こします。斬りつけた動機として、死んだはずの西郷隆盛がロシアに逃げ延び、帰国することで津田西南戦争での功績が取り消されることを恐れて、犯行に及んだという説が実しやかに伝えられています。

 

また、当時約15年で大接近する火星のスーパーマーズが話題になり西郷星と呼び、火星を望遠鏡で見ると軍服姿の西郷が見えると評判になったといいます。

 

 

 

それから西郷の死を明治天皇も悼むところから、維新以来の政争の勝者の中には西郷の生存に怯える者、そして西郷に例え逃亡者となっても生きていて欲しいと思う者達もあり、西郷生存への願望が生存の噂を生み、西郷の生存を望まない者は疑心暗鬼に陥ったと言われていたらしい・・・。

 

その生存伝説が、真っ赤な嘘だったことが金沢で最近発見された金沢の陸軍歩兵第7連隊の中尉千田登文の「履歴書」で明らかになりました。この「履歴書」は、大正の末から昭和の初期にかけて、陸軍に提出するために書いたもので、その中に「西郷ノ首ナキヲ以テ、登文ニ探索ヲ命ゼラル」「探索ヲナシタルニ、果シテ門脇ノ小溝ニ埋メアルヲ発見シ、登文、首ヲ●(もたら)シテ、浄光明寺ニ到リ山県(有朋)参軍、曾我(祐準)少将ニ呈ス」ときわめて具体的に書かれています。

 

「履歴書」の記述によって、発見、埋葬された首が本物であることがはっきりした分けです。

 

 

  (島田一郎)

 

上記、千田登文の「履歴書」の記述がある「西郷隆盛の首を発見した男(大野敏明著)には、登文の竹馬の友島田一郎が西郷の盟友大久保利通を暗殺するという運命の皮肉とも言えいえる紀尾井町事件や日清、日露と登文の戦争の歴史がこと細かく書かれ、明治39年1月(59歳)、正六位に叙せられ、その年の4月、旧藩時代は、お目見えも許されなかった旧主家の16代前田利為の結婚式に招かれ感無量だったと思うと書かれています。

 

また、千田登文は子宝に恵まれ、4人の息子は全員が陸軍士官学校に入り、娘婿4人のうち3人までが陸軍士官学校、陸軍大学校を優秀な成績で卒業したエリートで、長男登太郎が戦死、3男の木村三郎は切腹するなど軍人一家の波乱に富んだ生涯が記述され、巻末には千田登文関係系図や略年表が付けられています。

 

著者大野敏明氏は、陸軍を専門とする戦史研究家で、あとがきで登文の3男(木村三郎)が筆者の祖母の姉の夫だということを明かされています。不思議な糸に導かれるように著者がこのテーマに取り組んでいったことが分かります。

 

「西郷の首を発見した男」は、金沢の幕末から昭和初期に生き、戊辰、西南、日清、日露の戦争で活躍した郷土の偉人千田登文とその軍人一家の話です。今のご時勢、軍人は誰も偉人とはいいませんが、私の認識では郷土の偉大なる人物の一人です。前回の小説「西郷の首」と会わせて、是非、ご一読を・・・。

 

      

 

著者:大野 敏明(おおの としあき)昭和26年(1951)東京生まれ、学習院大学法学部卒、日本の評論家で現在産経新聞編集委員、亜細亜大学、国際医療福祉大学各講師。主な著書は「知って合点 江戸ことば」「日本語と韓国語」(以上文春新書)、「歴史ドラマの大ウソ」「坂本竜馬は笑わなかった」(以上産経新聞出版)、「新撰組 敗者の歴史はどう歪められたのか」「日本人なら知っておきたい名字のいわれ・成り立ち」「切腹の日本史」(以上実業之日本)など。

 

参考文献:「西郷隆盛の首を発見した男」大野敏明著・株式会社文藝春秋・平成262月発行・金沢小説小品集Ⅱ「長町ひるさがり―南州翁の首」北国出版社 昭和53年(19784月発行(「南州翁の首」は、昭和33年(195812月・大戸宏著)迷宮の旅「七連隊・千田中尉西南戦争の秘話―西郷の首を拾った男―」大戸宏著・月刊アクタス平成 8年(1996 4月号)北国新聞社出版局発行、他

版籍奉還と金沢藩

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【石川県・富山県】

明治2年(18696月、加賀藩は版籍奉還により「金沢藩」と呼ばれるようになります。当時、加賀藩主前田慶寧公は、「近年、藩土奉還(版籍奉還)の裁きがあるが、もとより当家においても望むところであるから、奉還の天裁を仰ぎたい」と版籍奉還を願い出ています。これにより藩知事となり、ひとまず藩主同様の地位が認められます。新政府は藩知事に対し、治政上の改革を命じ国号を持つものは、みな階位を持って呼ぶことにし、慶寧公は従三位なので従三位(じゅさんみ)“というふうになります。また、藩知事の家禄を旧藩の石高の十分の一とし、個人と藩の財政が分離されます。

 

 

 (金沢城石川門)

 

版籍奉還(はんせきほうかん)は、明治2年(1869617日(旧暦725日)から、明治新政府が行った藩解体政策で中央集権化事業の第一歩でした。諸大名から天皇へ領地(版図)と領民(戸籍)が返還されます。 木戸孝允と大久保利通らの画策により、まず薩長土肥の4藩主が奉還し、他藩もこれにならいます。 政府は全国の支配権をその手におさめ、藩主を藩知事に任命、以後、廃藩置県など中央集権化を推進します。これはさきに徳川慶喜が行った大政奉還の大名版で、将軍家の徳川家が実権を放棄したのに、諸藩に責任を負わすのは限りがあるので、版籍(領地・領民)とも差し出して、明治新政府の統制下の置くことにしたものます。)

 

 

(戦前まで兼六園にあった慶寧公の銅像)

 

金沢藩でも中央の官制改革に応じ職制も改め執政・参政を廃し、大参事、小参事など、給禄も藩士の家禄3000石以上は十分の一、以下百石までのあいだを、斜線式計算法により逓減するというものとし、百石以下はそのままとします。

 

 (今、復元中の鼠多門)

 

しかし、版籍奉還後の金沢藩政は、戊辰戦争による軍事的支出からの藩財政が逼迫し立て直すことが目標となります。藩の軍事力縮小や秩禄処分の前倒しとも言える「禄券法」を含む改革を導入しようとしますが、このような急進的な改革を進めようとしたことが、かえって藩内の摩擦を生み、中下級士族たちの反対派が台頭し、彼らが藩政の中枢を掌握することになります。

 

その頃には藩の中下級士族の生活は、幕末期以来厳しい状態になり、特に金沢は士族人口が多く、版籍奉還後の家禄を大幅に削減する禄制改革で、大半の士族が生活は窮乏し、事態は次第に深刻化していきます。

 

 

(長町武家屋敷)

 

このように武士階級凋落は、武家屋敷も様変わりします。明治初年の文書では、加賀八家の本多殿や長殿などの下屋敷の地面は上地になり、入口、木戸、番所残らず取り払われ、人持衆の屋敷、建物も壊したり、売ったりとさまざまだったと書かれています。

 

 

 (長町武家屋敷)

 

お城も一部士官を養成する斉勇館が設置され(明治4年より兵部省管轄)惣構も不用になり、西丁橋、十間町橋から袋町橋などは取り払い、土居は崩れて埋め、立木も伐られ、少々の溝をこしらえ、洩れ水を通してありました。それから13代前田斉泰公は、金谷御殿に居られました。

 

  (鼠他門を渡ると金谷御殿)

 

この前後、香林坊や極楽橋、小橋あたりの情景が一変し、城下のお歴々の屋敷も変化します。今枝殿元屋敷は、卒族方(旧足軽)の役所、横山殿は大隊屯所、奥村殿は大隊屯所、村井殿は士族の稽古所、前田土佐殿は切り売り、今枝殿は卒族方役所、津田殿は医学所、成瀬殿は壊し売り、前田万之助殿、内蔵之助殿、深見殿、松平大弐殿、篠原殿、青山殿、多賀殿、織江殿、寺西殿ら、目も当てられぬ事也とあります。

 

(津田殿の大手町の医学所・現在、兼六園に移築されています)

 

その頃の従三位藩知事慶寧公は、本多家上屋敷に入り、長殿の上屋敷が藩庁になり、毎日、九ツ時(12時)より七ツ時(16時)まで出席されます。道筋は広坂より坂下、堂形馬場通り、金谷へ入り、七十間御門より不明(あかず)御門を経て藩庁へ行かれ、少々の御供廻りで、雪の日は石浦通りへお出になられたとあります。

 

≪版籍奉還の経緯≫

明治元年(186811月に姫路藩主の酒井忠邦から版籍奉還の建白書が出されます。その背景には藩の財政悪化や戊辰戦争における藩内の内紛もありました。実施に当たり新政府の木戸、大久保ら薩・長・土・肥の実力者が、それぞれの藩主を説き伏せ、4藩主連名で奉還を上奏されます。版籍奉還には、諸藩の抵抗も予想され、実施に際し、その意義については曖昧な表現で諸藩代表に同意を求めます。賛否両論が伯仲(賛101藩、否102藩)し、このため藩の中には「将軍の代替わりに伴う知行安堵を朝廷が代わりに行ったもの」と誤解する者もあり、版籍奉還は、大した抵抗も無く同意されます。しかし、当時の全国の石高は約3000石、政府直轄地(府、県)とした旧天領や旗本支配地等から四分の一の約860石。差額の2140石(藩)は、新政府の所有には違いありませんが、これらの石高は藩によって消費され、大蔵省に納入されない「府藩県三治制」で、国も藩も財政に追い込まれます。

 

(1百間堀と石川門)

 

しかし版籍奉還になったものの藩制度がそのまま残り、それぞれの藩は独立して機能し、例えば、年貢徴収法が地方によって異なり、軍制も国に兵権が集中する分けでもなく、2年後、さらに中央集権が徹底される「廃藩置県」行われます。

 

(版籍奉還さらに廃藩置県は、士族の頼みの綱である家禄が、明治9年に秩禄処分で武士の俸禄制度は撤廃され、廃刀令の施行などで士族の身分的特権も廃され、やがて起こる士族の反乱の遠因でもありました。)

 

秩禄処分:士族の特権であった禄を強制的に取り上げ、期限付きでわずかな利子しか受け取れない公債に替える急進的な改革で全てが回収されました。当時士族は、家族を含み人口のわずか6%程度で、何の官職につかなくても国家財政の40%弱を受け取ることには批判があり、藩主への忠誠と武力の提供と引き換えに禄を受け取るという概念が形成されていましたが、明治維新後は、地租改正により農民の土地所有権が国家によって承認される一方で、士族の土地所有権は否定され、士族による武力の独占が徴兵令で失われ、士族自身も近代国家建設のため旧特権を廃止することを理解するものいました。一方で、旧藩主階級は公債額の算出根拠となる家禄が旧藩収入の十分の一とされるなど優遇され、華族となることで様々な恩恵を与えられ、また、東京居住を強制されることから旧家臣団から切り離された中で、秩禄処分は極めて抵抗が少ないところで実行されました。

 

参考文献:「幕末維新加賀風雲禄」戸部新十郎著 株式会社新人物社 19977月発行・外

本多政均暗殺と仇討ち①暗殺まで

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【金沢藩・金沢城】

本多播磨守政均(まさちか)は、安政3年(1856)に兄政通が夭折したため五万石の家督を継ぎ、万延元年(186023歳の若さで加賀藩城代に任じられ、藩主前田斉泰公の信頼が篤く、政均は、「梅鉢海軍」と俗称された加賀藩海軍の建設に熱心に取り組むなど、西洋軍制の導入をはじめ改革を積極的に推し進めます。

 

 

  (金沢城石川門一の門、二の門)

 

しかし、尊皇攘夷派と鋭く対立し、元治元年(1864)に元治の変(禁門の変)が起こると、尊攘派の中心だった世嗣前田慶寧公を謹慎とし、藩内の尊攘派を放逐し過酷な処分を行い、藩内に遺恨を残します。明治2年(18696月、加賀藩の14藩主前田慶寧公は、版籍奉還に踏みきり、新政府から藩知事に任じられ、本多政均は、加賀八家で執政という地位にありました。

 

  

  (本多政均)

 

(版籍奉還前の加賀藩執政は、前田直信、奥村栄通、村井長在と本多政均の4人の合議が建前なのに、何事もほとんど政均の独断で決まったという。)

 

拙ブログ

本多の森の主!!初代本多政重①

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12307867414.html

本多の森の主!!初代本多政重②

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12308648536.html

大弐が死んで、何と庄兵衛!!

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11308900520.html

元治の変(禁門の変)ほか

 

版籍奉還により、執政は藩知事の下に一人限りの大参事になり、一人となれば現状では政均となり、ますます政均が発言力を持つことになるのを恐れ、その専横ぶりはより一層強まることを危惧した不平士族らによって計画され、山辺沖太郎(三等上士嫡男27歳)井口義平(一等中士22歳)により、明治2年(186987日に金沢城二の丸御殿の廊下で暗殺されます。ときに政均32

 

(明治2年(1869326日。版籍奉還のより加賀藩は金沢藩になり、政府は藩知事に対し、治政上の改革を命じ、国守を持つものは、みな位階を持って呼ぶことにします。また、従来の職制が改定され、藩主は藩知事に、執政・参政を廃し大参事(一名)・小参事(複名)としこれが藩知事を補佐して政治にあたることになります。そして、旧加賀八家は上士上列、人持組は一等上士、頭役および頭並を二等上士、平士は三等上士、与力は一等中士、徒歩は二等中士、徒並は下士と改称した。)

 

  

  (本多家上屋敷跡)

 

しかし、その本多政均が暗殺された理由がはっきりしません。一説には明治維新前後の藩政の舵取りで、佐幕派と尊王攘夷派、革新派と保守派による複雑の対立が本多政均の暗殺に繋がったといわれていますが・・・?

 

それを裏付けるものとして、今は残っていませんが、2日前の5日夕実行者2名を含め同志7名が酒の席で読み上げた「斬奸趣意書」が有り、現在、語り継がれているのは、事件の口述書で、暗殺に至る動機として以下が伝えられています。

 

  1. 政均は自己の権威をほしいままにし、藩侯斉泰・慶寧の英明をおおい隠してきたばかりでなく、慶寧公を退穏させようとしたこと(加賀藩の勤皇派の大部分は慶寧側近で、政均は、その様に噂されていたかもしれない)

  2. 政均は藩内に高岡藩を興し、自らその藩知事になろうとしていること。(風聞にすぎないが、幕末維新時、尾張藩のように立藩ないし分藩を試みる有力者が実際のいて、本多家は5万石の陪臣、後に爵位が家老ならば男爵どまりですが、旧藩主であれば、ひとつ上の子爵を受けることができる?)

  3. 元治の変において志士たちの処刑はやむを得ないとしても、維新に彼らの子孫に寛大な恩典を与えるべきなのに、黙殺していること。(元治の志士たちへの同情か・・・)

  4. 西洋の風を模倣し、古来の弓矢刀剣を廃し、士風をおとしめたこと。(洋風排撃・・・)

  5. 富国強兵の策を講ぜず、財政を逼迫させ、物価の高騰を招き、農民らを困窮させ、ついに反抗心を生じさせたこと。(財政窮乏、農民離反は何も政均一人の責任ではない)

 

このように、口述書から推測される「斬奸趣意書」の内容は、事実とはかなり外れているように思われます。

 

また、このようにも言われています。

本多播磨守政均は、従五位に叙せられたので、本多従五位と呼ばれ、幕末には斉泰公・慶寧公の従い、または代理としてしばしば入京し、加賀八家の中では、若くて抜群の進歩主義といわれ、常に論客を集めて時事を論じたといいます。

 

 

(本多家中屋敷の霞ヶ池)

 

事件後の人物調査書によると、「不学無文だが、性敏捷、国事の尽力して怠ることなく、私事を顧みず、斃(たお)れてのちやむの気概がある。」藩知事も信頼していたし、「執務中、とかくに失態はなかった。」ただし、治政の実権はほとんど彼の手に握られていたため、維新の混乱紛糾しがちな状況を「政均の仕業として誹謗するものが多く人望無く、憎まれていたようだ」といわれています。

 

 

(本多家上屋敷跡)

 

"不学無文“というよりも、若さ故に系統だった学問がなかったのかもしれないし、一方では将来の才気と時勢を見抜く眼や、回転の利く頭脳の持ち主であったと思われます。また、人の出入りの多いことが、かれが党をつくり、陰謀を企む証拠だと疑い、あるいはことさらに言い立てる者がいたのかも・・・。しかし、政均自身は、まったく意に介することはなく、人に寄っては傲岸不遜と映ったのでしょう。

 

この様な理由で事件が起こったのでしょうか!!謎の権力闘争・・・?事実かフィクションか?

 

(つづく)

 

参考文献:「加賀風雲禄」戸部新十郎著 株式会社新人物往来社 19977月発行「明治忠臣蔵」中村彰彦著 株式会社双葉社 199512月発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金澤文化協会 昭和172月発行他

 


本多政均暗殺事件と仇討ち②陰謀説と事件

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【金沢藩】

「土佐さん、はようらと出ておくれ、安房餅ゃしだいに、手に合わぬ」

(政均の政治のやり方は適切ではなく、早く前田土佐守が出てきて、政均にとって代わって欲しい。という意味らしい・・・)

 

(石川門)

 

その頃、政均は世間ではよく思われていなくて、このような狂歌が流行っていたそうです。土佐さんは加賀八家の前田土佐守直信で安房餅の例えは本多播磨守政均です。代々本多家の国守号は安房守を名乗る者が多かったが、政均は播磨守ですが安房餅にされたようです。

 

 

(本多政均)

 

当時、久留米藩や刈谷藩、高松藩でも執政が討たれています。その理由は一つではなく、攘夷・佐幕で揺れ動いた後遺症や各人の不徳もありますが、執政が藩士にとって不都合な施政を行う立場にあったと言うことが大きな理由のように思います。

 

(加賀藩では、武士の中に細分化した身分があり、八家(年寄)、人持、平士、与力、御徒、同心、足軽の7つからなり、八家は最高位で藩政の執政役に選ばれ月番・加判の職に付きます。「月番(御用番)は、月交代で藩政を主宰する」「加判は藩政についての審議に参加し月番が起草した文章に署名をする」というものです。八家の半分の四家が従五位下に叙せられます。また、国守号がゆるされ、藩から執政役を命じられます。幕末から明治維新は前田直信、奥村栄実、村井長世そして本多政均です。版籍奉還以後は執政(1人)参政(数人)になります。)

 

 

 (城は石垣ではなく独裁か?)

 

しかし、この事件には、政均を排除するよう前田土佐守直信が沖太郎等をそそのかしたふしがあるといわれています。土佐守と元家老の青山将監が、斬奸の後に乗り出し善後処置を講じることを黙契していたらしい?しかも、新政府の後に右大臣になる岩倉具視の教唆によるものだと囁かれています。これは暗殺に関与し本多義士の追っ手から近江に逃げた元藩士岡山茂が残したものからも窺えるそうですが、真相は、未だに歴史の沼に埋没しています。しかし真実は・・・?

 

(慶寧公)

 

こんな話を打ち消すかのような話が伝えられています。当時の金沢藩知事前田慶寧公は黙っていなかったといわれるもので、犯行の翌日、政均の改革は自分の意に沿うものだと強調した上で、「今後は心得違いをすることのないよう、一同に強く申し諭しておく」と家臣に命じています。

 

 

 (暗雲が・・・)

 

≪暗殺事件のあらまし≫

明治2年(186985日、版籍奉還から約2ヶ月後、本多政均の暗殺をもくろむ若い藩士が彦三5番丁の三等上士岡野判兵衛の屋敷に集まります。山辺沖太郎、井口義平、多賀賢三郎、菅原輔吉、土谷茂助、岡山茂そして岡野悌五郎の7人で、その他の同志は、上坂丈夫、松原乙七郎、石黒圭三郎、岡野外亀四郎らで、それぞれの都合で欠席しています。

 

 

(金沢城橋爪門)

 

本多政均を何故殺害するのか、その理由を書いた「斬奸趣意書」の草稿を書いたのが土谷茂助、清書したのが多賀賢三郎でした。暗殺は6日か7に決まり、5日の密議では、暗殺者2人の人選。当たりは黒点の印がついたかんぜよりくじ引きです。当たったのは山辺沖太郎と従兄弟の井口義平で、いずれも一党の発起人でした。くじが外れた同志は口々に残念がりますが、中でも兄が元治の変で逼塞になり、政均への恨みを抱いていた、この屋敷の岡野悌五郎が一番悔しがります。

 

その日は、準備万端整い、同志らは多賀賢三郎の屋敷に集い酒を酌み交わします。翌6日、山辺、井口2人は堂形前(今、しいのき迎賓館前)で落ち合い、堂形前から石川門の間を行ったり来たりします。朝四つ(午前10時)先歩2人、輿の支え4人、輿の脇13人、後方1人、他、槍持ち、草履取りなど総勢20人余り、若い井口は石川門に入る前に切ろうと山辺に迫りますが、沖太郎は、“万一われらが本懐を遂げられず斃れたならば、同志は一網打尽にされ、政均の悪政は変わることが無い!!”と井口を諭し、翌87日に再度決行することにします。

 

 

(二の丸図)

 

翌日7日。山辺と井口は、石川門に近い百間堀から政均の行列が歩んでくるのを確認し、山辺は井口を促し、二の丸の裏式台から廊下へ出て御廊下へ、やがて政均は一人で長さ20間(36m)廊下3分の2は帯刀で、あとの3分に1を腰から刀をはずし手に持って歩いてきます。2人はさっと左右に分かれ、黙って立礼をし、政均は軽い会釈。2人の間を抜けようとしたその時、山辺は脇差しを抜き駆け寄り、脇差を左脇腹に突き立てました!!

 

(つづく)

 

参考文献:「加賀風雲禄」戸部新十郎著 株式会社新人物往来社 19977月発行「明治忠臣蔵」中村彰彦著 株式会社双葉社 199512月発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金澤文化協会 昭和172月 「尾山城魔界」正見巌著 北国新聞社 201311月 発行他

 

本多播磨守暗殺事件と仇討ち③暗殺事件始末

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【金沢藩・金沢県】

山辺は、真っ向から政均の頭を打ち、井口は、がっくりとうなだれた政均の首を引き斬り、返り血を浴びた刺客は止めを刺そうとしたとき、徒歩目付け3人が駆けつけてきて大声をで制した。山辺と井口は本意を遂げてその場に座りこみ下知を待ちます。政均は屏風囲いに寝かされ御医者黒川良安の診察をうけ、城内では石川門や河北門を閉ざし一切の出入りを禁じました。一方、藩知事慶寧公は、政均の女婿の長成連を本多家に遣わし、軽挙妄動を慎むよう、一門・老臣に懇諭させます。

 

 

(石川門多聞櫓)

 

夕方には執政前田直信、参政前田内蔵太を遣って弔詞を述べ、嗣子資松(当時6歳)の遺領相続を伝えます。本来、主人が横死したところは、事の委細に関わらず、家名断絶の決まりがあるが、特別に5万石がそのまま資松が相続することになり、本多の家臣らを安堵させ、事を構えさせないための熟慮の処置がとられたことからも、藩知事慶寧公は本多家には気を遣っていたことが窺えます。

 

 

(本多上屋敷跡)

 

翌日には、菅野輔吉、岡野悌五郎、多賀賢三郎、松原乙七郎、岡山茂が連累者として捕われます。斬奸趣意書を書いたと言われる土谷茂助は捕吏が行く前に自刃し、土谷は目的が達成すれば、刺客と同じ死を覚悟していたものと思われます。

 

 

(本多中屋敷跡・版籍奉還後本多宗家屋敷)

 

彼らの取調べは、新政府の警察機関弾正台から大巡察、小巡察が東京から出張してきます。これらの役人あてに市民からの陳情書が出されていました。それらは山辺らの所業を擁護するもので、政均を誹謗する内容でした。

 

一方、本多の家臣らの憎しみは募り、政均の従兄弟にあたる本多弥一(25歳)を代表に140人が連署した嘆願書が藩庁に提出されます。嘆願書には“山辺、井口は主人を暗殺した者であるから取調べした後には身柄をこちらへ下げ渡してほしい”というもので、叶わぬときは“せめて首をはねる役目を本多の家臣にしてほしい”10数回のわたり嘆願するも聞き入れられなかったと言われています。

 

 (本多家周辺図)

 

(本多弥一は、本多家8代安房守政礼(まさつぐ)の3男伊織政醇(まさあつ)を父とし、殺された政均の従兄弟。嘉永2年(1849)政醇(まさあつ)から家督を相続し、本多家の分家で家禄500石。明治維新以降は分家をくだって本多家の家臣の身分で、宗家の家老を勤めています。)

 

一同の刑が定まったのは明治4年(1871214日です。刺客の山辺・井口両人は自刃を命じられ、他菅原輔吉3年間の自宅禁固、多賀賢三郎、岡田茂、岡野悌五郎70日間の自宅禁固に処せられます。

 

前日の13日、藩知事慶寧公が本多弥一に対し"新政府では、いかなる事情でも復讐をしてはならないことは刑典で定められている事からも、あえて行うならば天皇に背くことになり、藩知事も資松も責めを負うことになるので、家臣を懇切に諭すよう“と言われていました。

 

 

(本多宗家の屋敷・版籍奉還が前田慶寧公が御住居)

 

しかし、弥一は藩知事慶寧公の説諭に心を動かすことなく、その日、弥一は家臣200人を自宅に集め藩知事より説諭された事を伝えます。そして弥一は“藩知事は職掌柄やむをなくおっしゃったこと、新法典は我々にどの様な罪を与えようと恐れない、先主人の恩顧に報い、無念を晴らすのは武士の本領。武家社会の美徳である。”と述べ、数100人の家臣が選ばれ刑獄寮(今の地方裁判所)に乗り込み牢に繋がれている山辺・井口を引きずり出し殺害しようと言うことになり、家臣らが雄叫びを上げたといいます。

 

(刑獄寮跡・今の地方裁判所)

 

ところが、貧民姿で刑獄寮周辺を探っていた家臣が、山辺・井口両人の処刑が終わった事を伝えてきます。集まった家臣たちは"仇討ちは自然消滅だ“と意気消沈しうなだれ去って行きますが、それを見送る本多弥一は、復讐への思いは失ってはいませんでした。

 

(つづく)

 

参考文献:「加賀風雲禄」戸部新十郎著 株式会社新人物往来社 19977月発行「明治忠臣蔵」中村彰彦著 株式会社双葉社 199512月発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金澤文化協会 昭和172月 「尾山城魔界」正見巌著 北国新社 201311月発行他

 

本多播磨守暗殺事件と仇討ち④仇討ち

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【金沢県】

明治4年(18717月、金沢藩は金沢県に変わります。その頃、県庁は長町の長家の屋敷にあり、岡野悌五郎多賀賢三郎70日の禁固刑を経て、県庁の役人小属(判任官12等兵隊の位で言うと軍曹)に任じられていました。

 

 

 

明治4年(1871714日、政府は廃藩置県の詔書を発布します。太政官が金沢藩庁に与えた文面は、

御沙汰書

今般判を廃し県を置かれ候については、おって御沙汰候まで大参事以下これまでの通り事務いたすべき事。

 辛年七月

これによって、300年の歴史を誇る金沢藩(加賀藩)は地上から消滅し、あらたに金沢県が成立したので巣。)

 

 

 

一方、本多家側は、最盛期約300人がつめかけ大焚き火を焚いた本多弥一の庭も今は嘘のように、「読書会」と称し集まるものも弥一を入れて15人になっていました。

 

 

 

本多弥一(26歳)本多家家老500石、矢野策平(45歳)近習兼剣道指南50石、西村熊(23歳)近習加用役100石、鏑木勝喜知(31歳)中小将組家老席執筆役、富田聡(21歳)給人組・近習加用役衣服料13俵(父本多家家老300石)舟喜鉄外(31歳)中小将組・扈従役、10俵、浅井弘五郎(24歳)中小将組・近習役10俵、吉見亥三郎(22歳)徒組・小将列、芝木喜内(29歳)徒組・近習手水役、広田嘉三郎(23歳)徒組・手水役、湯口藤九郎(30歳)足軽、藤江松三郎(27歳)足軽、清水金三郎(24歳)徒組・手水役、島田伴十郎(33歳)足軽、上田一二三(35歳)足軽の以上。

 

 

 

「読書会」に指定された書物は、水戸の藤田東湖の「回天詩史」、浅見絅斎の「靖献言遺言」、室鳩巣の「赤穂義人録」などで、特に尊ばれた書物は、室鳩巣の「赤穂義人録」でした。鳩巣は、加賀藩に仕えて儒者で、赤穂義士の討ち入りを絶賛した学者であり、その著「赤穂義人録」は信頼のおける名著でこの時代まで読み継がれていました。

 

「読書会」は、次第に15人の胸の中では、“これこそ第二の義士たらに、ならねばならない”との思いが燃え上がるようになり、思いを遂げた暁には死につかねばならないと思うようになり、藤田東湖の著作を輪読したのは、自分たちが遠からず死に就かねばならないことを自分自身に納得させていくためでもありました。

 

 

 

しかし、この読書会にも疑惑の目が集まり出し、"本多弥一らは、飽きもせず復讐を計画する場なのではないか?“という噂が広がり、やむなく読書会も中断しなくてはならなります。

 

 

 

明治4年(18711123日、長町の県庁に岡野悌五郎を討つべく、本多弥一以下鏑木勝喜知、富田聡、吉見亥三郎岡野悌五郎の退庁を待ち受け襲う、応戦中、悌五郎が溝の落ちたところを、一同で刺し殺し、直ちに県庁へ自首しました。同行した清水金三郎は岡野襲撃を見て、直ちに菅野の討手に報告のため加わらなかった。

 

 

 

同日、矢野策平、舟喜鉄外、西村熊、浅井弘五郎、広田嘉三郎、湯口藤九郎、清水金三郎7人が小立野与力町の菅野輔吉の自宅で討つ。輔吉は、槍の名手で、応戦するが、前後から斬られて斃れた。一同は首を政均の墓所の方角に向って捧げ、県庁へ自首します。また、輔吉は句読を教授していたので、弟子たちが刃向かってくる場合を予測して人数を多くしたという。

 

 

 

これより先、関西視察に出張した多賀賢三郎を追跡していた芝木喜内、藤江松三郎は長浜で追いつき、1124日、これを刺殺して、彦根県へ自首し金沢に移送されます。

 

 

 

ほか松原乙七郎ら出国者を追跡した島田伴十郎、上田一二三は、果せぬまま、当初の目的3人を打ち留めたことで満足し、この復讐は終わりました。

 

(つづく)

 

参考文献:「加賀風雲禄」戸部新十郎著 株式会社新人物往来社 19977月発行「明治忠臣蔵」中村彰彦著 株式会社双葉社 199512月発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金澤文化協会 昭和172月 「尾山城魔界」正見巌著 北国新社 201311月発行他

 

本多播磨守暗殺事件と仇討ち⑤最後の仇討ち

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【金沢県・石川県】

“かれらこそ第二の赤穂浪士、いや「本多義士」と称えられてしかるべきだ”という感想を抱く者は、県庁の上層部にも少なくなかったと伝えられています。しかし、御一新の時代では、表向き義勇の武士として誉め称えられず、新しい法典によって裁かれることになります。

 

 (大乗寺総門)

 

それでも、囚われた15人は尻垂坂(兼六坂)通りにある刑獄寮の獄舎に繋がれ、一般の囚人とは違う待遇で特別扱いの未決囚でした。面会は許されないももの、文通や差し入れ品の授受は黙許され、定期的には刑獄寮の庭を散策することも認められていました。

 

 

 

15人にとって死は覚悟の上のことですから、時々取り調べで呼び出され口述書を作成する時と散策の時間以外、獄中で静かに読書をしたり絵を描いたり、歌会や句会を開いたり辞世を考えたりして判決の下るのを待つだけの日々でした。

 

 (大乗寺山門)

 

1年間、獄中で過ごした15人に判決が下ったのは、金沢県が石川県に改め、県庁が石川郡の美川に移つされてから9ヶ月後の明治5年(1872111日でした。

 

判決は、本多弥一以下12人は自裁を仰せつけられ、世襲俸禄のものは子孫に給うべく候というものでした。伝令役で、菅野輔吉邸に駆けつけたあと門外にあった清水金三郎は、禁固10年。島田伴十郎と上田一二三は禁固3年を仰せつけられ、この日、明治5111日は金曜日で、弥一以下12名の切腹は、週明け114日月曜日の午後2時からと定められます。

 

 

  (大乗寺十二義士墓所)

 

12人の遺体は、その日の内に引き渡され、刑獄寮に集まった遺族の中に、盲目の老婦人がいました。その白髪髷の老婦人は芝木喜内の母で、筋張った両手で柩を愛しそうに撫でさすりながら、「ああ、喜内よ、そなたはまことに忠臣や、いや義士や、そなたが仇討ちに加わってくれたからこそ本多家に恩返しが出来た、ご先祖さまにも面目が立ったというものや、それに、そなたが盲目の母に後ろ髪を引かれなかったことが、何よりうれしくてならぬ、早う冥土のお父上のもとにゆき、事の次第を告げなされ・・・・」

 

の言葉に獄吏のほか11人の遺族たちは、寂として声もなく老婆を見つづけた。そして、この日から本多弥一たち12人を誰からともなく、「十二烈士」と呼ぶようになった。と作家中村彰彦氏は、「明治忠臣蔵」でお書きになっています。

 

 

  (本多宗家の墓所)

 

しかし、このほかに烈士と呼ばれる男がいました。その男は115日朝、大乗寺の政均の墓前で十二義士の負けじと追腹を切った元本多家中小将組のひとり竹下卯三郎です、卯三郎は、山辺・井口両名が切腹刑に処せられたころ、弥一を訪れ、同志に加えてほしいと決死の面持ちで訴えたというが、本多家家臣の養子となって日が浅く、どのような心情かよく分からないということら、弥一はその願いを聞き入れなかったという。また、元本多家家臣の諏訪八郎准中尉は、明治4年(1871 1212日自殺したという。原因は本多政均暗殺者の一党と目された石黒圭三郎(後の桂正直)の所在探索を同志から託されたが、不成功に終ったことを恥じたものと見られています。

 

 (上田一二三ほか四基の墓)

 

(大乗寺の本多家墓地の十二義士の墓の傍らに大正三年(1914)八月有志建之、上田一二三、島田十方?(伴十郎)、清水金三郎?ら五基の墓がありますが、一人は墓石に竹下直久(卯三郎)もう一人は諏訪○○が見えます。天気が良くなったら確認に行ってきます。)

 

 

  (大乗寺法堂)

 

藩政期の武士は、義、勇、仁、礼、誠の徳目は名誉を深く重んじる身分に伴う義務で、特に「義」「勇」は、周りに流されずに正義を守る勇気を持つ者こそ真の武士だと言われていました。そして、死すべき場は死し、討つべき場は討つということから、「仇討ち」は武士にとって崇高な理想であり美徳で、成せば義士と呼ばれ称えられました。しかし、明治の新法典では、「仇討ち」殺人罪と定められ、同じ行為でも正反対へ急転していました。

  

  (本多政均)

 

営々と続いてきた武士道の精神を、新しい法典を乗り越えて命を捨てて守った本多家の家臣たちは、御一新の大変革の浪に翻弄されながらも武士道を貫きます。そして、この事件は、日本の武家社会の終焉に当たり武士による"最後の仇討ち"となりました。

 

その後、明治6年(18732月に敵討禁止令が出され、以後、「仇討ち」は御法度となります。

 

参考文献:「加賀風雲禄」戸部新十郎著 株式会社新人物往来社 19977月発行「明治忠臣蔵」中村彰彦著 株式会社双葉社 199512月発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金澤文化協会 昭和172月 「尾山城魔界」正見巌著 北国新聞社 201311月発行他

小立野の旧百々女木町から木曽谷

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【石引1丁目・宝町・東兼六町】

兼六園から石引通りの中程。ビルの柱に「利家と松の寺宝円寺」が目に入ります。左に曲がると、そこは藩政期、前田家の菩提寺宝円寺の参道でした。今は石引1丁目ですが、昭和39年(1964)までは辰巳用水の分水に架かる橋(百々女木橋)までが上百々女木町と書いて“かみどゞめきまち”。その先さ宝円寺までが、下百々女木町(しもどゞめきまち)といいました。現在そこは、かって与力町と呼ばれていた金大病院や金沢大学の医療保健学類も含めて宝町といわれています。因みに、宝町は宝円寺の“宝”だそうです。

 

 

(石引1丁目)

 

百々女木(どゞめき)!!一寸珍しい呼び名ですが、森田柿園の「金澤古蹟志」によると、昔、辰巳用水の分水に架かる橋から木曽谷に下る水音が、とても激しく轟いていたので、「百々女木橋(どゞめきばし)」といったことによるものらしい・・・。

 

 

(百々女木橋跡)

 

「金澤古蹟志」の”百々女木橋”を要約すると

「大昔、小立野荒野山中の頃は、この橋辺りは木曽谷へ続きたる深谷で、樵人(木こり)が通うため架けた丸木橋で、小立野台が市中になり、両岸を埋め込み、今(明治時代)のように成りました。昔は深谷の谷川で、巌石に打たれ岩瀬の音が轟きで、百々女木町と呼び始めたようで、この橋名は奈良のとどろきの橋と同意にて、「どゞめき」といわれたようです。今、「どんど」と言うのと同じ。「亀の尾の記」にも、この橋の上流に分水の堰あるがゆへに、「どゞめき」というとあります。」

 

(起元2600年記念舗装の標柱)

 

今は、橋はなく舗装された道路になっています。現在、かって橋があった隅の標柱から想像するしかありませんが、標柱には「紀元二千六百年記念舗装」とあるので、昭和15年(1940)の皇紀2600年に橋がなくなり暗渠にし、坂も途中まで暗渠になり橋の名の元となった轟音も聞こえなくなったのでしょう。

 

≪金澤古蹟志”百々女木町”の原文≫

元禄9年(1696)の地子町肝色煎裁許付に、どゞめき近所地子町とありて、どゞどめきの名は橋梁のなより起こりたるものなり、享和3年(1803)幕府へ進達の町名書には、「轟来町」とす。按ずるに、どゞめきを百々女木とかきつものは、越中国射水郡百米木村というあり。この村名をどどめきと呼べり。又能登国鳳至郡に百成村というもあり。百成2字でどうめきと呼べり。これも元はどゞどめきと呼ばれけん。苗字の百々どゞと訓めり。どゞは假字の百々或はの一字を用いるは如何なる由なるか、訓義いまだ詳からず。若し十々の意にてもあるべし。

 

(赤Aは百々女木橋・赤Bは今の木曽坂標柱・赤Cは成瀬の小城)

 

この流れは、昔、辰巳用水が造られた時、天徳院から如来寺、経王寺の周りに堀を巡らし、その余り水小立野台地の百々女木橋から木曽谷へと流したと聞きます。現在は、橋跡から下る坂になり水路は暗渠で、旧安藤町の裏の坂辺りから開渠になります。その先、木曽坂の一部が暗渠で、木曽橋の少し先から開渠になり、そこから、わずかに往時の風情を感じられる風景が現れます。

 

(旧安藤町裏坂辺りから開渠になる)

 

 

(現在、木曽坂といわれているのは宝円寺裏坂下にある木曽坂の標柱から安楽寺まで、昭和7年(1932)、失業対策の一環として開削されたものです。また、この川が名称を源太郎川と言われていますが、その名称は一説によると藩政期、浅田源太郎という橋番が居たので、その名が付いたといわれていますが、川の範囲があいまいで、しかも、その名は、藩政期の郷土史に詳しい「金澤古蹟志」にも「加能郷土辞彙」にも書かれていないのが気になります。)

(裏坂と木曽坂の交差するところのある木曽坂の標柱)

 

(木曽坂の標柱)

(裏坂と木曽坂辺り)

(木曽坂から見える風情)

 

やがて宝円寺の裏坂と交わるところに「木曽坂」の標柱が見えます。そこから木曽坂の道沿いの家々の後ろに小立野台地の北側斜面が見え、右側上方には宝円寺の裏手の崖がそそり立ち、流れは木曽坂の左手の高く聳える紫錦台中学校、北陸学院の裏手の下も雲龍寺安楽寺墓地の間を流れ、安楽寺前から永福寺をかすめて道路を横断し、民家の裏手を掻い潜って進んで行き成瀬の小城で、藩政期、石引の通りを流れる辰巳用水が兼六園の山崎山で分水し霞ヶ滝(現在はありませんが、今の兼々御亭の駐車場あたりか?)から落ちて東外惣構となる流れと合流します。

 

(藩政期、その谷間まさに木曽路の渓谷のような風情があり“木曽谷”に似ている事から「木曽谷」と呼ばれたそうです。)

 

(木曽坂風景)

 

木曽谷伝説:木曽坂城(現宝円寺)は、寿永3年(1184)木曽義仲の討死により、夢破れた木曾義仲軍の樋口次郎兼光の一族が、敗残の身を故郷木曾谷に似たこの地に定住したのだと伝えられています。その子孫は文明6年(1474)の“文明の一揆”で若松の地頭狩野氏と共に富樫幸千代側に付いて敗北したといいます。

 

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 「消された城砦と金沢の原点を探る― 一向一揆時代の金沢・小立野台地周辺考」辰巳明著

小立野の旧土取場

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【石引1丁目・宝町】

「土取場 つちとりばという珍しい町名は、藩政初期、この辺りの土が城や城下の開発のために活用されたことから“土取場”と言われたといいます。慶長4年(1599)金沢城の内惣構と慶長15年(1610)に外惣構を穿った時、両岸の盛り土が不足し、その土を小立野のこの地の土を運び盛り土としたといわれています。今(明治)、この盛り土を知らべて見ると、皆小立野の土だそうで、また古老の伝説によると、犀川川除町の川除の堤防は、本多安房守政重の頃に築かれたもので、この土も小立野の土だといわれています。

 

 

 (土取場の標柱)

 

伝説によると、土取場の土地は慶長の頃、荒地で人家もなく小高い山路で、万治(1658~1659)年間にはその土を使い瓦の製造をした瓦小屋があり瓦土取場と言われていたらしい、寛文4年(1664)頃には瓦小屋跡が畠になっています。畠地の隣、辰巳用水の分流を挟んだ田井村の村地が寛文5年(1665)には藩の命により与力町になり、その頃、土取場に家屋を建ち町地となり、もと瓦土取場と呼ばれていたのを、以後、土取場というようになったそうです。以後“土取場”は、地元の人は親しみを込めて「ツットリバ」と呼ばれていました。

 

 

(安政期の土取場地図)

 

元禄9年(1696)「片岡孫作筆録」に「経王寺近所土取場」が地子町として見えるとあり、文化8年(1811)の家数は187軒で、組合頭瀬木屋甚右衛門組92軒(武家41)同福久屋豊右衛門組95軒(武家45軒)肝煎は孫兵衛。町人の職業は稼ぎが54軒と多く、他には苧絈、大工、石伐などだったといいます。

 

 (金沢大学医薬保健学域の門辺りと旧土取場)

 

文政6年(1823)から明治4年まで土取場を冠する町が8町あり、明治4年(1871)から合併して3町(土取場永町、屏風小路、間の町)が合併し土取場永町(79軒)になり、土取場城端町、一の小路、二の小路、三の小路の4町が合併し土取場城端町(41軒)土取場撞木町(51軒)は、経王寺門前の一部(7軒)を合併します。

 

 

 (旧経王寺門前)

 

明治38年(1905)に、与力町が金沢病院に、明治43年(1910)金沢医学専門学校敷地に土取場の町地の約半分が収用され、明治45年に移転します。そして、昭和39年(1964)には「土取場」の町名が町名変更で石引1丁目になり消えてしまします。

 

(藩政時代の町名:土取場永町(永順寺)、土取場城端町(城端の善徳寺掛所)、土取場屏風小路、土取場一の小路、土取場二の小路、土取場三の小路、土取場間の町、土取場撞木町)

 

(旧土取場の地図・鼠色のところが現在金沢大学)

 

(現在の経王寺)

 

≪隣町経王寺門前≫

此の地は・延宝の地図に経王寺分とありて、経王寺の門前地たり。改作所旧記に載せたる元禄六年十二月の舎付にも、経王寺前とあります。門前地は某寺前と呼なれたが、明治廃藩後、門前地は全てなくなり、経王寺門前は、明治より下鶴間町と呼ばれ、現在は旧土取場と同じ石引一丁目です。現在の町内会は「下鶴間町会」で、因みに旧土取場の町内会は「鳳正会」といいます。

 

 

 (金沢大学医薬保健学域の門辺り)

 

P.S

十数年前、古文書の先生に、小立野を史跡散歩に付いていったら、金沢大学の医薬保健学域の門の前で、土取場の説明が始まりました。何でも、明治43年(1909)からの金沢医専の開設工事で、この辺りを掘り起こした時、戸室石がゴロゴロ出て来たと伝えられていて、それを聞いた時、もしかして?と思ったそうです。50万年前、ここから約10km先の戸室山が爆発した時、この辺りまで火山岩が飛んで来たのではと思ったそうです。果たして火山岩が10kmも?と思いつつ、さらに想像を膨らませると、藩政初期、金沢城の石垣はここからお城に運んだのでは?と思ったそうです。

 

 

 (戸室山)

 

いずれにしても、古文書に有るわけもなく、根拠のない話だと思いますが、ずぅ~と頭の隅の残っていて、今も土取場辺りを散歩するたびに思いだします。

 

 

(金沢城の石垣)

 

戸室山:標高547.8m。50万年前に活動した火山により形成され、角閃(かくせん)石安山岩の山で、赤と青の両色の戸室石を産し、加賀藩は金沢城の石垣、兼六園の庭石、辰巳用水の石管などに用いました。

 

参考文献:「金澤古蹟志 第4編」森田柿園著 金澤文化協會 昭和89月発行

 

小立野の旧河内町・旧三所町「紫錦会」

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【旧河内町・旧三所町】

土取場の北西に位置する旧河内町は、藩政期加賀八家の一つ奥村家の家中町(下屋敷)で、現在、金大病院に入る取り付け道路の石引通り沿い、北陸銀行から別所文玉堂の向い小路(旧三所町)までの約150m、奥行き約50mをいい、明治2年(1869)町立されます。

 

(今の旧河内町・金大病院前)

 

明治25年(1892)旧石引町小学校が開校し、旧永原家の家中町を含む大きな町であったと推測されますが、明治35年(1902)の同校の大増設により人家が移転し、それが河内町の人口減少に繋がったものと思われます。大正11年(1922)以来、旧河内町と旧三所町合同の町会の愛称を「紫錦会」といいますが、その“紫錦が陵”というのは小立野台の愛称でもありました。戦後、金沢二中跡が新制中学校になったとき、紫錦台中学校としました。

  

 

 (河内町の石柱)

 

河内町の読みか方は「かわちまち」です。 奥村宗家の当主の多くは伊予守に任じられていますが、河内守に任ぜられた時もあり明治の初めこの名がつけられました。

 

(現在の町名:石引1丁目・ 昭和38年の町名変更)

 

(安政の絵図・えんじ色の部分は現在の金大病院)

 

永原久兵衛と永原家家中町:延宝年間金沢城下図(1670年頃)には、永原左京下屋敷となっていますが、江戸中期(1790年頃)になると永原求馬の居屋敷になっています。江戸後期安政(1858年頃)の絵図には永原久兵衛・永原家下屋敷(家中町)・永原と描かれています。絵図では、真ん中の道(家中町の道路)は、拡張され現在金大病院の正面の道路になっています。

 

(家中町(かっちゅうまち)金沢では、藩政期 3000石以上の藩士には、自邸以外に藩から土地を拝領し、下屋敷と称し、自身の家来を住まわせました。この人達の住んでいる所を、「家中町」と呼びました。)

 

 

(旧三所町・右側が現在金大病院)

(旧三所町・仰西寺)

 

三所町の読み方は「みところまち」です。町名の由来は、三ヶ町の合併があったからとも、白山三所権現尼の三仏画があったからとも言われているそうですが、いずれも確証のある説ではないみたい・・・。地子町で、万治2年(1659)、材木町から仰西寺(ごうさいじ)が移転してきたため、藩政中期ごろには仰西寺町仰西町横町と呼ばれていましたが、文政6年(1823)に三所町と改称され、明治5年(1872)藩政期そのままに改名もなく昭和38年の町名変更まで存続。現在の金沢大学病院付近にあった町名で、因みに大学病院は、明治38年(1905)に殿町から移転した石川県金沢病院がもととなっています。

 

(現在の町名:宝町、石引一丁目・昭和38年町名変更)

 

(地子町(じしまち) 地子銀(土地に対する税)を払う町のことで、金沢の町のほとんどは、地子町でした。)

 

 

(仰西寺の案内板)

 

≪参考≫

隣接する上石引町の読み方は「かみいしびきまち」です。藩政初期、金沢城の石垣を築くため、戸室から切り出した戸室石を引いて運んだ道筋であったので、この名がついたという。上・中・下石引町があり、“いしびきちょう”とも呼ばれました。

 

(現在の町名:石引1・2丁目、笠舞2丁目・昭和39年町名変更)

 

 

(石引通り・パチンコの看板まで岩倉寺跡・銀行下、約150mまでが奥村家中)

 

七ケ所(しちかしょ) 町の格付けでは、本町の次に位置づけられ、夫銀(ぶぎん)が課せられた。石浦町、大工町、石引町などが7ヶ所あった。後に町が増えても「七ヶ所」と呼ばれました。)

 

 

 (京都東本願寺)

 

P.S

仰西寺といえば、平成19年(20076月、十年程前になりますか、当時、私が参加していた会で研修旅行があり、京都の東本願寺に行きました。

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌特別記念事業として、後に12年の歳月をかけて行われた大修理は、その頃、御影堂の屋根の修復が行われていたように記憶しています。

 

 

 (東本願寺で見た日本画)

 

研修旅行の世話人が、当時、真宗大谷派の宗務総長を務められていた金沢の仰西寺熊谷宗恵師と同窓生ということで、師は、公務で忙しい中をわざわざお話をして頂いたことが思い出されます。

 

 

 (東本願寺と京都タワー)

 

昭和の改築で、京都帝大教授の武田五一博士の建築監修のもと、参拝者の休憩や寄付等の受付窓口として新築されたものや黒書院や能舞台など非公開部分を見せて頂きました。そして戦前の著名な日本画家の竹内 栖鳳(たけうち せいほう)の襖絵などを、さらに飛地の名勝「渉成園」を見せて頂き感動したことが思い出されます。

 

(東本願寺(真宗大谷派)では、門首に象徴で、最高議決機関である宗会に対して責任を負う内局を率いる宗務総長が、国の内閣総理大臣に相当する地位と権限を保有しています。)

 

参考文献:「小立野校下の歴史」園崎善一著 2001発行ほか


小立野のあんどん町(安藤町)

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【石引2丁目】

上あんどん町、中あんどん町、下あんどん町!!石引通り中石引町の北東に位置する三筋の小路の通称で、漢字で書くと安藤町です。私の通った旧石引町小学校と同じ校下にあり、近くなので物心が付いた頃から、大人達の口移しで、何の疑問も持たず”あんどん町“と呼んでいました。

 

 

   (安藤町の標柱・2月6日平成で2番目の大雪風景)

 

町名の由来は慶長年間の大坂冬の陣・夏の陣に従軍した鉄砲組の足軽頭安藤長左衛門配下鉄砲組足軽の組地だったことにより、この名が付いたらしい・・・。安藤氏は寛文年間(16611672)金沢を去りますが、その直後に描かれた延宝金沢図((167381)には、上安藤町の所には、神尾伊兵衛預拾人、その下手には神尾伊兵衛預拾一人内小頭一人中安藤町及び下安藤町には、それぞれに明与(あけぐみ)足軽拾五人内小頭一人と描かれています。

 

(旧中石引の通り)

 

≪金沢古蹟志には≫

俗にアンドシ町と呼べり。此の町は、大音下邸の隣地にて、石引町の小路なり。延宝金沢図に、明與足軽組地の由記載す。三州志には、今、金沢小立野安藤町は、安藤長左衛門第宅の奮地と言うと。平次按ずるに、此の地は、従来、鉄砲組の軽卒の組地なり。安藤氏は即ち鉄砲組の足軽頭なり、されば組子の者と共に此の地に居住せしか。蓋し新竪町の後町杉浦町も軽卒の組地にて、延宝の金沢図に、杉浦仁右衛門預足軽と記載ありて、杉浦氏の組足軽共の組地なるにより、杉浦町と今これを呼べり、されば安藤町も安藤氏の組足軽い共の組地たる故に、安藤町とは呼べるなるべし。此の地などに、いにしへ藩士の居第あるべきよしなし。安藤氏の第跡といふは過聞なるべく、おもうに昔は居第に依って、町名となすもの皆俗名を以て呼べり。所謂、彦三町・宗牟町・宗叔町或は出羽町・信濃町の類是也。杉浦町の例にて見れば、組地はその頭の苗字を以て呼ぴたりけん。

 

 

 (旧上安藤町の雪景色)

 

安藤長左衛門傳略(金沢古蹟志)

安藤氏の子孫金沢になきゆゑ、その履歴詳からず。三壷聞書等を考ふるに、中納言利常公に奉仕し、二千石を賜はり、鉄砲足軽大将を命ぜられ、慶長十九年(1614)大坂冬陣に出軍す。元和元・二年(16151616)の士帳に、鉄砲頭二千石安藤長左衛門本多組とあり、三州志に云ふ。安藤長左衛門、世本に二千石、一本には千五百石とす。萬治初めの士籍に、小姓衆の内に、即ち千五百石安藤長左衛門とあり、今、江戸本丸御留守居番二百俵安藤長左衛門祖なり。元祖長左衛門は、金沢一向宗専光寺の檀那にて、即ち同寺過去帳にあり。長左衛門の子長兵衛その時浪人せるか、同寺天和年中の過去幌長兵衛肩書に、浪人とあり。その後江戸へ行き、幕府の旗本と成りたりと聞きゆ。長左衛門病死は寛文五年(1665)十一月十二日たり。寛政十二年(1799)江戸安藤氏より聞番まで問合ありて、始めて當時長左衛門の子孫旗本にある事知られたり。叉寛永十六年小松へ引越す緒士の中に、二百石安藤助左衛門と云ふあり、長左衛門と同族たるか。今藩士中に此の苗字なしといへり。

 

 

 (旧上安藤町と下安藤町をつなぐ道の雪景色)

 

文政6年(1823)から明治4年(1872)に上安藤町と呼ばれていたところの裏側が“裏百々女木町”と改称され、下安藤町魚谷呼ばれたところが“わらや谷”と改称されたとありますが、明治3年(1870)の金沢の地図には上安藤町、中安藤町、下安藤町の町名が記され、下安藤町の末端にあたる箇所は藁屋谷(わらやだに)と書かれています。明治4年(1871)には裏百々女木町が藁屋谷を吸収合併。さらに明治5年(1872)の町名の改定で明瞭に裏百々女木町は上安藤町と改称されています。因みに安政年間(1855~1860)の絵図には、上安藤町と下安藤町は崖上で繋がっていて、中安藤町は袋小路になっています。

 

昭和39年(196441日の町名変更で、上安藤町、中安藤町、下安藤町は、 石引1丁目・3丁目、宝町となり、“安藤町”の名は、今も町内会の名称として残っています。

 

(明治3年の地図・上・中安藤町と内下丁そして藁屋谷が書かれています)

 

≪安藤町出身の偉い人≫

阿部信行は、上安藤町生まれ。百々女木町小学校の後、東京の中学校から金沢の四高に学び中退し陸軍士官学校を経て陸軍大学校では成績優秀の「恩賜の軍刀」組。後に陸軍大将。昭和14年(1939830日から昭和15年(1940116日の140日間、内閣総理大臣をつとめます。

 

 

(下安藤町の入口にある標柱)

 

小川直子は、下安藤町生まれ。23才で鶴来の医師の子で加賀藩士に登用された小川幸三と結婚します。夫の幸三は草莽に志士として知られていますが、元治元年(1864“禁門の変”で世嗣前田慶寧公が退京したとき、近江海津におもむき勤王の意見をのべたため捕らえら、無断出国の罪で元治元年(18641026日、29歳で処刑されます。

幸三は明治24年(189211月靖国神社に合祀され、12月特旨をもって正五位に叙せられた。)

直子は「夫の志をついで学問の道を進もう」と決心し、30才の時には金沢女学校の先生になり、その後も石川県女子師範学校、青森県女子師範学校、京都府立高等女学校の先生となり、明治26年(1894)から品川弥二郎の推薦により宮内省の御用掛をつとめ、昌子内親王、房子内親王の教育を担当した。大正896日死去。80歳。初名は昌。著作に「忍草」。

 

 

 (旧下安藤町の崖上)

 

P.S.

私の学校帰りの道筋に安藤町がありました。小学校の同窓生や友人は78人いたと思います。特に仲の良かったのが2人。上安藤町の住んでいた友人の家の庭に柿の木があり、食いたくなり木に登り、足を踏み外し頭から落ちてしまいました。とっさに木に掛けてあった物干竿を掴み、頭を打ちつけることなく助かったのですが、物干竿は折れてしまいました。

 

 

 (上安藤町の雪景色)

 

子供ですから、友人は竿の折れたことで、親に叱られることで頭がいっぱいだったのか、私を責めまくります。今になれば分からなくもないのですが、私は“泣き面に蜂”状態で逆切れして喧嘩になりました。友人は、母親に何と言い訳したのだろうか?その後、何回か、その事を嫌味たっぷりに言いますが、彼はすっかり忘れていました。あれから66年、その間、友人として、仕事で便宜を図って頂いたり、飲みに行ったりしていましたが、先日、旧上安藤町を通り、彼が住んでいた家の前でその事を思い出していました。そして、この歳になり自分の執念深さに気付かされます。

 

 

 (旧中安藤町の雪景色)

 

もう一人は、中安藤町の友人です。前と後と横に庭があり、横の庭は100坪ぐらいの畠になっていて、その隅っこに蔵があり、入りたくて仕方が無かったのですが、彼も厳しく言われていたのか、今は壊れて家が建っていますが入れなかったのが残念で、外から蔵を見るたびに執念深く思い出していました。友人の年老いた父は農学や林業の権威で、友人も自然に詳しく、朝早く付いて行くとカブトムシ鍬形を見つけたり、ある時は道端でカエルや川で蛇を捕まえ解剖をしました。また、年の離れた姉は美専生で、彼も後に美大へ行きますが、雨の日は、外で遊べないので、家で“近め写生”をしようといい、はじめて写生をしたのが、後に、私のデザインを仕事に繋がっていきました。

 

(写真撮影は、2018・2・6・金沢は68cm(新聞発表)の大雪の日)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 ウィキペディアフリー百科事典など

 

小立野の旧大音町(おとうまち)

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【石引3丁目】

旧大音町(おとうまち)は、旧下安藤町の下(しも)隣の小路で、藩政期は大音氏下邸といって、向かいの大音帯刀家の家中町で廃藩後は大音町と町名が立てます。明治は、まだ大音家中と呼ばれていたそうです。延宝金澤図には、前口四十間四尺五寸、東側七十四間三尺五寸、西側百八間三尺五寸で約4,000坪ありました。大音氏の下邸だった頃、地内に観音堂あり、堂内に銅像を安置し、毎年七月十日は四万六千日、堀川大岩寺の和尚が来て施餓鬼を執行され、廃藩の後、この堂宇は壊されたという、銅像の御厨子に下の記載があったという。

 

奉拝請安座十一面大悲尊

                    尊像安阿弥之作

伏冀。天下泰平。国土豊饒。君臣武運長久。家門無病息災。

衆怨退散。子孫繁栄。福寿綿延。火盗双消。諸縁吉利者也。

        享保十八(1733)癸丑林鐘十七日

              大音主馬敬白

 

家伝では、この仏像は霊験いちじるしく、そのかみ尻地にある裏門坂より盗人が入って、この銅像を盗み往かんとするが、身縛りのようになり行くこと叶わず、ついに尻地の崖に捨てて行ったとか、これにより他方(ほかから)の参拝を禁じたと伝えられています。

 

 

 (旧大音町入口)

(旧大音町の尻地の崖辺り)

 

大音町(おとうまち)大音家中と呼ばれていましたが明治2年(1869)にこの名が付けられ昭和39年(196441日に町名変更で 石引3丁目 になりました。

 

(安政年間の絵図)

(旧大音町)

 

≪大音主馬(帯刀)邸跡(金澤古蹟志)

石引町通り筋に武士屋敷は、奥村氏大昔氏のみなりしかど、明治廃藩の後退去し、邸跡は町家数戸となりたり。大音氏は家禄四千三百石なり。按ずるに、改作所奮記に載せたる田井村五郎兵衛(無組十村)より算用場への進達書に、當夏小立野石引町大音主馬殿上屋敷に相渡り、共の替地に田井村高之内地子に下し申儀云々とあり。右は寛文2年(16629月の事なれば、此の歳の夏居屋敷に渡り、その以前は地子地にて町家共ありしを、田井村の地内にて替地渡りしと聞ゆ。旧傳に云ふ。此の邸地に、そのかみ幽念寺といへる禅利ありて、地内に大杉と呼びける巨大の杉樹あり。この寺地なりし時の遺木なりけん。此の地跡卵塔の跡たりといひ傳へたりと。故に大音氏此の邸地に居住中は、毎年七月盆中高燈籠を燈すを家例とせり。右大杉と呼べる老樹は、若し枝にても伐採する時は必や祟りありとて甚だ恐れ、伐採を禁ぜしかど、邸地売却の後遂に伐り取り、今はなしとぞ。

 

 

 (旧中石引町の大音帯刀邸跡・約72m)

 

大音家は初めの邸地が木ノ新保に有ったが、寛文2年(1662)夏石引町に移転。延宝金澤図では、前面三十間弐尺、東側二十九間、西側三十間二尺五寸、裏面四十三間で約1,200坪)

 

(美容院の駐車場まで帯刀邸跡・至新坂)

(空き地から帯刀邸跡・至嫁坂)

 

≪大音帯刀家≫

大井直泰は、利家公越前時代に家臣となり、各合戦や主に能登方面で政治活動を行い能登小丸山城代になる。その実子厚用(あつもち)も幾多の合戦で活躍した。厚用(あつもち)は、通称藤蔵・主馬。一諱厚甫・貞尊・正泰。厚用(あつもち)は、故あって大井氏を大音氏に改め、幼にして前田利長公に仕へ、八王子役及び大聖寺役に戦功があり、父退隠後家を継ぎ、加禄四千石を受け、大阪両役に従ひ、更に千石を加へ、寛永年間(16241644)の始め魚津城代となり、寛永13年(1636)を年66歳で没した。長子伊右衛門早く没し、次子助右衛門は大聖寺候に従い、家督は前田利家公三男の知好の長男好次を迎えた。

 

P.S.

小学校の頃、今もそうですが、旧大音町の並びに紫錦台中学校があり、運動場の一角(当時バレーコート等)は、藩政期の地図で見ると大音家の旧家中町の敷地が含まれています。当時、運動場から2ヶ所が旧家中町の道に繋がっていて、そこには門も無く誰でも出入りが自由になっていました。夏の夕方は涼みに大音町の大人も子どももかってに入り遊んだり、野球の練習を見ていました。当時、紫錦台中学野球部は市の大会で優勝するなど強くて、それだけに練習も厳しく充実していて、選手は子ども達にとってスターでした。

 

(S31年、紫錦台中学のグランド(バックネット辺り)

(大音町側のグランドへの昔の入口1)

(大音町側のグランドへの昔の入口2)

 

中学の向かいに住む私は、その頃野球少年で小学校から帰ると運動場の門から入り、大音町勢には近付きがたく、グランドの隅っこで一人練習を見ていました。練習が終わると年上の中学1年生が寄ってきて「お前、中学になったら野球部に入るやろ!」とチョッカイを掛ける者もいて、すっかりその気になっていました。

 

 

(昭和31年の紫錦台中の航空写真)

 

父に相談すると、私が幼児の頃病弱だったことを理由に「練習に付いていけないぞ!!」と暗に反対され、厳しい練習を見ていたので、やる前から諦めた苦い思い出がありますが、今も当時のバッテリーは覚えています。ピッチャーは樋口さん、キャッチャーは西能さんで、西能さんは後にプロの阪神タイガースに行ったと聞いていました・・・。

 

(日本プロ野球記録を見ると大阪タイガース「西能 勇夫」捕手 背番号572年目が46)在籍は昭和33年(1958)~昭和34年(1959)の2年間で、試合出場は1年目1回、刺殺1の記録が残っていました。)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「加能郷土辞彙」日置謙編・日本プロ野球記録

小立野の旧出羽町5番丁(藩政期奥村氏下邸)①

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【石引4丁目】

出羽町5番丁は、藩政期、間口約102間、奥行約29間。2,650坪の奥村氏下邸(家中町・かっちゅうまち)でした。奥村宗家の上屋敷は、現在の国立医療センターですが、下邸(家中町)は、安政の絵図によると小立野に3ヶ所あり、その一つで、明治4年(1871)の町名改定で旧出羽町5番丁一部旧下石引町に分けられました。昭和38年(1963)に町名変更で、出羽町5番丁は、出羽町24番丁、下石引町、飛梅町も含め、石引4丁目となります。

 

(昭和38年には、出羽町は出羽町1番丁が兼六町(兼六園内1部)と出羽町(旧下本多町1部含む)」に、飛梅町は昭和41年に「石引34丁目」に改名されますが、平成12年(20004月の町名復活で旧飛梅町が「飛梅町」に医療センターだけが「下石引町」に復活します。)

 

 (左側が旧出羽町5番丁・旧下石引町)

 

参考ブログ

町名復活!!飛梅町・下石引町・出羽町と「三交会」

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12083829198.html

 

≪奥村氏下邸(古蹟志)

此の下邸は、石引町の片原にて、出羽町四番町(丁)と地続きたりけるに依って、旧藩の後町名を立て、出羽町五番町(丁)となしたりといへども、世人は今(明治時代)も奥村家中と呼べり。旧藩中は、奥村氏の家士のみ居住せし故たり。按ずるに、延宝の金澤図に、石引町奥村氏元第地をば奥村伊予下屋敷と記し、前通り百十間五尺(後奥村宗家居屋敷)とありて、共の隣地をば前田対馬下屋敷と載せたり。対馬下屋敷の向地をも奥村伊予下屋敷とたし、前通り百二間二尺奥行廿九間二尺とあり。是今いふ家中の地なり。

 

(旧出羽町5番丁は、藩政期奥村氏下邸でした)

 

≪この辺り、昔、鍔屋小路と言ったとか!?≫

「金澤古蹟志」によると、元禄の頃、奥村下邸辺りを鍔屋小路といい、昔、鍔屋宇右衛門と2代権兵衛いう鍔鍛冶の名人が居て、大通りの町より小路にかけて大きな家で、裕福で有ったが3代目婿三郎右衛門の時代、戦争もなく平和で、鍔を吟味する藩士が少なくなり、次第に零落したそうです。詳しくは、少し長くなりますが、下記に記します。

 

(元禄6年の士帳に、石引町後鍔屋小路と見え、今も石引町の裏、元奥村下邸の小路を呼べり。奥村丹後守下屋敷辺りを鍔屋小路といい、昔、鍔屋宇右衛門とて鍔鍛冶の名入居たり。その子権兵衛と云へるものも上手にて、二代ともに名高く、通り町より小路にかけ大きなる家作にて、裕福に有之処、次第に零落なしたりけん。権兵衛の死後、その婿三郎右衛門といへる者、家を継ぐといえども、遂に右の家屋を売り払い他所へ退去しける。

 

然れども名高き鍔屋なりしゆえにその名残りて、今に至りて、鍔屋小路(つばやしょうじ)といへば、人この所へ来るたりとぞ。或人曰く、当地金澤府下に刀剣の鍛冶は、兼若・勝国・兼巻・清光或は家次・家忠などを初めとして、幾多の鍛冶共多く、その弟子家の鍛冶も数名ありといへども、その鍛へたるものは刀、腰物の類或は鎗・長刀・矢根・小刀の類のみにて、いまだ兼若・勝国などの打ちたる鍔を見たる事なし、鍔も剣と同じく、共の鍛治を吟味するは勿論なり。いにしへより諍職の時‘鍔を切り割られ、夫れが為め疵を蒙り、或は戦死せし人なきにあらず。故に国初の頃は、刀剣と共に鍔鍛治の名人を選び鍛はせたりといへり。

 

されば小立野石引町鍔屋小路の鍔屋鍛冶が名高かりしも、当国の刀鍛治に鍔をよく鍛へける人なき故なるべし。後世に至りては、鍔など吟味する藩士もなき故に、その道に名高き鍛冶も出ですと云う。平次按ずるに、金澤町会所留記に載せたる元緑4年閏8月町奉行よりの建書に、当所古着買・古金買之内に、不埒成る者有之に付、為縮石引鍔屋権兵衛等三人肝煎に申付、右商売人相改、札を渡し縮為致候由記載す。右達書にて見れば、鍔屋権兵衛は元禄頃の人たれば、共の父名人なる宇右衛門は、寛文頃などの人たりしこと知られけり。)金澤古蹟志より

 

(昭和前期の出羽町5番丁の地図)

(石引4丁目・旧出羽町5番丁旧下石引町)

 

明治4年(1871)の町名改定の時、奥村家下邸は、一部が下石引町に吸収され、他は出羽町5番丁となります。私は、生まれてこのかた今の石引4丁目(旧出羽町5番丁)の裏通りの住人ですが、この矩形の土地は、当時、病院と空き地と38軒の民家と商店があり、何故か住所が大通りも裏通りも出羽町5番丁下石引町が混在していました。最近では、民家9軒とスーパー1軒に会社のビルが3棟、共同住宅が1棟、他、病院と付属の1施設、そして病院の寮2軒、キリスト教会と教会の保育所と様変わりしました。教会の紫木蓮は今も健在です。

 

(聖ヨハネ教会の紫木蓮・2015)

 (聖ヨハネ教会・2018)

 

(聖ヨハネ教会の開設は昭和33年頃でしょうか?それ以前は空地で高い塀の内側に紫木蓮がありました。)

 

(つづく)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「加能郷土辞彙」日置謙編

小立野の旧出羽町5番丁②副業のススメ!?

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【石引4丁目】

今は民家が10軒と少なくなりましたが、唯一、藩政期から現在もある家が1軒あります。何年か前に御主人がお亡くなりになりましたが、昔、お住まいを壊し自らガソリンスタンドをされていて、後にビルに建て替え、そのビルの裏にお住まいがあり、存命中は町会長もお引き受けになられていました。私が小学生の頃は高校生で、白線帽子にも何処か品があり、颯爽と登校する姿を、家の違いを感じながら羨望の目で見ていたことが思い出されます。

 

 

(旧出羽町5番丁・下石引町大通り)

 

昔、近所の古老から聞いた話、藩政期は奥村家に仕え、家中町の現在の処に屋敷を構えていたということも、私が後に知合いになる御主人の同級生から聞いた武具などを見せて戴いた話も、すっかり忘れていましたが、近年、観光ガイドをするようになってから、金沢の昔を調べるようになり、森田柿園の「金澤古蹟志」で、地元を調べていて、その家の藩政期に出会います。

 (村田ビル)

 

金澤古蹟志の記事によると、この家は奥村家に仕えながら、副業で薬の製造販売をなさっていたようで、最近、政府が進める「働き方改革」による副業の解禁が藩政期に行われていた事実を知ることになります。今も公務員や多くの企業では、営利目的の副業・兼業が制限されています。労働法には「副業・兼業」についての規定は特にありませんが、就業規則に「副業・兼業」の禁止規定を盛り込むことで、企業独自の制限を設けているようですが、あえて「働き方改革」で副業をススメるのは、政府が企業の内部留保で給与がいっこうに上がらないのに業を煮やして言っているのでしょうか

 

(そう言えば、藩政期、加賀藩の多くの家中町では、内職しなければ食っていけないため、内職が常態化し「長のリンゴや村井の柑子」といわれた庭の果実だけでなく、手内職が大切な収入源になり、立派に商品として流通していたらしく、長家では、髷をしばる元結が有名で、その元結で”鎧“”兜””お雛様“などの玩具を作り、村井家では、菅笠、竹の子笠の笠当て、今枝家では提灯や凧をこしらえて家計を補ったといいます。)

 

 

 

(村田ビルの看板)

 

副業の薬の製造販売は、主家から許可を得ていたものと思われますが主家や家中町の陪臣への気がねもあったのか看板も出さず、その代わり門の屋根を農家のような「藁屋根」にし、当時、大通りで町家の町並みにひときわ目立ち、逆に宣伝効果は抜群だったと思われます。

 

 (小立野の奥村氏と下邸・安政の絵図より)

 

≪昔、薬の製造販売 村田五香湯≫

此の薬は、奥村氏元家中に居住せる村田氏の傳法にて、産前産後の妙薬広岡五香湯の本家なり。村田氏庄田氏(下記)と同じく奥村氏の家士たりしかど、右五香湯の傳法如何なる由緒にて家に傳わるか、今傳書もなく詳かならず。広岡五香湯の本家といふ事は、家の傳話に云ふ。昔村田の歴代に幼少にて相続せし者あり。その者の乳母広岡村の百姓の娘なり。成長の後乳母の労を謝せん為に、家傳の薬方を伝えたり。然るに広岡の五香湯は、年を逐うて名高く成り、村田五香湯は知る人稀なりしかど、広岡の本家にて、広岡へは薬種の内一味省きて相傳すといひ伝へなり。従前は村田氏には看板をも出さず、門の屋根を藁葺となし、是を目あてとなし山里の者尋ね来れる故に、今に至り尚藁葺になりしありとなり。

 

 

(旧出羽町5番丁裏通り)

 

≪藩政初期、家中町の副業 庄田萬金丹≫

此の薬は、奥村氏元家中に居住せる庄田氏の傳法にて、高名なる良薬なり。亀尾記に云ふ。奥村内膳の下邸囲中に唐人屋敷と去ふ所あり。朝鮮征伐の時、捕われたる朝鮮人を、奥村快心入道へ預けられたり。今彼の家士庄田某の家に製する萬高金丹は、彼の朝鮮人の傳法なりと云ひ伝えたりとぞ。平次(柿園)按ずるに、今、庄田氏の傳書には、萬金丹随春と云ふ明医の傳法なり。随春ヤンチンと呼べりと。此の人如何なる故にや加賀国へ来りけるを、奥村二代河内守榮明へ預けられ、河内守の従士庄田の元祖庄田市佐孝治が家に、従僕と両人三年寓居し、後武州へ赴き終に歿すと云ふ。武州へ赴きける時、日頃庄田市佐懇意にせし謝礼として、薬方を種々相傳せし中にも、萬金丹は殊に随春家傳の妙方なりし故に、伝授せし上は随春家に再び調合致すまじく、庄田の家薬にすべしとなり。随春の末孫は、江戸幕府の役者小笛庄兵衛なりと去ふ。とあり、思うに、奥村河内守榮明は元和六年五月卒すれば、随春が庄田の家に寓居せしは、文禄・慶長以来の事たらんか。然れば亀尾記に、朝鮮陣の擒の内なりといふ傳説は正説ならん。明の乱を避けて帰化せし人ならんかと云ふ説もあれど、非なるべし。

 

 

(手前のビルと松原病院の間が村田ビル)

 

家中町(かっちゅうまち)

加賀藩では3,000石以上の藩士に、自邸以外に藩から土地を拝領し、下屋敷と称して自身の家来を住まわせていました。ちなみに幕末、文久の頃、加賀八家と言われた8家(本多家・長家・横山家・前田長種家・奥村宗家・奥村支家・村井家・前田土佐家)と3,000石以上の人持組393,000石以下も含むと人持組68家)47家が、藩から土地を拝領し、下屋敷と称して自身の家来を住まわせました。この人達の住んでいる所を家中の町から、「家中町(かっちゅうまち)」と呼びました。

 

 

(松原病院の裏通り)

 

P.S.

今、私が住む石引4丁目の裏通りの民家は8軒。新しく移ってきた家もありますが、概ね年寄りだけの家が多く、子どもがいる家は3軒です。通学路でもあり、子ども達を顔で判別できませんが、最近は少子化の影響で昔の様に子どもの数は多くはないようです。私が子どもの頃は、私が住む裏通りには12軒あり、そのほとんどに子どもがいて、町内会(三交会)の内でも子沢山の班で、30数名の子どもがいました。

 

 

(旧出羽町5番丁裏通り・突き当たり松原病院)

 

その頃、日曜日や平日の午後になると、裏通りは子ども達の遊び場で、近くの子ども達も集まり、男の子は、「テニスボールで玉投げ」や高学年になると「軟式球でキャッチボール」、女の子も交えて「ゴム飛び」「だるまさんが転んだ」などで日が暮れるまで遊んでいました。当時、我が家の2階に間借りしていた親子がいて、兄のほうが警察官で、お昼に自転車で家に寄り、用をたしている数分の間に自転車が盗まれるという事件が起こりました。それも私を含め45人が見ている間に・・・。疑うことも知らなかった子ども達は、瞬間の出来事で誰も自転車泥棒だとは思わず、やり過ごしたのです。

 

今もその様子が目に浮かびます。ごま塩頭のグレーの長コートの男が、スウーと来て、自転車に跨り、あっという間に道角を曲がっていきました。それがトラウマになったのか、今も自転車に乗る時は、置き場所と鍵に細心の注意を怠りません。

 

知らないでは済まない事!!そして油断禁物!!を学びました。今のところはその教訓は活かされていますが、これからは少しボケが来ているので、どうなることやら・・・。

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「加能郷土辞彙」日置謙編

 

小立野の旧上・中・下石引町

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【石引1丁目~4丁目】

石引の大通り!!藩政期からその通り沿いの町並みを石引町(上・中・下)と言いました。現在、小立野の石引1丁目から4丁目といわれる街の真ん中にある直線道路です。文禄の昔、お城に戸室石を運ぶために作られた道で、今、1丁目は、大通りの左側天徳院入口から(金大病院など宝町を省く)旧下安藤町の崖上まで、2丁目は、大通り右側天徳院入口から旧上鷹匠町の入口までの崖上まで、3丁目は、旧大音町全域、4丁目は右側石引バス停の下の小路から兼六園前までの崖上になっています。Google地図参照)

 

(因みに現在は、左側3丁目の下(しも)は紫錦台中学校の飛梅町。その下(しも)は国立医療センターの下石引町。NTTから石川県立美術館までが出羽町になっています。)

 

 

(石引4丁目の大通りから見える山々)

 

文化8年(1811)の金沢町絵図や町名帳では、米屋・八百屋・魚屋・味噌屋・醤油屋、呉服・たばこ・小間物・紙・薬種・生菓子・酒造・雑穀・豆腐・荒物・下駄・金物・質屋・炭・髪結い・鍛冶・医師・飴・綿・油・茶・風呂屋など、およそ江戸時代に考えられる殆ど全ての商家が揃っていて、今より便利かも!!今風に言えば横に並んだシッピングセンターで、今のショッピングセンターにない質屋や風呂、医者まであり、しかも歩いて行け、今より確かに活況を呈していたようです。

 

 

(文化8年の金澤絵図の中石引町界隈)

(昭和30年代の上石引町界隈)

 

そんな石引町も明治に入り、しばらくは維新の波に乗り遅れて地盤沈下した金沢自体とともに衰えますが、やがて第7連隊や第9師団という旧陸軍部隊が城内に設置されると息を吹き返し、戦後はその城内に金沢大学が置かれることから、下宿など学生たちの生活の場としてつい最近まで発展を続けてきました。

(旧上石引町)

 

(旧中石引町)

(旧下石引町・左の病院だけが現下石引町)

 

平成に入ると、金沢大学が角間に総合移転し、学生たちの姿がめっきり少なくなりました。100年近くも文化教育ゾーンとしてその役割を果たしてきた石引も、現在は、通り抜けの車だけがやたらに多く衰退の一途で町にはお店が随分少なくなっています。

 

≪石引町(金澤古蹟志)

此の町名は、舊藩国初以来、城内の用石を戸室山より挽き出せる道路なるに依って石引町と呼べり。三州志来因概覧附録にも、文禄元年(1593)金城の石壁を築かしめらる。石引町は、今年築塁の巨石を戸室山より挽き出す道條なるを以て、此の時よりしか名づくといへり。平次按ずるに、此の町は舊名山崎町なるを、俗に石引町と呼べるものならん。然らば文禄より石引町と名づくるにはあらざるべし。石引町の名は、松平伯耆遠乗(大弐家の先祖?)をして小立野湯涌口へ罷越処、横山山城守為普請、戸室山より石を為石引たり。伯耆石引町を罷通る節、向より大勢の人夫石を引き、きやりを仕罷越処云々。といふ事見江たり。右は寛永・正保の頃ならんか。此の萬治三年(1660)七月の書付に、五兵衛と申者石引町に罷在、慶安三年(1650)に死仕と見江、同四年正月の書付に、山崎領太右衛門と申者、小立抑石引町に罷在り、地子方才許仕ると云ふ事見江たり。元禄九年(1696の地子町肝煎才許付に、石引町・同横町・同後町とあり。今(明治時代)は上石引町・中石引町・下石引町となしたり。横町後町は、石引町と呼べるになし。とあります。

 

(本丸下の戸室石の展示場・1個250kg~300kgぐらいか)

 

文禄元年(1593)以来幕末まで、石伐りは市内大火の際や城内再建の度に戸室山から石を伐り出し運搬を繰り返したという、その記録が7期に分けて残っています。はじめは大勢の住民が動員されて運ばれたそうで、幕末頃になると二輪や四輪の地車といわれる引っ張る運搬車が使われて効率化されたといわれますが、今の様にダンプも重機も無い昔、金沢城の石垣面積約30,000㎡、12万個(明治なり崩れたのを入れると約15万個という、おびただしい量の石を押したり曳いたりして運んだといわれています。

 

 

(戸室山から金沢城)

 

P.S.

石引の町名が文献に表れるのは、上記「金澤古蹟志」にありますように、今から322年前の元禄9年(1696)です。最初の石引きの作業から約100年後。そのころに町名が定着したことになります。

 

 

(金沢城の石垣)

 

実は、私が調べた限りでは、「石引」という町名は全国どこを探してもありません。尋ね歩いた分けではありませんが、地名辞典や町名の本それに地図やインターネットを検索すると、地名としては、四国の山の中など数ヶ所有るだけです。

 

全国の城下町には、江戸時代約250もの城があり、ほとんどが石垣が用いられ、石きり場から距離は遠い所も近い所もありますが、間違いなく石を引いて城を築いたのに、何故か石引という「町名」は他には見つかりません。ということは石引という町名は「日本で一つ」大げさに言えば「世界に一つ」という事になります。これは調べる価値があると無理に思い込み、閑に任せて調べました。

 

 

(左の土塀は現下石引町の医療センター)

 

厚い辞典を熱くなって繰り返し探しました。インターネットの郵便の住所もさがしました。やっぱり石引という町名が見つかりません。閑人ですからいい暇つぶしになりました。

 

結論は、やっぱり「世界に一つ」でした。私の勝手な思い込みで少し怪しいかも知れませんが、一応、中間報告をさせて頂きます。

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行

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