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“ごきみつさん”谷口吉郎さんのエッセイより

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【金沢・寺町】

谷口吉郎・吉生記念金沢建築館が726OPENに伴い、寺町界隈の新しい散策コースを試行するための下調べをする事になり、谷口吉郎氏が四高卒業までの21年間を知りたくなり調べて見ると、金沢を離れて以後も金沢に関して昭和43年(1968)の「金沢市伝統環境保存条例」提案をはじめ、エッセイなど金沢への思いを綴ったもの意外に多く、どれも読んでいるうちに金沢への深い愛情が感じられます。今回は、私も子供の頃、聞いた事はあっても、言った事のない語源不明?の金沢弁“ごきみつさん”取り上げて見ます。

 

(谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館)

 

先ずは原文を引用すると、・・・・「先日も、何かのひょうしに「ごきみつさん」という言葉が、ひょっこり口に出てきた。久しく忘れていた金沢の言葉である。「御きみつ様」キミツは、どんな字を書くのだろう。相手の親切や丁寧を感謝する時、父や母はこのような言葉を使って「ごきみっつぁんな」とあいさつをしていた。しかし、こんな言葉は今の金沢ではもう通用しないだろう。古い金沢の特色だった親切過剰一種の馬鹿丁寧は、今の金沢は現代的の清算されていることだろうから「ごきみつ」死語となるのは当然といえよう。」・・・・

 

親切過剰や一種の馬鹿丁寧は、昔から金沢の特色だったのですネ?最近は観光客からは金沢の人は「親切で丁寧」といわれていますが、伝統なのですネ!!過剰と馬鹿が付かなければイイか・・・。)

 

(金沢建築館内)

 

しかし、金沢弁には語源が判然としない言葉があり、この「ごきみつさん」はその典型で、谷口さんでもキミツはどんな字を書くのか引っかっていて、語源に付いても疑問をもっているように拝察します。

 

そこで、昭和61年(1986)の金沢市商工観光課発行の「おいであそばせ/おいだすばせ 美しい金沢言葉普及事業「接客言葉」Ⅰ」で調べて見ます。

 

「ごきみつさま」・「ごきみっつぁんな」=「ごていねいな。ありがとう」

感謝の気持ちを表しますが,特にお金を受け取ったときに使います。とありますが、これでは語源どうかはハッキリしません。また、金沢弁にごきみつに という言葉がありますが、これは「厳格に」とあります。

厳格は、規律や道徳にきびしく、不正や怠慢を許さないこと。また、そのさまで、これは「ごきみっさま」の語源ではなさそうです。

 

因みに、接客が1には「おいだすばせ」「ようこそいらっしゃいました」とお客様を迎えたときの言葉で、「お出で遊ばせ」が訛ったらしい。

 

(金沢・香林坊の大きい柳・市電開通前)

 

そして、エッセイは続く「当時、片町のようなメイン・ストリートは街道(カイド)といい、横丁を小路(ショウジ)といった。金石にいく、あの松並木の立派な一本道を往還(オウカン)と呼んだ。香林坊の交差点には町のまんなかに、大きな柳の木が青々と枝をたれていた。十間町にも太い柳の並木がならび、そのほか松の美しくしげった町もあり、東京の銀座の柳なんか、まったくお粗末にみえた。それにくらべると、香林坊の柳が、ずっと堂々とりっぱで、いかにも百万石の城下町らしい風格があった。」・・・・。と書かれています。

 

(詳しくは「石川近代文学全集13・中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎」をご覧ください。)

 

(明治後期の寺町の大桜・市電開通前)

 

(金沢建築館のパンフ)

 

谷口吉郎:金沢が生んだ近代日本を代表する建築家です。片町の九谷焼の窯元(谷口金陽堂)に生まれ、第四高等学校卒業まで金沢で過ごし、昭和3年(1928)年東京帝国大学工学部建築学科を卒業。昭和18年(1943)に東京工業大学教授、昭和40年(1965)同名誉教授。昭和37年(1962)日本芸術院会員。「清らかな意匠」と形容される端正な建築とエッセイも書かれています。 明治時代の建造物等を移築して公開した「博物館明治村」(愛知県犬山市)の創設などの文化貢献で文化勲章を受賞。金沢に残る作品は、石川県繊維会館(現・西町教育研修館)・石川県美術館(現・石川県立伝統産業工芸館)の設計・金沢市観光会館(現・金沢歌劇座)の監修・金沢市立玉川図書館は子息吉生氏と共同設計・戦後まもなく日本で最初の文学碑徳田秋聲文学碑・昭和3956日 除幕の室生犀星文学碑があります。昭和54年(1979)、七十四歳で逝去。

 

 

参考文献:「石川近代文学全集13・中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎」平成101210日 石川近代文学館 発行ほか

 


兼六園は私の造形教育云々!?谷口吉郎の「建築に生きる」

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【金沢・兼六園】

谷口吉郎氏の「建築に生きる」に、兼六園について「・・・秋は紅葉、冬は雪景色。ことに雪国では冬が近くなると、植木の枝に「雪釣り」の縄を結び、冬の庭は特別な姿となる。そんな姿も美しかった。だから私は四季の兼六園の姿をよく知っていた。それも1カ年だけの観察でなく、中学に通った各年見ているので、兼六園は私の造形教育に、蔵書の豊かな図書館のような役割をしていたことになる。そのためか、今でも私は庭園が好きである」と綴られています。註:「雪釣り」は「雪吊り」か? 

(兼六園)

 

兼六園は、私も子供の頃から歩いていける距離のところに住んでいます。今でこそ月に5日から7日程しか行きませんが、一時は朝、昼、夜と13行った事もあり、年間200回という年もありました。いつの頃か覚えていませんが、春・夏・秋・冬、季節毎の変化は当然ですが、兼六園へ通う内に視点を変えれば毎日が微妙に違い、日々新鮮に感じられ、さらに部分を遠くから眺めたりクローズアップしたり、また、全体を観察するようになると物の見方も広がり、その事を応用すると仕事に大いに役にたったことに思い当たります。

 

 

(兼六園の山崎山)

 

大先生には足元にも及びませんが、私も10年程前にそれらしい事を書いたことを思い出しスクラップを探して見ると、当時、現代アートに嵌っていたものですから以下のように書いています。まさに兼六園は私にとっても造形の図書館のようなものようです。かっては金沢美大も近くにあり、多分、金沢から谷口吉郎氏を始め建築、美術、工芸、意匠などの造形家が多く出るのは兼六園のお陰かもしれませんネ。

 

 

谷口吉郎氏は、中学4年生の夏休み叔父の神戸に行き、その時、腸チブスと診断され回復したのは年の暮れに近く、金沢に帰り養生していると学年末になり、そのため4年生に留まることになります。病気のため1年遅れることになりましたが、中学卒業後の進路について考えるようになり、窯元に生まれたので、東京上野の美術学校を志望し、陶芸の道を選ぶのが私の方向であり、それが当然でもあった。自分はそれに向いているように思えた。と「建築に生きる」にお書きになっています。

 

(四高)

 

しかし、地元の「四高」があるのでそこを受験したい気もした。当時旧制高校は中学5年の卒業生のほかに、4年修了者にも受験資格を認められていたので受験すると、幸い合格します。努力もしたのでしょうが、勉強はよく出来優秀だったのでしょう。窯元を継いでいる父にすまないような気がしたが、幸い父も母も心から喜んでくれた。と綴られています。

 

(4月に四高)

 

建築家志望は、「四高」2の時、大正12年(1923)の関東大震災が起り、その時「建築」というものの意義を意識したと述べています。3年のとき徴兵検査を受け、丙種合格。それでも元服を受けたようで、自分の将来に責任を感じるようになったと。記しています。翌年、志望者が多いと言われた東大の建築科を受験し合格。いよいよ私の将来に建築への道が開いたとお書きになっています。

 

(吉郎には5歳年下の弟吉二がいました。四高から東大経済学部に進むが、惜しくも病にて急死したという、兄に言わせてば私より頭がよく、父は家業の継続はこの次男に期待していたのではないかと言っています。そのためか、父は窯元もその他の事業も、あっさり閉じてしまった。だから金陽堂の廃絶には、長男である私に責任がある。そう思うと父に対しすまない気がする。と述べています)

(県立金沢二中)

 

谷口金陽堂と父吉次郎   

明治8年(1875)、初代吉蔵は士族でしたが廃刀を機会に金沢で九谷焼を扱う店を開業します。この家業は、二代吉次郎が継ぎ、次男与十郎が明治28年(1896)、神戸の元町に店を開き、九谷焼の輸出を受け持ち、明治41年(1908)、初代吉蔵が隠居して吉翁と称します。その家業は広く海外まで伸び、欧米各国、満州、韓国などを往来して販路の拡張に努めます。明治30年代の経済恐慌の影響を受けて陶磁器産業にも不況で小松の明治の名工松本佐平が経営していた松雪堂が明治36年(1903)に倒産。その時、初代吉蔵は、親しくしていた松本佐平と佐太郎の親子を支援し谷口金陽堂に招き入れます。こうして明治の名工と言われた松本佐平は、晩年、銘「金陽堂佐瓶造」の作品を谷口金陽堂で制作し続け、また松本佐太郎は、谷口金陽堂で制作をする一方で、明治43年(1910)にイタリア万国博覧会の仕事を石川県より依頼されるなど、業界のために尽くします。二代吉次郎自身も、工業学校を卒業後、家業を継ぎ、明治年間に2回欧州の洋行し、2回目の日英博覧会には陶磁界の代表者の1人としてロンドンに赴き、また、各国で開催される博覧会に製品を出品しています。また、吉次郎の事業は陶磁器から工芸美術にまで発展したという。金沢商工会議所議員を16年間勤めたほか、加賀九谷陶磁器同業組合組合長6年間勤め、石川県工芸界の向上に貢献しましたが、その後、昭和2年、松本佐太郎に託して第一線から退きます。吉次郎は昭和22年夏、肺炎を患い永眠、享年73歳。

 

(谷口金陽堂は、犀川大橋から右側56軒目の片町6番地、今の金劇の犀川寄りのところにあり、表の店には各種の九谷焼の製品が陳列され、その奥には自宅があり、その奥に庭。その後ろに土蔵が三棟、庭の隅に茶室(横山家から移築した一種庵)。土蔵の裏には上絵に窯場、その奥には絵付けの職人達に職場となり、敷地は裏の河原町まで続いていたそうです。因みに寺町(現金沢建築館)は、吉郎が小学生の頃、住まいだけ移している。)

 

(谷口吉郎氏の設計の旧繊維会館内)

 

参考文献:「石川近代文学全集13・中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎」平成101210日 石川近代文学館 発行ほか

谷口吉郎氏と「金沢市伝統環境保存条例」

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【金沢市】

北国新聞社が発行する季刊誌「北國文華第78号」に金沢工大の水野一郎先生がお書きになった“谷口吉郎の金沢”の金沢のまちづくりや建築保存の項目に、元金沢市長山出保氏の著書“まちづくり都市金沢”「金沢市伝統環境保存条例」の起案者は谷口吉郎氏だと紹介されています。

 

(金沢市伝統環境保全・石川門と百間堀)

 

“まちづくり都市金沢”には1967(昭和42)年のことです。当時に徳田與吉郎市長が金沢市出身の建築家谷口吉郎氏から「金沢の持つすぐれた環境が、都市に近代化の中で調和し保てれていくべき」との示唆を受けました。そこで市長は、日本画家の東山魁夷氏をはじめ、当時、国立文化研究所長の関野克氏、国立近代美術館京都分館長の今泉篤男氏、学習院大学法学部長の中川善之助氏のほか、石川県知事、金沢大学長らと意見交換を行いました。

 

(北國文華)

 

その議論から、翌1968年、全国で初めて伝統的な環境の保存を定めた「金沢市伝統環境保存条例」が制定されました。この条例では都市開発に伴う本市固有の伝統環境の破壊を極力防止するとともに近代都市に調和した新たな伝統環境を形成する」(第一条)と定められました(第4章参照)。これが「保存と開発の調和」をまちづくりの基本とした最初でした」とお書きになっています。

 

(長町と大野庄用水)

 

実は「金沢市伝統環境保存条例」については、今はどうか分かりません、私は17年前、金沢ボランティア大学校観光コースで教わっています。当時、聞いた話を覚えたてのWordを叩いて作った講義禄によると、昭和41年(1966)国が、京都、奈良、鎌倉等かって都であった都市を保存するため指定した通称「古都保存条例」に習い、昭和43年(1968)に金沢市は全国に先駆け制定した「金沢市伝統環境保存条例」の起案者は谷口吉郎氏だったことが書かれています。

 

(金沢市伝統環境保全・土塀と町家)

 

その「金沢市伝統環境保存条例」は、500年にわたり金沢では大きな戦火や自然災害にも見舞われなかった金沢市の歴史的環境と豊かな自然環境を守り「保存と開発の調和」を実行することが、金沢らしい近代的都市づくりを進める元となると有ります。以後、金沢市こまちなみ保存条例、金沢市用水保全条例、金沢市屋外広告物条例、金沢市斜面緑地保全条例、金沢市まちづくり条例、金沢市寺社風景保全条例など、関連条例が次々に制定され、金沢では、それらに関係する事業が展開されています。

 

 

(金沢市こまちなみ保存)

 

(金沢斜面緑地保全)

 

(私が谷口吉郎氏のお名前を存じ上げたのは、この時ではなく、20代の前半、将来、何をするかも決めて居なく、何も出来ないのにプライドだけが高い私は、ただ、単純にこれからオリンピックの始まる東京だ!!と東京行きの取っ掛かりを探して金沢で今云うフリーターの様なことをしていた頃でした。当時、祖母の知人で、祖母が亡くなっても代わらず金沢に来ると我が家に寄ってくれる文化財関係の偉い方が、昔から来るたびに、坊主、東京に来るかと言っていたことを思い出し、社交辞令で、軽い気持ちで言ってくれていたのを真に受けて手紙を書くと、人を紹介するからと連絡があり、紹介された方は谷口吉郎氏と師弟関係にある方で、当時、勤務先の国立競技場にあったオリンピックの施設の建設事業の事務局に尋ねると、彼はボット出の見ず知らずの私に恩人の谷口先生の郷里の方ですからと、何軒もの面接先を紹介して頂いた事が思い出します。その頃は何故谷口吉郎氏が繋がっていたのかは知る由もありませんでしたが、後に谷口氏とその後押しをしてくれた偉い方の繋がりは、四高と明治村だったことを知りました。)

 

(明治村の鹿鳴館・ウィキペディアWikipediaより)

 

谷口吉郎氏の業績で忘れてはならないのは「博物館明治村」の発案です。明治村は昭和40年(19653月に開館します。初代館長となる建築家谷口吉郎氏は、昭和15年(1940)、老朽化により「鹿鳴館」が取り壊されたことに心を痛め、明治という時代の象徴であった建築を保存が出来なかった無念さが、明治建築を移築保存し公開する事業を始めるきっかけとなったと言われています。

 

東京日日新聞(後の毎日新聞)の学芸部から原稿依頼を受け、谷口は「明治の哀惜」と題する文を寄稿し、昭和15118日掲載され、明治建築の保存を呼びかけています。

 

戦後になり経済復興に伴う破壊行為が進み、残された最後のチャンスの時期に「博物館明治村」は開設されます。「明治の哀惜」投稿から約20年。旧四高の同窓会が開かれ、谷口はこのとき”明治村構想“が語られ、その場にいた四高同期で当時の名古屋鉄道副社長土川元夫、文部省国宝監査官田山方南は谷口氏の意見に賛同し、この時から明治村構想が始まったそうです。

 

初めは関東地方でと言う事でしたが、最終的に土川元夫が経営陣を務める名古屋鉄道の協力により、現在の愛知県犬山市に開設が決定し、昭和36年(1861)設立準備委員会が発足、翌年財団法人明治村設立認可をうけ、渋沢敬三が初代会長に就任し、貴重な明治時代の建造物の取り壊し情報を得ながら、京都から北海道に至る建造物15件を移築し、開館にこぎつけます。15の建造物は、名古屋鉄道所有の入鹿池を望む50haの丘陵地に移築され昭和40年(1965318日に開村記念式典を挙行、翌19日から一般公開が始まった。開館後10年を経た昭和50年(1975)には敷地面積は100ha、移築建造物葉の数は40件を超え、現在では移築建造物は68件となり、国内のみではなく、ブラジル・アメリカからも移築され、教会堂、学校、役所などの公共建築、商家、芝居小屋、文学者ゆかりの住宅などが含まれています。勿論、金沢からは、旧四高の物理学教室や金沢監獄のレンガ造りの正門、木造の中央看守所と監房も移築保存されています。

 

(今の広坂通り)

 

谷口氏の発案と言えば、現在、金沢の広坂通りの真ん中の辰巳用水と松や桜並木の両側の歩道と6車線に道路があり、石川四高記念館としいのき迎賓館側は、以前、それぞれ学校と県庁の構内でした。用水脇の兼六園寄りには広坂警察署、香林坊寄りには用水にせり出すように交番があり、道路は市役所側だけでした。それを両側道路に提案されたのは谷口吉郎氏で、自ら「建築に生きる」にお書きになっています。

 

参考文献:「石川近代文学全集13・中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎」平成101210日 石川近代文学館 発行ほか

犀川大橋からスクランブ交差点まで①昔は川南町と呼んだ・・・。

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【犀川大橋→片町スクランブル交差点】

藩政期、片町の犀川寄りの町を川南町と呼んだと云われています。何故、犀川大橋の北東に有るのに川南町と呼ばれていたのでしょうか?人から聞かれ、傍と困り頼りの金澤古蹟志を調べてみると、南町の犀川寄りの町ということから川南町と云ったと書かれていました。川南町の表記は、金澤古蹟志・加能郷土辞彙には河南町と書かれています。)

 

(今の犀川大橋・手前が旧川南町)

 

(金澤古蹟志を要約すると「慶長の頃、今の尾山神社の辺りに三筋の町地があり、真ん中の通筋を南町と云い、北国街道南町より犀川まで直ぐにつながり、その城南の町地をすべて南町と称し、今の片町スクランブル交差点から犀川大橋の間、約142mを川南町と呼よんでいたそうです。藩政初期、今の尾山神社が金谷出丸になった頃、南町堤町今の場所に移転させられ、南町、川南町の間に石浦町、片町を挟むことになり、南町と川南町との間が隔絶します。と有り、また、加能郷土辞彙には、川南町は古くは片町と共に中川原町又は単に川原町と書かれています。享保18年(1733426日伝馬町より出火、川原町・後川原町・大工町類焼。と有り、享保の末頃迄、川南町(河南町)を川原町と呼んでいたらしい・・・。明治4年(18704月戸総編成で、町名改正の時川南町の町名が消え片町となります。)

 

(文化8年の金沢町名帳に地図)

 

文化8年(1811)の金沢町絵図名帳の川南町の頁には、家数29軒(橋番含む)、本町肝煎清金屋七兵衛、組合頭宮竹屋喜左衛門とあります。この町は当時片町と同様武士階級をお客様とする大店の御用町人と北国街道に面する本町でありながら、犀川大橋に接する立地から近隣在住の農民、町人にも利便な地区だったようです。

(安政64月材木商の堂屋久兵衛割家願いにて一軒が増え30軒になったと書かれています。)

 

川南町の住民は、銭屋兼小間物商・魚商・材木商・麩こんにゃく商・紙商・みの笠商兼米仲買・蒸し菓子兼合薬商・質兼足袋商・質兼呉服古手商・合薬兼道具商・瀬戸物商・みの笠兼ろうそく商・紙合羽商・畳商・小間物兼打綿商・畳表兼みの笠商・足袋商・絞り染兼香具商・下駄小間物商・酒造業・みの笠・呉服兼古手商・たばこ商・衣料、呉服商・法衣仕立職・質屋など兼業が多く、横目肝煎(町年寄

りを助ける町役人)や町年寄末席役の住まいなど多岐に渡っています。)

 

(今の片町1丁目・白い建物辺りが宮竹屋喜左衛門家)

 

文化8年(1811)の金沢町絵図にある大店には、前口十一間蒸し菓子兼合薬の道願屋彦兵衛家、前口二十弐間酒造業の宮竹屋喜左衛門家等があり、他に前口十間以上の店も数件描かれていますが、前口五間前後の店には、斜め線で消した跡が12軒もあり、横には新たな店名か書かれていて経営者が変わったことを分かり、当時も今と変わらず繁華街なるがゆえの栄枯盛衰が窺えます。

 

(右の角の長屋が幕末の道願屋・福島秀川画、香林坊地下壁画より)

 

川南町蒸し菓子商道願屋彦兵衛

道願屋は、川南町の旧家で、むかしは犀川橋爪東側に数間の家屋はみんな道願屋の旧邸だったそうです。道願屋の生菓子と称し、有名な御菓子屋で「氷室の万頭」の元祖といわれています。寛政の頃(17891801)、零落して店をたたみ、貸屋として子孫はわずかに生計を立てたと云います。

 

氷室の万頭は、加賀藩前田家の5代藩主綱紀公の頃、片町の道願屋彦兵衛が、「氷室の日」に高価で希少な当時の天然の雪氷のかわりに、庶民の口に入るようにと考案したというもので、”万頭“と書くのは「下積み時代を経て万(よろず)の頭(かしら)になるように」という願いが込められているのだといいます。)

 

(文化8年の金沢町名帳より)

 

拙ブログ

“心の道“癒しのスポット⑥誓願寺

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11168424298.html

 

“氷室の万頭”と“半化粧の蛸

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11292082094.html

 

 

川南町の酒造業の宮竹屋喜左衛門

宮竹屋には川南町で酒造業と旅人宿を営んでいた宮竹屋喜左衛門家片町薬種商売を営んでいた宮竹屋伊右衛門家があります。川南町の宮竹屋喜左衛門家が本家筋で、加賀国能美郡宮竹村の出で、天文の頃(1532~1555)、尾山御坊の西町辺りに移り住み、天正11年(1583)前田利家公が金沢に入城する頃には、旅人宿を営んでいたと云います。

 

(白い蔵は宮竹屋・福島秀川画、香林坊地下壁画より)

 

寛永3年(1626)には、藩から旅人に対して手判問屋(関所手形を発行する業務)が与えられますが寛永8年(1631)の大火で家を焼失し、犀川の区画整理で出来た川南町に新築し、御用商人となるが、特別な富裕町人ではなかったと云う。しかし、2代目の伊右衛門道喜は養子で、実家の薬種商売の権利を譲り受け兼業にします。

 

3代目の長男勝則は薬種商売を継ぎ片町に店舗を構え、次男は手判問屋を受け継ぎ、2代目の伊右衛門道喜は、南町の中屋、尾張町の福久屋と同じに藩主前田氏の三味薬(紫雪・耆婆万病円・烏犀円)の調合許可を願い出、天和元年(1681)に許可になり、すでに2代目が病死していて3代目勝則が相続し、亀田の苗字を許され、宮竹屋が本格的に薬種商としての活動がはじまります。

 

(芭蕉の辻の碑、今は中央通りの元宮竹屋伊右衛門家跡)

 

しかし、3代目勝則の病弱のため、貞享3年(1686)に薬種商を隠居し、三男の勝豊(俳号小春)が伊右衛門家の家督を引き継ぎ、両家は明治に引き継がれます。

 

(芭蕉の辻碑より、今の片町スクランブ交差点)

 

有名な話に、元禄2年(1689)年の715日(新暦829日)に松尾芭蕉が金沢に入り24日まで次男喜左衛門(俳号竹雀)家に滞在したことはよく知られています。さらに喜左衛門家は「菊一」の銘柄で酒造業として栄えます。伊右衛門家は、7代目の亀田純蔵(鶴山)が九谷焼の産業化を試み卯辰山に「春日山窯」を開窯に貢献したことは有名で、明治になり当主が亡くなり、親交のあった当時、土建業で実業家の辰村米吉氏が引き継いだのは、知る人ぞ知るお話です。

 

拙ブログ

松田文華堂③青木木米

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10774616468.html

 

(つづく)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著、「加能郷土辞彙」日置謙著、「金沢町人の世界」田中喜男著、「金沢町絵図・名帳」など

犀川大橋からスクランブ交差点まで②大橋と近隣の町・・・

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【犀川大橋→片町スクランブル交差点】

犀川のこの橋と浅野川の橋は、金沢の上下の往来橋として比べられる橋であることから昔から大橋と呼ばれていたと云います。三壺聞書によると寛永8年(1631)の条に中河原町大橋とあり。拾纂名言記に、坂井就安在勤の頃、犀川が二瀬に分れ、一瀬は香林坊小橋の下を流れていたのを、3代藩主利常公は坂井就安に命じ、犀川の川上を切り一瀬とたし中島(竪町、河原町、片町など)の地をことごとく町地とします。古寺町の山伏福蔵院の曲来書に、慶長19年(1614河原町小橋の詰に第地拝領するとあり、今の香林坊橋辺りのようです。昔の犀川は二瀬があり大橋と小橋の二つの橋が有り、貞享2年(1685)泉野寺町金剛寺の由来書に慶長12年(1607)に犀川一ノ橋の辺りに寺地を拝領したとあり、藩政初期には大橋とも一ノ橋とも呼ばれていたそうです。金澤の街中で第一の橋ゆえにそう呼ばれていたのでしょうか、また、金沢橋梁記には「いさごの橋」と書かれているそうですが、他に文書には見当たりませんが、浅野川大橋の古名が「とどろき橋」といわれていたので、犀川大橋にも古名があったのでは?追考すべしと、森田柿園が「金澤古蹟志」に書いています。

 

現在の大橋は

形式:一径間鋼曲弦ワーレントラス橋(有形文化財の登録形式は曲弦トラス単鋼橋)

橋長:62.3m・幅員:18.7m(完成当時の幅員は車道12.5m、歩道1.8mX2)

 

犀川大橋の歴史

地域に共存する犀川大橋

http://www.hrr.mlit.go.jp/kanazawa/mb2_jigyo/bunkazai/saigawa/img/history_title.jpg

 

(延宝の金沢図・犀川大橋と川南町)

 

三壺聞書:前田利家公が織田家家臣の時から、加賀藩の成立、藩主の生い立ち、業績等の詳細、家臣団の名簿等を二十二巻に記載。著者は前田家家臣山田四朗衛門とか原田又右衛門の作とかと云われています。

拾纂名言記:前田利長公・利常公について天和2年(1682)に書かれたもので、編著者毛利詮益と言われています。

坂井就安:藩政期、それまで二本あった犀川の流れを一本にする土木事業を加賀藩の医師坂井就安が行っており、「太閤記」の著者小瀬甫庵道喜の長男。

福蔵院:山伏本山派、香林坊橋(犀川小橋)近くあり、宝来寺福蔵院と号し妻帯と成り子孫相続し、今はありませんが、数年前まで片町のビル下のトンネルが参道だった小橋菅原神社。

金剛寺:曹洞宗の寺院で天正年間(15731592)に前田大炊の第三子が出家し、越中国射水郡守山の海老坂に創建し、後に犀川大橋の近くに奥村家の分家奥村周防が寺地を拝領し、さらに現在の寺町に移ったという。

 

(犀川大橋・福島秀川画より)

 

犀川橋場町

変異記に、享保18年(1733426日、伝馬町後養智院辺り小家より出火、五枚町、橋場町議類焼。と有り犀川橋爪を昔橋場町と呼んだと。橋場辺りは湊で、諸商売売人もこの地を最上と考えて競って商店を開いたと金澤古蹟志に書かれているが、何処を指しているのかは不明。

 

(犀川大橋詰の木橋の大橋図より)

 

五枚町

元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許附に、五枚町が見え護国公(5代綱紀公)年譜に享保18年(1733426日犀川川除町より出火して五枚町等が類焼したとあります。元は3代利常公の頃、銀座、蝋燭座・豆腐座の三座があり、蝋燭座下堤町にあり、金屋彦四郎が仕切っていたので彦四郎を蝋燭屋彦四郎と呼んだという。豆腐座五枚町にあり豆腐屋奥三助先祖勤め、この三座の税銀は三座運上銀と云い、豆腐座の運上銀銀五枚で、この頃、この町民は豆腐座の外に家建ってなかったので、運上銀の高で五枚町と町名として呼び初めたというのは、豆腐屋奥三助の家伝と伝えられています。

 

(旧五枚町)

 

今の忍者寺といわれている泉寺町妙立寺由来書には、開祖日通が寛永20年に当地運上町に請地を致し居候処とあるので、御用地に成り召し上げられ石動山伽耶院旅屋敷に相渡し載せたる運上町は若しかして五枚町の事ではないかと書かれています。金沢事蹟必禄には、五枚町・六枚町地子銀の枚数で名付けられていましたが、しかし、この妙立寺伝説はどうも眉唾ものかも・・・。五枚町は明治4年(18724月戸籍編成の 時、十三間町へ合併しました。

 

(犀川大橋詰の大橋の看板)

 

余談:「大野庄用水」は、明治以前には「五枚町用水」と呼ばれていたそうです。豆腐座は運上金が年に銀五枚だったので五枚町といったと言われていたのは地子銀5枚から来ていることは前にも書きましたが、いったい地子銀5枚と言うのは今のお金で幾らになるのか知りたくなり調べて見ると、文化文政期の110万円で計算すると、金1両は銀60匁として、銀1枚は43匁で計算すると(銀5枚は、銀143匁、5枚で215匁、60匁が100,000円で計算すると約36万円)になりました。

 

(安政年間の絵図より・十三間町隣りに十九間町が有りました)

 

十九間町

この町名は明治時代には既になく、前は十三間町の入口の犀川大橋の方から河原町、大工町の出口辺りを十九間町と云ったそうです。5代護国公年譜には、享保18年(1733426日犀川川除町より出火し、十九間町58軒、十三間町18軒、また、十三間町5軒が焼け、変異記によると、伝馬町後養智辺りの小家より出火、木倉町、出大工町、古寺町、川(河)南町、河原町、大工町・十九間町、十三間町迄が焼失、妙源寺は無難とあります。往古は此の地は人家は少なく、十九間町は戸数十九戸十三間町は十三戸で、十九間町と十三間町との間は、空き地で両町が分けられていましたが、明治4年(18724月戸籍編成で、町名を取調べ、十九間町を廃し、正式に十三間町へ属した。ただし、それより以前も世間では十三間町とも呼んでいたそうです。

 

(旧十三間町)

 

拙ブログ

昔のまんまの町名④「十三間町」「十三間町中丁」「中川除町」

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12446898973.html

 

 

(つづく)

 

参考文献::「金沢古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行・新竪公民館創立50年記念誌「しんたて」金沢市新竪町公民館 平成153月発行 、「加能郷土辞彙」日置謙著、「金沢町人の世界」田中喜男著、「金沢町絵図・名帳」など

犀川大橋からスクランブ交差点まで③旧河原町・旧古寺町

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【犀川大橋→片町スクランブル交差点】

享保(17161736)の末ごろまで、旧川南町川(河)原町と呼ばれ旧河原町後川原町と呼ばれていたそうです。また、古寺町も昔は河原町と書かれています。

 

 

川南町:明治4年片町と合併、今は片町12丁目・河原町:藩政初期は、後川原町と呼ばれ本町の一つ 、昭和41221日に今は片町1丁目・古寺町:藩政初期に寺が集められ、元和の頃、ほとんどが寺町台へ移し、跡地を古寺町呼び、昭和4091日に今の片町2丁目)

 

(安政年間に絵図より)

 

小倉日記に、享保18年(1733426日に伝馬町より出火。川原町・後川原町・大工町が類焼とあります。享保の末頃迄も川南町辺りを河原町と呼びたりしこと知られけり。また、今いう古寺町も、昔は河原町と呼べり。高野山真言宗稲荷真長寺の由来書に、慶長12年(1607)に関東よりこの地に来て、中村刑部の取次で犀川河原町付近に寺地拝領したとあり、慶長15年(1610)には寺を造ったとあります。その寺地は香林坊橋下の古寺町入口富永氏の旧邸(今の香林坊下駐車場入口辺り)辺りでした。この外、寺の由来

にも古寺町の地を河原町と呼んだと書に載せています。

 

小倉日記:編著者等 小倉屋太右衛門・小倉屋八郎左衛門∥著 森田良見∥編   出版年・書写年、嘉永2年( 1849 8月 石川県立図書館森田文庫

 

(竪町も本名は竪河原町と呼び、元は河原が町地となり河原町と云いましたが、河筋に添い竪に繋がる町にで、堅河原町とは呼んでいたが、後には略して竪町・新竪町と読んだたと新竪町名願寺の由来書に、文禄元年()金沢河原町に於て寺建立仕と書かれています。.竪町、新竪町も本名は河原町と呼んだと聞きます。但し文禄元年の頃は、この地はまだ町地ではななかったという。)

 

 

(寛永8年(1631)の石浦神社氏子七ヶ村の絵図に川南町と書かれています?)

 

中河原之郷・福蔵院(俗に小橋天神)

元録3年(16903月、古寺町の福蔵院窓膳が筆記した小橋天神由来書に、当社は天満天神、往古河北郡吉倉村に御鎮座のところ、4代以前別当道安が霊夢をこうむり、香林坊小橋の爪河原に奉還のところ、近郷河原はわずかに家居10軒ばかりがあるところでしたが、追々家が建ち、春秋に祭礼の儀式も出来るようになったと云います。元来当社氏子地は、香林坊の小橋より犀川大橋、古寺町近郷は、往古河原にて、五ヶ之庄・富樫之庄・石浦之庄3ヶ所の出合の河原で有るところから、当院(福蔵院)は中河原之郷と唱へ、産子繁栄之祈祷札を配り、氏子繁昌の祈念を仕ったとあり。中河原というは、今の片町・河南町の地法にて、その上、この地辺犀川二瀬に流れたる中嶋なりしところから、世の人は中河原と呼び、その後、この地が町地になり、町名を立て中河原町と呼んだと有ります。

 

(片町きらら後、ここの宝来寺(小橋菅原神社)がありました)

 

福蔵院(俗に小橋天神)は、藩政期修験派山伏の旧宝来寺で、元禄3年(1691)の略縁起によれば、菅原道真公の弟が河北郡吉倉村(津幡町吉倉笠谷地区)に創建したと伝えられる神仏混淆の社で、後、社僧道安により犀川小橋際に移転し、慶長19 年(1614)大阪夏の陣がおこり、藩主前田利常公出陣に際し利常の乳人が無事凱旋を祈願したといいます。藩政期には今の片町きららの後にあった宝来寺明治の神仏分離小橋菅原神社になります。一時、ホテルエコノ金沢片町裏に移りますが、平成27年(20159月に取り壊され月極駐車場になり、今は飲食街になりました。

 

(平成27年まであった小橋菅原神社)

(現在は神社跡の飲食街)

 

旧中河原町(川南町)

三壺聞書に、元和6年(1620)の頃の記載に、中河原町に風呂屋あり湯女を置いていたという記事があるそうです。また、寛永8年(1631)の条に、犀川橋爪法船寺の門前より出火し、河原町一面が火と成り南風強く、中河原町大橋を焼け落したという。また貞享2年(1685)卯辰山の日蓮宗妙應寺由来書に、天正13年(1585)金澤枯木町にて寺地を拝領するが、翌年、御城下に惣構堀の普請で、さらに替地犀川中川原に拝領するが、侍屋敷になり召し上けられたと書かれています。

 

(今の旧河原町)

 

旧河原町(後川原町)

この地は、すべて犀川の河原で、3代利常公の時、坂井就安に命じ、町地とし旧古寺町、片町(旧川南町含む)、今の河原町(後川原町)の三筋の町を河原町と呼びました。片町川南町を中河原町と呼び、その後、後川原町河原町と呼び、古寺町の一町を河原町と呼んだと聞く。片町・河南町の一町は、三筋の中央の町は中河原町と呼んでいました。 

 

(今の河原町)

 

この町は、旧藩中は本町の一つで、元禄9年(1696)の本町肝煎裁許附河原町とあり。俗に後河原町とも呼んだと、元禄6年(1693)の士帳に後河原町と書かれ、三壺聞書に、中河原町とあるのは、河南町および片町を云う、そのかみ今いふ河原町・古寺町もみな古名は河原町と呼び、その中央の筋を中河原町(川南町・片町)と云いました。この町地は昔は犀川の河原で、利常公の時、犀川二瀬に分け、一瀬は香林坊際の小橋の下を流れ、ことに水深く船などを入れるほどなりしを、坂井就安へ命じて一瀬とし中洲を町地とし、これが河原町となったという。

 

(今の旧古寺町)

 

旧古寺町(河原町)

この町は、往昔は河原町と称し、一町みんな寺屋敷だったと云う。3代前田利常公の時、泉野寺町ヘ移転を命ぜられ、跡地は諸士の邸地に賜はり、それより古寺町と称したと云われます。この地の寺院共に転地を命ぜられし事は、三壺聞書に、元和2年(1616)の頃、瀧與右衛門と云う人、石川・河北両郡の裁許を命じられ、犀川大橋より坂の上は畠で、ところどころに小松があり、河原町(古寺町)の寺々を、その土地に移します。

 

(真長寺)                         (浄安寺)

(立像寺)                         (実成寺)

(妙典寺)

 

貞享2年(1685)の諸寺院由来帳等によると、寺町の浄土宗浄安寺、日蓮宗立像寺、日蓮宗妙典寺、法華宗実成寺、曹洞宗龍淵寺等は元古寺町(河原町)にあり、元和2年(1616)に、府内に散在する寺院を卯辰山、泉野の両所に転集するとあり、寺院の移転は、各寺院の由来書によると元和元年(1615)からだともいえます。外様の加賀藩は、大坂夏の陣後、いち早く泉野の台地に寺院を集め、越前方面からの防御として寺社を移転させ、いざと言う時に備え、城の護りとした事が窺えます。

 

(元和元年:慶長20年(元和元年(1615713日)5月の大坂夏の陣で徳川幕府は大坂城主の豊臣宗家を攻め滅ぼし、応仁の乱以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了し、幕府は、戦乱が終わり、武器をおさめ平和の時代の意味を込めて年号は元和をとします。)

 

古寺町古伝話

この町は、大昔、寺跡の先に古墳等の遺跡だと云われています。古伝話には、山伏福蔵院(小橋天神)の向かいに阿部氏の邸地門脇下の厩下(うまやした)に、古墳の石棺式石室あったと云われていますが、実否については詳らかではないという。明治の廃藩置県後、阿部氏はこの邸地を売却し、この地の主が退去して家屋は取り壊され、厩の後は商店になったという。

 

(現在の富永氏辺り・香林坊下)

(阿部氏と富永氏の屋敷が見える。安政年間の絵図より)

 

(つづく)

 

参考文献::「金沢古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行

藩政期の金沢片町①“町名の起り”と“金沢町名帳”

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【金沢片町】

この町は、金沢通町筋町割付に、片町二町三十三間三尺(2,790m)とあり、旧藩中は金沢の本町二十七町の一町で、犀川に直角に延びる北国街道の両側町で、東は堂形前、西は川南町に続きます。この地辺は、河原の中島だった頃は片側に掛作りの店だったという。それゆえに片町の町名が起ったと言われています。また、堂後屋(どしりや)の伝来には元和元年(16158月、利光卿(3代前田利常公)の印書に、片町どしりや太左衛門と載せられていて、元和以前より片町と呼ばれていた事が分ります。亀尾記に、片町は昔、尾坂下にあり、その頃、一方は城郭で、南側のみに町家あり、それゆえに片町と名付けたとあり、慶長7年(1602)に今の片町の地へ移転し、旧名から片町と呼んだと記載されています。

 

(現在の片町)

 

 

(お城になって移動した尾坂下辺り・米町?か)

 

堂後屋伝記によると元祖三郎右衛門は、能州字出津より天正10年(1582)に金沢へ出で、城辺りの米町?に居住したとあり、そこが後に藩の用地となり、片町へ転地を命ぜられます。以前の城辺の町地の上に米商人が居住し尾坂下といったらしく、亀尾記のこの伝説は、言い過ぎだと楠肇の小橋天神記に書いています。転地した片町は、それまで川原だった所で民家を移し、その後、寺庵を移し残らず隣地に家々が建ち連なり、俗に川原町と呼んだとあり、民家の片辺に建ち続いたところを片町と呼んだ云々とあります。片町は片原町の意で、本名は河原町なりとの説さもあるべしと、金澤古蹟志(巻16城南片町伝馬町筋)に書かれています。

 

金沢町格:藩政期町人の居住地は、本町、七ヶ所、地子町、相対請地、寺社門前地に格付けされ、町人の身分は、町並役を負担できる町人を領主は本町人と呼び(領主の荷物と人を運搬出来、町夫(1万人)・運搬用伝馬を常に66頭を常に用意し負担する。)それらを引き受ける役が住む町を本町と云いました。金沢町では、承応3年(1654)には27町、元禄9年(169639町、天明5年(1785)には40町、明治元年(186881に増加しています。本町に続いた「七ヶ所」は、領主に人足(2000人)だけを負担できる町々を七ヶ所と云い、承応3年(1654)に成立し明暦3年には7ヶ所ですが、元禄9年(169613ヶ所、文化年間には18ヶ所に増えています。地子(借地料・税)を払う町を地子町。他、相対請地、寺社門前地はまたの機会に譲り、ここでは割愛します。)

 

(文化8年頃の片町・金沢町名帳より)

 

拙ブログ

広坂通りから香林坊④「金沢古蹟志」の向田香林坊伝

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12395268257.html

藩政期の金沢の町格

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11928137734.html

 

 

犀川小橋(香林坊橋)

金澤橋梁記にも香林坊橋とあり。楠肇が書いた小橋天神記に、今の香林坊橋を犀川小橋と云い、またの名を道安橋ともいう。昔は犀川二流に流れて、大流に架かる橋を大橋と云い、小流に架かる橋を小橋と号します。寛永8年(1631)の夏、火災以後、城下の町街を改めた時、犀川を南北の岸へ一流に流し、小流は惣構の堀に用いました。また、道安橋と称したのには、小橋天紳社僧道安が橋側に住んで居たからと云われています。

 

楠肇:楠部 芸台(くすべうんだい・17591820) 父は鳳至郡の農家出身でしたが金沢に来て商いをします。芸台は号で、3歳のときから書道を学び、唐の大家欧陽詢の書風を再現する能書家で、能書学識を藩に認められ、享和2年(1802)に町会所記録方横目肝煎に抜擢されています。 芸台は南北朝時代の忠臣楠 正成の末裔を名乗り、頼 山陽も楠公信奉者でしたので、芸台頼 山陽の元へ長男を遊学させて縁ができ、芸台の死後、父親思いのが山陽に撰文を依頼、芸台頼 山陽の共通の友人であった寺島応養からの熱心な勧めで、撰文など書かなかった頼 山陽の心を動かしたと言われています。文政3年(1820929日死去。61歳。名は。通称は金五郎。号は芸台(うんだい)。著作に「加賀古跡考」

 

拙ブログ

犀川大橋からスクランブル交差点③旧河原町・古寺町

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12529898890.html

 

 

 

文化8年(1811)の「金沢町名帳」

金沢町名帳(川南町、片町、木倉町)には、片町の家数61家。川南町、片町、木倉町の肝煎は幸蔵とあり、川南町の組合頭は宮竹屋喜左衛門・片町の組合頭は唐物屋東蔵・木倉町の組合頭平松屋徳兵衛とあります。顧客を武士階級とする町人で構成され、兼業を含め質屋は8軒。を筆頭に、仏具・古道具商、小道具・地謡役者、古建具・古かね、表具師の住に関する商いが4軒。小間物3軒。小間物・墨・筆、筆、小間物・槙木3軒。足袋、船才許役加入・足袋、蓑・笠2、の生活に関する商いが4軒。造酒・味噌、八百物、請酒、煮売・請酒、団子・せん餅、生菓子、茶等、食に関す商い7軒。塗物・赤物2、椀・家具・赤物、が3軒。4、紙・小間物、紙合羽6軒。呉服・大物、仕立物2、糸6軒。扇子、紅、鬢付3軒。米仲買・紅1軒。蔵宿1軒。御手判問屋1軒。京都中使1軒。借家人入置4軒。肝煎手伝1軒。組合頭役・貸見せ1軒。御普請会所遠所川除図リ役1軒。出銀所御かね遣役1軒。町年寄2軒。

 

(私が知る限り、藩政初期から文化8年(1811)まで残っていた家は、あの芭蕉ゆかりの町年寄宮竹屋純蔵家、当時、葉茶屋だった椀・家具・赤物茶屋新七家、町年寄香林坊兵助家、そして次回に紹介する当時団子屋、文化8年葉茶屋堂後屋(どしりや)三郎右衛門が金沢町名帳に書かれています。)

 

 

 

(つづく)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行 

「加能郷土辞彙」著者日置謙  金沢文化協会出版 昭和17年発行 

おたま団子-諸江屋

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiF8o-lk4_lAhWLfd4KHSo6D84QFjAAegQIABAB&url=http%3A%2F%2Fmoroeya.co.jp%2Farchives%2F18&usg=AOvVaw1eEl6OFfhuX7vQfBVirQFY

藩政期の金沢片町②昔の大店(おおだな)!!

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【金沢片町】

文化8年(1811)の金沢町名帳の片町の項によると、当時、御用町人の町尾張町には後塵を拝していましたが、片町は家数61軒の本町で町年寄が2家、他にも町役人で兼業の家が3家、肝煎手伝、組合頭や蔵宿・御手判問屋といった御用といった藩に関わる家が8軒もあり、町年寄宮竹純蔵家倅伊右衛門の名前で薬種商売香林坊兵助家倅茂吉郎の名前で質商を、変ったところでは加賀宝生の地謡役者、脇方役者と兼業の2軒、今回、紹介する堂後屋はお葉茶屋さんとして健在で、他、後家さんの仕立屋2軒等などが軒を連ねています。(金沢町絵図帳に図面がありません。)

 

 

(現在の片町から香林坊方面)

 

金沢の町年寄:藩政初期(寛永期~承応期)の町年寄の名前は明らかではありませんが、慶安4年(16514月には、名前が明らかになり、一番組10人と2番組10人の20人が任命されています。以後、寛文9年(1669)には10となり、この町年寄は、これといった商いを持たず、藩主の要請で必要とする物資を調達する町人で、藩主と関係の深い職人と商人でした。延宝6年(1678には町年寄4となり、元禄4年(1691には町年寄3となり、喜多村彦右衛門、平野屋半助、紙屋庄三郎が任命され、いずれも藩主と関係の深い御用町人であるが、町年寄になる家柄はほぼこの頃より定着したものと思われます。しかし、慶安期を最後に国内が泰平になると、藩主の要請に応じ物資を調達する請負御用町人から、積極的に領内外から商品を集め、城下の武士・町人にがあらわれ、延宝6年(1678には、町年寄4になり、元禄4年(1691には町年寄3になりました。幕末まで長く町年寄を勤めたのは、香林坊三郎右衛門、平野半助、中屋彦十郎をはじめ、宮竹屋伊右衛門、本吉屋宗右衛門、金屋彦四郎浅野屋次郎兵衛等の子孫でした。(詳しくは:田中喜男「金沢町人の世界」)

 

拙ブログ

広坂通りから香林坊①香林坊の由来・・・

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12393298531.html

 

堂後屋三郎右衛門(どしりや)

堂後屋は、片町草創以来の旧家にて、数代居住し、初め銀座役で、後には名高き若茶の店でしたが、嘉永の頃についに家屋を売却して退去したという。その家は、今は有りませんが、片町の西側林屋(木倉町入口辺り)と呼ぶ茶店だと金沢古蹟志に書かれていります

 

堂後屋三郎右衛門は、能登宇出津の船問屋の次男で、天正 10(1582)、金沢に出て開業した。当初、米町?なる地所に店を構えたが、後に片町の権七ヶ辻在(現在の竪町通りの片町側入口)の向かいに移り、おたま団子で評判を取ります。「金沢古蹟志」によると、慶長13年(1608)堂後屋は2代藩主利長公より御判書ならびに紋付、帷子を賜り、町役を仰せつけられており、母まつ(芳春院)も恐らくおたま団子を好んで口にしていたものと思われます。

 

「おたま団子食うて、新七茶飲め、そばの願念寺で後生願え」

 

という童唄が明治末まで金沢で歌われていたらしく、茶屋新七おたま団子の堂後屋の筋向かいの葉茶屋で、元禄の頃、俳句の松尾芭蕉新七の一周忌に訪れた野町の願念寺は、その頃まではこの界隈にあり、この歌詞から金沢城下の名物事情が窺えます。

 

 

(現在の野町願念寺)

 

拙ブログ

金沢の「奥の細道」②犀川辺り(その二)

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11539467206.html

 

おたま団子は、黒あんよりも格上とされていた白あんを餅で包み、上にきな粉をまぶしたもので、 当時は2個刺しでしたが、通貨の変遷に合わせる格好で団子が5個刺しになったのは万治・寛文年間(16581673)で、四文銭が登場した明和年間(17641772)には、

4個刺したと云われています。

 

(実際、金沢の菓子作りがいつから始まったのかということについては、さまざまな説があります。最も古いものは、天正18年(1590)利家公が入府します。その頃は、城の周囲に菓子屋はなく、そこで、当時の御用菓子処だった堂後屋三郎衛門が、片町に1600坪の邸宅を拝領し、餅菓子店を始めたという説があり、金沢和菓子の元祖と言われています。利長公の時代に、藩の御用菓子師だった樫田吉蔵が五色生菓子を考案し、慶長5年(1600)、珠姫(天徳院)が金沢へお輿入れの際、五色生菓子を収めたのがルーツとされています。寛永7年(1630)頃、利常公が越中井波から菓子師を呼び、香林坊で加賀落雁を作らせたのが始まりともされています。寛永2年(1625)尾張町で創業した森下屋八左衛門が利常公の創意により、小堀遠州の書いた「長生殿」という文字を墨型の落雁にして創製したことが最初であるとも考えられています。「長生殿」は現在でも作られていて、金沢を代表する和菓子の一つです。)

 

(現在の竪町入口(権七の辻・この向にあったという堂後屋)

 

権七ケ辻(現竪町入り口)

片町より竪町へ入る四ツ辻で、昔は権七ヶ辻と呼びました。酢屋の権七といふもの此の辻辺りに居住し、それゆえ権七ヶ辻と呼んだという。後に呼び誤り“五七ヶ辻”と称したと呼ばれた時期もあり、今はその称も絶えて、世人知るものなしと明治の「金澤古蹟志」に書かれています。

 

(恒例の「百万石まつり」で珠姫をお慰みする酢屋権七)

 

酢屋権七伝:三壺聞記に、慶長10年(16057月、徳川二代将軍秀忠公の姫君「珠姫」が、まだ幼少でしたが、利光卿(後の利常公)へ御縁組で、金沢へ御入與、道中の御慰みとて、酢屋の権七は銀の立烏帽子に朱の丸付けて、直垂の装束にて御輿の先に頭をふり狂言を舞い、その聞には小歌の上手につれ歌をうたわせ、諸芸をつくし、金沢へ入らせたという。慶長69月の事で、村井長明の象賢紀略に、関ヶ原合戦の翌年9月、江戸より姫君様、金沢へ御輿入、御供大久保相模殿・青山常陸殿・鵜殿兵庫・青山善左衛門、その外少身衆多し。とあり。また、関屋政春の古兵談に、元和7年(1621525日筑前守様(後の利常公)御7歳にて金沢御護駕、初めて江戸御下向、首尾よく御目見等相済み、すべて御暇被レ進、同75日に金沢の御着きになられ、この御上下に酢屋の権七、素抱立烏暢子にて御道中狂言仕り、御機嫌を伺った。等等、逸話が多い酢屋権七は、金澤狂言師の鼻組といわれ、金沢墓誌には、天和元年(168111月に没したとあり長生きなり?野田山に墓所があります。その子孫も酢屋権七と称し、天保・弘化の頃は町会所の肝煎役を勤めたと伝えられています。しかし、文化8年(1811)の金沢町名帳の片町の記述には見当たれません?

 

(つづく)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行 

「加能郷土辞彙」著者日置謙  金沢文化協会出版 昭和17年発行 

「金沢町人の世界」田中喜男著 発行所国書刊行者 昭和637月発行

おたま団子-諸江屋

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiF8o-lk4_lAhWLfd4KHSo6D84QFjAAegQIABAB&url=http%3A%2F%2Fmoroeya.co.jp%2Farchives%2F18&usg=AOvVaw1eEl6OFfhuX7vQfBVirQFY

 


藩政期の金沢片町③町年寄(家柄町人)宮竹屋伊右衛門家

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【金沢・片町】

宮竹屋伊右衛門家は、拙ブログ“川南町の酒造業の宮竹屋喜左衛門”の項ですでに書きましたが、延宝2年(16742代伊右衛門の代に藩主前田氏の三味薬(紫雪・耆婆万病円・烏犀円)の調合許可を願い出、2代目病死後、3代目勝則に販売ならびに自家調薬を許されます。後に、前田家から越中古国府勝興寺に養子に出されていた時次郎が兄10代重教公の命で還俗し11代治脩公に立たれた時、縁故があり取立てられ、町年寄の家柄に加へられ、町年寄や銀座役を勤め、後に藩から亀田姓を名乗ることを許されています。歴代の中には、松尾芭蕉の弟子で、芭蕉の金沢滞在にも関わった4世宮竹屋勝豊(小春)”や頼山陽に師事し、後に春日山窯に青木木米を招いた7世宮竹屋伊右衛門勝善(亀田純蔵 号鶴山)”などが有名で、代々は金沢の町年寄を輩出しています。

 

(家柄町人とは、その大半が加賀藩草創期において、何らかの形で前田家に協力し種々の特権を与えられた門閥的特権商人です。制度として確立したのは意外と遅く文政2年(1819)で、金沢では巷間、町人大名とも称されました。宮竹屋の亀田姓は文政11年(1828)苗字が許されその時「亀田」を名乗りました。)

 

 

(芭蕉の辻の碑・この辺りに亀田家がありました。道路拡張で建物は壊される)

 

亀田勝豊(宮竹屋小春)(かめだかつとよ):宮竹屋勝豊は、寛文6年(1666)の生まれで4代目です。俳号を小春といいました。芭蕉に師事して、

芭蕉北陸巡行のときに句空、牧童、桃妖らと活躍しました。元文5年(1740)没しました。「3代目勝則(長男)・分家喜左衛門・俳号竹雀(次男)・4代目勝豊(三男)」

 

 

(亀田勝善の肖像画の模写)

 

亀田勝善(宮竹屋鶴山)(かめだかつよし):宮竹屋は薬種商で勝善は7代目にあたります。明和5年(1768)の生まれ、通称純蔵、号は鶴山といいます。詩を好み、頼 山陽に師事しました。水墨画も嗜みました。青木木米を招いて春日山で陶窯を起こしたりしました。天保5年(183466歳で没しました。

 

(片町北国銀行・この辺りが亀田家跡)

 

拙ブログ

犀川大橋からスクランブ交差点まで①昔は川南町と呼んだ・・・。

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12529898890.html

 

紙本著色金沢城下図(犀川口町図)六曲一双一隻 の部分

(縦151.5センチ  360.0センチ屏風 )

福島秀川筆(江戸末期)、石川県立歴史博物館所蔵  金沢市出羽町3-1・県指定文化財  昭和61322日指定・著作に「秀川」の落款があるところから福島秀川であるものと思われます。秀川は本名を白木屋清太郎といい、絵を狩野盈信黒川に学び、文化元年(1804)金沢に生まれ、明治13年(1880)に76歳で亡くなった。

(宮竹屋伊右衛門家の前口は十四間五尺・天保年間に描かれた福島秀川筆「金沢図屏風」の制作願主が宮竹屋亀田本家9世伊右衛門純蔵だと云われています。)

 

明治期の12世伊右衛門は、加賀藩前田家の家臣で7800石を拝領した青山将監の庶子清次で娘貞の入り婿になります。清次は、後には県政でも活躍し県会議長も務めますが、明治32年(1899)に没します。享年46歳。その後、亀田薬輔は明治39年(1906)、12世伊右衛門と交友関係のあった初代辰村米吉氏が営業を引き継がれました。

 

(辰村組が請負ったレンガ造りの四高)

 

初代辰村米吉氏:文久元年(1861)加賀藩士辰村栄国の二男として生まれ、石工から明治18年(1885)に土木建築請負業を始め、舞鶴軍港や四高の建築工事に成功します。その後、明治31年(1898)には竪町入口で3階建ての勧工場「正札堂」の経営や明治34年(1910)には市政に、さらには県政へ、大正4年(1915)県会議長も務めました。大正14年(1925)金沢商業会議所の会頭に就任しています。その間、明治39年(1906)亀田薬輔の営業を開始しました。昭和3年(1928)没しました。享年68歳。

 

2代目辰村米吉氏は、明治31年(1898)生まれ。昭和9年(1934)に金沢で発行された「家庭の鑑」には、土木建築請負業の辰村組の他に亀田薬輔、蛤坂の料亭望月(後に寺町移転、戦時中疎開した作家の曽野綾子氏が住む)の経営があげられています。

 

(つば甚)

 

余談ですが、2代目辰村米吉氏は、昭和23年(194811月、茶道宗和流の13代家元(辰村宗興)を受け継ぎ、吟風庵と号し、亀田伊右衛門家の芭蕉所縁の茶室「是庵」に住みます。昭和29年(19541018日のお亡くなりになり、昭和32年(1957)には敷地の一部が道路拡張になり、その茶室「是庵」は寺町料亭つば甚に移築されています。

 

どんどん、脱線してしまいました。・・・

お陰で、明治期の立志伝中の人物が見えてきました。金沢は、やっぱ・・・歴史の町です!

 

(おわり)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行 

「加能郷土辞彙」日置謙著  金沢文化協会出版 昭和17年発行 

「芭蕉金沢における十日間」密田靖夫著 能登印刷(株) 兼六吟舎 平成12年発行

「家庭の鏡」昭和6年発行

「金沢町人の世界」田中喜男著 発行所国書刊行者 昭和637月発行

藩政期の木倉町①炭薪屋俵屋と御荷川伝説?

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【木倉町】

元禄9年(1696)の金澤町肝煎裁許附に、木倉町が本町に載っているとか、その町地は家数33の町で、本町27町に加へられたとあります。この町地に昔旧藩の材木蔵があり、町名を木倉町と呼び、町の西方半ば出大工町と称し、大工が藩より邸地に賜っていました。寛文3年(1663)には町中にあった地子3地子銀免除し本町並みに組み込まれ、文化8年(1811)には、家数38軒(内武家3家)町人の職業は小間物商5、古手古道具商4、・秕屋・湯風呂屋2・大工2・線香商・鞘師・上絵書・白銀細工・三味線張替・袴屋・塗師と専門職が多く、他に京都仲使・藩医、出大工町の続には、大工肝煎2人の拝領地がありました。肝煎は、川南町、片町と同じ幸蔵が、組合頭は平松屋徳兵衛、明治4年(1871)に出大工町と合併し家数79となったと平凡社の「石川県の地名」や「金澤町名帳」に書かれています。

 

(木倉町)

 

才川小橋の下木町(木倉町の旧町名か?)

旧家に所蔵する利光卿(利常公)印書に、才川小橋の下木町、地子銀の事が載っています。共の印書写しは下記の通りですが、下木町は木倉町の古い呼称とする説があります。

 

 

元和9年(1623)より才川小橋の下木町の地子銀は1913分八8厘のほか8八匁61厘歩入

右うけ取所如レ件。

元和9年(16231127日   (利印)

                          加兵衛

                          九兵衛

 

「金沢古蹟志」によると、犀川小橋の下の木町は、今、云う木倉町で、元和2年(1616)霜月(陰暦11月)5日三ヶ国宿に伝馬役の定書に、金沢の内卯辰之木町(卯辰四丁木町)・宮腰口之木町(安江木町)・森本之末金屋町五間に一間は御役に事とあり、この頃犀川口の木町は今の木倉町で、三町とも昔は材木問屋がいて、材木商人ども居住し木町とは呼びたるべし。とあります。

(文化8年の出大工町)

 

出大工町

元禄6年(1693)、出大工町末火除近所等が見え、同9年(1696)肝煎裁許附に、出大工町とあり、木倉町と同じ町で、そのかみ大工共の邸地に賜り出大工町と呼んだとあり、明治44月戸籍編成の時、出大工町の町名を廃し木倉町へ属したとあります。

 

(右の樹木のところに上宮寺がありました)

 

出大工町の大工来歴によると、貞享2年(1685)の金澤組大工肝煎六助由緒書に、天正12年(1584)御帳面に大工100人余り御判紙をもって屋敷拝領を仰せ付けられ、棟梁に100100坪)、仕手大工には一人50歩(50坪)ずつ、今町・中町・修理谷坂近辺の内大縄にて下され、その所を大工町と呼んだという。寛永8年(16314月の金澤大火の時類焼し、同年拝領屋敷所替を仰せ付けられ、犀川大工町・出大工町・浅野川観音町にて代り地を下されたとあり。一説には、そのかみ大工共の居邸を、犀川大工町の地浅野川観音大工町との両所を賜わり、大工共の邸地を木倉町にて賜わり、それにより出大工町と称したという。

 

 

木倉町上宮寺

真宗の東方の道場で、三箇屋版の六用集に、上宮寺出大工町。と書かれています。明細記に上宮寺開基は唯性(新田義貞の3男の義泰)と云う。本願寺3世覚如法主より信仰二心なきを感賞して、祖師眞蹟の十字名号を賜わり延文31358)石川郡押野村に一宇建立、七世慶了代の天正年中、織田信長が石山本願寺を攻められたおり戦功があり、本願寺十二世教如法主がその誠忠を感賞し、寿像を賜わり。天文12年(1584)正月押野村より金澤へ移転し、2代藩主前田利長公より、木倉町の地を寄附され、十二世慶了の時本願寺東西に別れ、この時父子流浪し佐渡に移るが、慶長8年(1603)利長公に召しだされ金澤へ来て、出大工町に寺地を拝領。隣の小路は、元禄6年(1693)の士帳に、出大工町の御坊の小路。と云われていたそうます。尚、昭和57年(1982)に創建の地押野に戻り再建されました。

 

(上宮寺跡の木倉町広場)

 

俵屋宗達「出大工町の上宮寺前の炭薪屋」伝説?

宗達は、元は炭薪屋で出大工町に住んでいたというものや、京から金沢の出大工町に移り住み京では行方不明扱いだったなど・・・。真偽の程は定かではありませんが、宗達が寛永19年(1642)ごろ法橋となり、同年加賀藩3代藩主前田利常公の命で、利常公の四女・富姫が八条宮智忠親王に嫁ぎ八条殿内に御内儀御殿を造営した際、その化粧之間や客之間の襖絵を描いたのが縁で、寛永20年(1643)から正保初め頃に金沢に下り、前田家の御用絵師になったと伝えられています。

 

 

 

弟とも弟子とも云われている俵屋宗雪は、宗達存命中は、工房を代表する画工の一人で、宗達没後は、金沢の工房を継ぎ前田家御用達となり、工房印「伊年」を継承し工房作品に用たため、宗達と混同される場合が多く、宗雪(喜多川相説)の工房が出大工町辺りにあったと云われているので、炭薪屋伝説が生まれたのかも・・・。

 

拙ブログ

金沢の俵屋宗達伝説

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11714480833.html

 

(木倉町の旧家)

 

鬼川(大野庄用水)と御荷川橋

“鬼川”は別名お荷物の川と書いて、「御荷川」と呼びますが、その用水に架かる橋を今も「御荷川橋」と呼びます。著者な金沢の郷土史家日置謙氏の「加能郷土辞彙」には、“金沢城普請の時、宮腰か材木等を、この川に引入れたのでお荷物の「御荷川」の名も生じたというが、運搬の用に立てる程、水量でもないので、この説の当否を知らぬ。”と書かれています。また、明治の郷土史家森田平次著の「金沢古蹟志」には、「御荷川」は金沢城普請の時分、宮腰より荷等をこの川筋で引上たり、お荷物の「御荷川」といい、“俗に鬼川という”とあり、大橋下流の大野堰から御荷川橋、木倉町に引き上げたと言う説もあります。さらに、昭和のはじめに近くの寺院養智院が発行した本に“鬼川”が明治維新後「御荷川」と改称されたと書かれたものあります。となると、お荷物の“御荷川”が昔から無かったようにも思えます。

 

(こうなると、誰も見て来た人は居ないので、どちらも否定も肯定もできませんし、コンガラカッテしまいます。まさに伝説とか伝承です。こんな話は、たぶん歴史の先生は嫌いでしょうが、私はこんな話が大好きで、観光のガイドをする時は、こういう説もあり、また、このような説もありますなどと言って、笑いを誘い、お客様とコミュニケーションをとるきっ掛けにしています。)

 

実際はどうなのか?となると、木を集積したという木倉町という地名も有り、下流には「木曳川」もあり、藩政時代は、下流の木揚げ場安江木町などが有りますので、古くから木を運んだ川で有ったのではないかという推測も成り立つように思いますが、しかし、鬼川を引き上げたのではなく、材木を宮腰から犀川の本流へ引き上げ、大橋下流の大野堰から御荷川橋、木倉町に引き上げたと言う説に軍配を上げたくなります。

 

拙ブログ

福は内、鬼や内、冨永家

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11454194825.html

養智院と鬼川

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11456182597.html

 

(つづく)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行 

「加能郷土辞彙」日置謙著  金沢文化協会出版 昭和17年発行 ほか「金澤町名帳」 平凡社の「石川県の地名」

木倉町から片町2丁目、そして平成15年、38年ぶりに旧町名復活

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【木倉町】

昭和37年(19625月に「住居表示に関する法律」が施行され、金沢市は住居表示整備実験都市の指定を昭和37年(19628月に自治省から受け、住居表示の現代化のモデル都市とされ、いち早く町名の整理が行われました。木倉町も昭和40年(196591日に地域の13の町名が統合され「片町2丁目」になり、藩政時代からの歴史ある町名”木倉町“は消してしまいます。

 

(現在の木倉町入り口)

 

昭和40年(1965)片町2丁目になった旧13町:上伝馬町、北長門町、木倉町、大藪小路、古寺町、裏古寺町の全部及び犀川下川除町、南長門町、十三間町、片町、横伝馬町、長町河岸、長町一番丁の各一部で、住居変更前の昭和39年度刊行社「住宅詳細地図」によると、木倉町には74の店舗や住宅があり、その内飲食店は11軒、民家は16軒、理美容店4軒、麻雀・撞珠店が2軒、その外41軒は物販店でした。)

 

(左木倉町広場(上宮寺跡))

 

町名復活:平成の市町村合併で多くの地名が消えていくなか、歴史の町を標榜する金沢市では、過去の反省から町名は文化遺産だとして、全国に先駆け旧町名を復活させるという事業を平成11年(199910月から行い、最初に主計町の町名復活に取り組み、4番目の取り組みとして、地元の強い要望から平成15年(200338年ぶりに「木倉町」の町名が復活しました。

 

(昭和39年以前かある陶器屋さんとレンガ建物は昔純喫茶の寿苑)

 

(木倉町は、昭和40年(1965)の町名変更以後も、道筋を木倉町通りと称し、また、商店街名として残っていて、「木倉町」の旧町名復活は比較的スムーズに行なわれたものと思われます。全国でも初めての商店街の旧町名の復活となりました。)

 

(平成11年(1999)、山出保氏が市長時代、市内にある「旧町名」を復活する運動が始まり、現在17の旧町名が復活していますが、当時の山出保市長は旧町名の復活は「懐かしさよりもコミュニティーの復活」とおっしゃっています。金沢の文化の高さを示す試みで、最近では今年(令和元年)11月に金石新町・金石今町・金石海禅寺町3町名が、来年(令和2年)秋、新たに金石下寺町・金石上浜町・金石浜町・金石松前町・金石御船町が住民合意にこぎ付け、5町名がよみがえる見通しがたったと冷和元年1017日に新聞発表がありました。金沢に於ける町名復活の実績は、主計町・平成11年、下石引町・平成12年、飛梅町・平成12年、木倉町・平成15年、柿木畠・平成15年、六枚町・平成16年、並木町・平成17年、袋町・平成19年、南町・平成20年、下新町・平成21年、上堤町・平成21年・金石通町・金石下本町・金石味噌屋町・平成30年、観音町1丁目・観音町2丁目・観音町3丁目・令和元年に17の町名が復活しています。)

 

(木倉町の案内板)

 

現在の木倉町は、居酒屋・大衆割烹・天ぷら・スペイン料理・欧風料理・韓国料理・中華料理・焼き鳥そしてバーなど、“やきとり横丁”約10店を含めて飲食店は70軒。昭和の商店街とは随分、様変わりですが、平成、令和「まちなかの飲食街」といったイメージの町で、大勢の市民や観光客が、お昼や夕暮れ時に気軽に立ち寄って食事をするなど、安心して楽しいひとときを過ごせる町です。また、毎年7 月末から8月上旬に開催される「木倉町ふうりんまつり」では、木倉町一帯に、およそ1500個もの風鈴をつり下げて涼しげな音を響かせ、木倉町広場には、種々の飲食店が出店し、縁日のような雰囲気で賑わっています。

 

(やきとり横丁)

 

やきとり横丁(約10軒)昭和40年代の始めに、当時の大和デパート前のいとはん裏にあった屋台村の立ち退きで、何名かで共同購入した大きな家を戸割にした78人も座ればいっぱいになるお店で、常連客を相手に、大屋根の下で、なんとも懐かしい店舗が軒を連ねていますが、そのルーツは昭和30年代の町中にあって屋台のやきとり屋や餃子屋が香林坊の大神宮が移転し、その空き地になった処に集められたものと聞いています。

 

 

(木倉町裏の広い道の先に中央味食街新天地飲食街

 

やきとり横丁裏から23分のところに、昭和ロマンの風情あふれる屋台街「金沢中央味食街」や片町の「新天地飲食街」とレトロな横丁が軒がなります。どのお店も店内は狭くて座席は数席。初めての方も1人でも常連さんも、老若男女、カウンターの端から端で自然と会話がはずみ、どのお店も素朴な手料理でお手軽なお値段です。

 

大神宮:明治21年(18888月に設置された神宮教金沢本部に始まる。明治23年(18906月、神殿を建立して、皇大神宮分霊を迎える。当時は香林坊にあり(現在の香林坊東急)、門前は金沢の繁華街の中心となり、境内には劇場や映画館が立ち並んだ。通称「香林坊大神宮」と呼ばれた。昭和34年(1959)、香林坊から移転。)

 

(シャッターの店が草履店)

 

P.S

中学の頃、初めて“夜遊び”をしたのが木倉町でした!!というとよっぽど不良の様に聞こえますが、当時の木倉町は、今、調べて見ると居酒屋など飲み屋は少なく、お好み焼きや食堂などの飲食店は11店舗、他は個人の住宅と物販店が約41店舗もあり、繁盛店も多く、裕福な家の子の同級生もいました。当時、我が母校の紫錦台中学は農村地帯の崎浦小学校と月給取りが多い住宅地の石引町小学校、そして、当時も中心商店街のある長町小学校が通学圏で、特に木倉町には元気な同世代の子供も多く、同級生には、よん坊・とし坊・とう坊と名前の下に“坊”の付く同級生がいて、その中に、草履屋の長男なのでぞうりやの坊やから“ぞん坊”と呼ばれる人気者がいました。彼が校下を越えて数人の同級生を誘い、夜、彼の家に集まることになり、それが、私にとって1人で初めての夜の外出でした。家には、友達宅で勉強へ行くと云い、見え透いたを付き、教科書を風呂敷に包み出掛けると、同じを付き出て来た同級生が居たりして、今でも懐かしく思い出されます。お茶に駄菓子でワァーッと騒ぎ、駄弁っただけでしたが、それが心の隅っこに残っているのか、木倉町を通る度に私の始めての夜遊び?が思い出されます。年に数回、買い物もしないのに店の前を通ると時々に顔を出していましたが、今年、店仕舞いされ、最近は、たま~に通ると降りているシャッターを横目で眺めながら、当時の情景が思い出され懐かしくもあり心寂しさを感じています。

 

参考文献:「長町校下の変遷」昭和524月長町公民館発行 「長町公民館50年記念誌」平成144月長町公民館発行 「昭和39年度金沢市詳細図」など

片町2丁目の旧町名伝馬町(上・下・横・裏)

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【片町2丁目】

昭和40年(1965)金沢市の町名統合で、片町2丁目や中央通町等に町名変更になった上伝馬町(片町2丁目)下伝馬町(中央通町)横伝馬町(片町2丁目、長町2丁目、中央通町)裏伝馬町は、藩政期からある地名で、藩用の人や荷物を運ぶために66匹の伝馬が置かれたことからこの名が付きました。藩初は橋場町付近に置かれ、以後犀川に移されています。上・下・横・裏伝馬町は地子町の一つでした。

 

伝馬:幕府、諸大名、公家などの特権者の公用の人や荷物の継ぎ送りにあたった馬で、古くは駅制にも伝馬の制がありましたがその後廃絶します。戦国時代に諸大名は軍事的必要から領国に宿駅を設置し伝馬を常置します。江戸時代になると徳川家康が慶長6年(1601)東海道,中山道に多くの宿駅を指定し、36頭ずつの伝馬を常備させたのが初めで、寛永 15年 (1638)に幕府は東海道 100頭,中山道 50頭,日光,奥州,甲州各道中 25頭と定めた。)

 

(伝馬町碑・大野庄用水脇)

 

旧伝馬町

改作所旧記にある寛文10年(1677)の届書に、伝馬町うしろの川除に、また、元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許付に、伝馬町・下伝馬町・横伝馬町・裏伝馬町。と記載され、4町に分れていて、今は上伝馬町・下伝馬町・横伝馬町・裏伝馬町の4とするとあり、この町は旧伝で云うには、旧藩の藩初以来伝馬で、金澤伝馬役の馬を継ぎ置く厩をこの町内に建てたので、伝馬町と呼んだと言い伝えられています。享保12年(1727)の「はなし随筆」に、伝馬町馬貸何某が家に居る六兵衛と云ふ馬子の伝話があり、天保・弘化の頃までも、この町の入口に馬借の家があり、貸馬を継ぎ置板と書かれています。これは国初以来伝馬の余波か?おもうに、町名を呼びはじめた頃、この町地は伝馬・馬借の家共を集め置かれたゆえに、自然と伝馬町と呼んだのでしょうか?

参考:「はなし随筆」加賀藩の下級武士森田小兵衛盛昌が、親戚縁者や同僚・友人知人等から聞いた日常の興味をそそられる色々の話、珍しい話、不思議な話等々をまとめたもの。

 

 

(淨誓寺)

 

横伝馬町の淨誓寺

東方真宗のお寺、元能美郡小松にあったので俗に小松御坊という。三筒屋版の六用集に、淨誓寺伝馬町とあり。明細帳に、当寺は能美郡小松町真宗東派淨誓寺の分寺で、小松淨誓寺第五世住職正願、檀家及び信仰の門徒の情願に依り、慶長9年(16043月金澤伝馬町の今の地に一寺を創立し、淨誓寺と号す。とあります。この時より小松・金澤両所に淨誓寺が存在するようになりました。

 

(昭和29年の周辺地図)

 

旧横伝馬町・旧裏伝馬町

金澤古蹟志によると、元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許附に、横伝馬町・後伝馬町。と有ります。護国公年譜に、享保18年(1733426日、犀川川除町より出火、後伝馬町・横伝馬町・下伝馬町等焼失。とあり。後伝馬町は今裏伝馬町とあります。

 

(伝馬町入口の大野庄用水に架かる五枚橋?)

 

伝馬橋?

金澤古蹟志に金澤橋梁記の“伝馬橋出大工町上り口也。”とあるのは誤りで、伝馬橋は伝馬町入口の鬼川(大野庄用水)へ架けたる橋だというが、伝馬町入口の鬼川(大野庄用水)の橋は、今、旧伝馬町の入口にある橋だろうか?欄干が一つで橋の名前がありませんが昭和年月架橋の文字がありだけです。確か昔の文献には五枚橋と書かれています?

 

(現在に片町伝馬商店街)

(片町伝馬の看板)

 

旧下伝馬町の土室淨照寺

東派の真宗道場で、俗に土室御坊と呼ぶ。もと能美郡土室村にあった寺で、貞享2年(1685)の由来書に、開祖慶正が長禄2年(1458)に加州能美郡土室村に建立。五代正慶の時、金澤伝馬町へ移転造立したとあります。加越闘諍記・北陸七国志等に、享禄4年(1531)朝倉宗滴、加賀国一揆征伐として出勢の時、石川郡番問・土室・藤塚所々を放火し、その時玄任組の者ども同心の内通衆一勢、傍へ退いたとあり、土室浮照寺の開祖慶正なども、玄任組の一人にて、そのかみ土室坊慶正と呼び、本願寺方一揆魁首であったと思われます。蜷川親元日記に、文明8年(14761227日上村秀慶入道、嵯峨三秀院領加州上土室事、さる長禄2年(1458永代232貫文を以て買得た処、槻橋兵庫がわけ無く押領云々。とあり、上村秀慶入道は、上土室村の秀慶入道で土室坊慶正の父といわれ、長禄2年(1458)に土室村に道場を建立したとすれは、同時代にて、若しくは同人と云われています。

 

(現在に土室浄照寺)

 

土室小路

淨照寺の脇の犀川に抜ける旧茶木町の小路をいう、淨照寺を土室御坊とも土室淨照寺とも云うことから小路と呼びました。淨照寺を土室御坊と云うのは、昔からで、町会所留記にも載っています。天和3年(168311月伝馬町町役人の家の張紙に、つちもろの御坊のあたり後家・むすめ云々。と見え、元禄6年(1693)の侍帳に、法船寺町土室御坊近所とあり。此の地は法船寺町の町地の近くであり、法船寺町土室御坊と載せたのでしょう。

 

(土室小路・犀川より)

 

余談:学校に届けられた犀星のラブレーター

明治37年(1904)県立第一女学校に恋文が届けられます。宛名は3年生の淨照寺の娘土室きわ宛に立て続けに2通が送られてきました。送ったのは1歳年下の室生照道(犀星)少年でした。当時、良妻賢母を養成する県立一女学校は特に男女交際に厳しく、異性に関われば事は、即刻退学処分さえ受けねばならないところでしたが、差出人(照道少年)が土室きわとは何の関係もない事が判明し、担任の先生より戒告を受け手紙は没収され、その場は収まりますが、事件はすぐ級友に知れ渡り、親しい友人からも「それ見まっし、平生きかんさかい、男の子から手紙なんかが届くがや。気を付けんかいね。学校や組の恥になるがやゾ・・・」と云われたらしい・・・。

 

ところがまたもや、今度は黒百合の絵に短歌一首を書き添えたハガキが届き、散々戒告を受けた彼女はチラッとみただけで、担当の先生はゴミ箱に捨てたという、事ここに至ってはと、きわはこの事件を家に話しと、義兄は照道少年学校に送らず家に送るようと手紙で書き送ると納得したのかそのままラブレーターは来なくなったとう・・・。

 

(土室小路)

 

しかし、この話には後日談があり、明治39年(1906)の1011月ごろに香林坊の福助座で「阿波の鳴門」という芝居がかかり、きわは姉と連れ立って見に出掛けると、照道少年(犀星)に出会ってしまい、隣の枡(座席)に座ってしまい、ここは照道少年にとって千載一遇のチャンス、“学科は何が好きだ”の“短歌が好きなら詠んでみせて”やとか“自分の好み”を話すなど、終始、手を握り離さなかったという。そしてそのうち“犀川辺り散歩に行こう”とか“手紙が欲しい”と望まれたという。それにはきわは、きっぱり断ったということだそうですが、きわの本心は、彼を嫌っていたとは思えなかったかもネ・・・。

参考:山本久「なお生ける犀星明治三十九年の恋人」より(「国文学 解釈と鑑賞」第432号 昭532

 

(現在の旧伝馬町周辺の地図)

 

現在の伝馬町界隈は、旧町名が冠の町内会が平成17年(20054月に「片町伝馬商店街」を発足し、“巡れば城下の面影、日が暮れれば美味しい街”として昔ながらの名店と新しいお店が競い合い金澤らしさを引き継いでいます。

 

参考文献:参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行 ほか

藩政初期は武家地だった旧南長門町、旧北長門町そして旧塩川町

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【片町2丁目・長町2丁目・中央通町】

金沢では藩政期、武家地は藩の行政組織が管理していたので正式な町名がなく武家地は通称で、屋敷は○○殿町や下屋敷は○○家中町(かっちゅうまち)と呼ばれていたそうです。明治維新以後、例えば本多家の屋敷跡地や横山家の屋敷跡地に、町名が付けられ本多町横山町と呼ばれ以下多くの武家地は同様です。町人は金沢町奉行支配で町が単位で肝煎や組合頭が管理するため正式な町名がありました。明治維新からは武家地を除き、ほぼ藩政期からの町名が残り、武家地には新しい町名が付けられます。ところが長門家の屋敷は、藩政初期、上屋敷の有った長門町から、下屋敷の有った小立野石引町に移り、その跡は、お寺と長門町と云う名の地子町になります。

 

(大野庄用水に架かる長門橋)

 

旧長門町(昭和409月より片町2丁目、中央通町)

元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許附に、後(裏)伝馬町と長門町が並んで載っています。年譜に、享保18年(1733426日犀川川除町より出火、長門町等類焼すとあり。貞享2年(1685)の養智院由来書に、正保3年(1646犀川長門上地にて寺地として拝領したと載っています。長門上地は、長門町のことで、正保の頃には長門上地町と呼ばれていたようです。後に略称長門町とは称したもので、旧伝に長門町は山崎長門の旧邸だったもの記されています。南・北長門町の両町名は、文政6年(1823)長門上地町が町立てされ、南長門町北長門町になりました。

(山崎長門旧邸は、寛文7年(1667)の金沢地図にはない。)

 

 

 

拙ブログ

養智院と鬼川

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwir57yw6cXlAhVqzIsBHYEuCVAQFjAAegQIAhAB&url=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fkanazawa-saihakken%2Fentry-11456182597.html&usg=AOvVaw0QdnIsfpmJ2Saopx6LHgOL

 

山崎長門旧邸

旧伝では、山崎長門は元この長門町の地にお屋敷があり、中屋敷は修理谷の高にあり、下屋敷は小立野石引町にありました。しかし長門町のお屋敷が召し上げられ、中屋敷もご用地となり、小立野石引町の下屋敷内へお屋敷を移し、明治まで小立野石引町(明治以後町名を山崎町)に居住します。遡ると三壺聞書に、寛永8年(16314月金沢火災の時、惣構の外の長九郎左衛門、山崎長門家類焼したとあります。

 

山崎長門家

山崎氏の出自については、「藤原氏の末裔」説や、山崎家伝承による「村上源氏赤松氏流の末裔」説など諸説がありますが、金沢古蹟志によると、本姓赤松氏。村上源氏で播磨にあり、後醍醐天皇の皇子護良親王(大塔宮)の令旨を受けていち早く挙兵し、建武政権の樹立に多大な功績を挙げたことから、建武の新政において播磨国守護職に補任され、後に有力な後ろ盾だった護良親王皇位簒奪を企てたとして失脚すると、播磨国を没収され、新政から離反した足利尊氏に味方し延元元年(建武3年)(1336)の湊川の戦いで尊氏を勝利に導く遠因を作ったと云う名門で、後に、一族の山崎長徳が朝倉義景に仕え、朝倉氏滅亡後は明智光秀、佐久間安治(柴田勝家の家臣)に仕え、勝家が死去すると前田利家公に、次いで天正11年(1583)前田利長公に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは加賀国大聖寺城の山口宗永、山口修弘親子を討ち取るという功績を挙げ、関が原の戦後に利長公から14,000石の所領を与えられます。慶長19年(1614)から大坂の冬、夏両陣にも参戦し、末森の合戦をはじめ数々の合戦に功をなし元和6年(1620)に69歳で没しています。

 

息子の長郷の妻は、前田利家息女・豪姫の娘で、前田利長公養女となった女性理松院(貞姫)であったという。

 

簒奪(さんだつ):本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。 あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事。

 

(寛文7年に金沢図・石川県立図書館蔵)

 

旧塩川町(昭和409月より片町2丁目、長町2丁目、中央通町)

この町内に藩初、藩士塩川氏が数代居住したので町名が付けられたと云われています。塩川氏の邸は、寛文7年の金澤図にもあり。元禄6年(1693)の士帳に、塩川安左衛門出大工町末火除右角とあり。その頃から火除地の左右両町を塩川町と呼んでいます。延宝の頃は両町の中央火除地にて、両側のみ邸地で、その後、火除地も諸士の邸地に賜はったと書かれています。そして両町ともに昭和40年(19659月まで塩川町と呼ばれていました。明治から町の半分が長町小学校の敷地に、昭和には中央通りの町の真ん中を通り、平成になると町中の児童減り小学校の統合からバスの駐車場と学校の建物を利用して金沢市中央公民館長町館になりました。

 

(昭和29年の長町界隈)

 

塩川安左衛門伝

家譜に、元祖安左衛門は、慶長19年(1614)微妙公(3代利常公)に召抱えられ、家禄700石を賜はり、使番を命ぜられ2代安左衛門萬治3年(1660)に家督を継ぎ、小松町奉行を勤めました。2代目には2子がいて、長男平八は父遺領の内500石賜はり、安左衛門と改称し、次男伝兵衛へ200石配分し賜はり、両家がなるとあります。吾が藩士に成ったのは、慶長19年(1614)前だろうと思う、慶長1718年(16121623)の士帳に、馬廻組700塩川孫助と載っています。元和元・2年(16151616)の士帳に、使衆700塩川孫助とあり、寛永4年(1627)の士帳にも、同様に載っていて、されば利常公に召抱えられたのは、慶長1718年(16121623)にて、初は孫助と称したが、寛永4年(1627)以後安左衛門と改称。寛永19年(1642)の小松士帳に、700石塩川安左衛門大領とあり、されば利常公が小松へ養老した時、召連れられ、小松の近辺大領野にて邸地を賜はり、萬治元年(1658)利常公の薨去後、小松附の緒士金沢へ立戻った時、居邸を塩川町の地にて賜はり、それより子孫がこの地に居住しました。明治の廃藩置県の時、退去したのでしょう。小松附士帳に、170石塩川忠右衛門という記述もあり。元祖安左衛門の長男2代安左衛門と金澤古蹟志に書かれています。700石の中級藩士の苗字が町名になっているのは、金沢でも数少ないことですが、昭和40年(19659月、その町名変更で消えてしましました。

 

(旧北長門町・南長門町界隈)

 

まぼろしの相撲町

あるいは御相撲町とも、年譜に、享保18年(1733426日犀川川除町より出火、相撲町等焼失。とあり。旧伝によると、中納言利常公の時、お相撲の力士を多く召抱えられ、居邸をこの地にて賜ったとあり。ゆえに御相撲町と呼んだという。亀尾記にも御相撲町とあり御抱相撲取りの居邸といったと云うが、場所が特定できません?

 

前回伝馬町の抜け落ちた少林寺:曹洞宗。貞享2年(1685)の由来書に、開基は正保3年(1646)に堀川久昌寺の先住存清和尚とあり、金森長右衛門の檀那寺で、僧禄衆、寺社奉行・地子奉行中へ申建し、犀川伝馬町にて地子地申請寺として建立したとあり。三筒屋版の六用集にも梅葉山少林寺伝馬町とあり、現在は廃寺になり、仏具等は宝町の宝円寺に移されているそうです。

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行 「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和172月発行 ほか

長町①町名の由来は長家の居邸にあらず?

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【長町・玉川町】

旧藩中は、すべて長町は藩士の邸地で、一番丁より六番丁まで六条あり。旧伝に云う。この町内は、往昔より火災の難なく、宝暦9年(1759)の大火にも難を遁れたり。ゆえに諸士の邸地はなはだ旧家が多く。長氏の旧邸は、能登の旧領地田鶴浜より引き来りたる古館なるのみならず、一番丁岡田氏の長屋は、嘉永6年(18535月造替せしに、元和2年(1616)の棟札出でたる外、慶長・元和・寛永以来の建物存在するもの多しといへり。亀尾記に云う。長町の町名は、その道路直してはなはだ長し。ゆえに長町といへりと。ある説に、この地に古へ山崎長門居す。長町長門町の上略ならんか。山崎氏の支流数人後々まで居住すと。また一説には、長氏の居邸より起りたる町名にて、ちょう町といふべきを、唱へ悪しきゆえになが町と呼べるならんといへり、平次(森田柿園)あんずるに、元録6年(1693)の士帳に、香林坊下より図書橋の下辺までをすべて長町あるいは本長町と記載し、元禄3年(1690)火災記にも、長町加藤図書近所堀宗叔家より出火すとあり、この時代図書橋の下辺りまでを長町と称し、宗叔町の名なかりしと聞ゆ、さればその路程はなはだ長きにより、長町とは呼びたる事いちじるし。一説なる長門町の略称、あるいはちょう町などの説は取るに足らず。皆後人の臆説なるべし。山崎長門の邸跡は、今伝馬町の裏にすなわち長門町といへる町名あり。また長氏の苗字によりて、町名をなが町と称すべきよしなし

 

森田柿園の「金澤古蹟志」では、長々と書かれていますが、長町の町名の起こりは“町の路程が長いから(約12km)”で“長氏の苗字”はよしなしとあり、他の説も根拠のない臆説だと云っています。

 

(香林坊橋跡)

(香林坊下を流れる西外惣構の堀跡)

(香林坊橋から図書橋まで約1,2km)googleマップより)

 

城下町金沢は、藩政期には人口が非常に多く、しかも全人口の約46武士とその家族でした。それというのも3代目利常公の改作仕法により武士が一定の封土を持たず知行(俸禄)は禄高に応じ藩庁が支給する仕組みから、いわゆる武士をサラリーマン化し城下に屋敷を貰い住むようになり人口が増え、3(江戸・大坂・京都)に次ぐ大都市になりました。そのためか武家屋敷が集積した地区が数箇所もあり、長町はその中でも大きな地域が形成されました。さらに長家村井家では下屋敷(家中町)が隣接しています。長町も含めて武家地はすべて通称で呼ばれ、大身の武家を核に、例えば、長町では加賀八家の長家や村井家の廻りには上・中級武家屋敷が集められていました。以下は私のブロで金沢の武家屋敷群を載せて置きます。

 

(西外惣構の堀)

 

拙ブログ

出羽町と篠原出羽守一孝

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12311475656.html

彦三①由来、大火のこと

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10618172776.html

古地図めぐり―金沢・高岡町界わい

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11855406025.html

 

(寛文7年の金沢図・石川県立図書館蔵)

(長家の屋敷跡・案内板が見えます)

 

加賀八家の長家の屋敷跡

長家は長九郎左衛門連龍以来、本宅は能登国鹿島郡田鶴浜にあったが、金沢にも居宅を構えていて金沢城三ノ丸石川門内に三輪志摩、横山山城と共に並んでいました。連龍の嫡子好連が藩主利家公が48歳の時、側室在(あり)に産ませた8女福姫に縁組を仰せ付かり、連龍が隠居し如庵と号し、田鶴浜に引篭もり、時々金沢に出勤していたが、慶長16年(16119月、2代目好龍が没したので、弟の連頼が家督を相続し、慶長17年(1612)に城内に居た家臣団がすべて城外に移された頃、一説には連龍が元々隠居屋敷地として賜っていたという長町に邸地に移ります。長町の居館は寛永8年(1631)の“寛永の大火“で罹災した後は、何度の金沢で大火がありますが、およそ200年に渡り火災から免れ明治2年(18696月の版籍奉還を無事に迎えます。

 

(長家居邸・校本金澤市史より)

(長家屋敷跡・現在玉川公園)

(長家の屋敷跡・現在三谷産業株式会社)

 

明治維新を迎え、加賀藩最後の藩主慶寧公藩知事を任命され、金沢城を国に明け渡したため長家のお屋敷は金澤藩庁舎に差し出し、当主の31(連龍から数えて11代)長成連は裏地に居宅を建て居住します。明治4年(18717月の廃藩置県で金沢藩が金沢県になり加賀一国が管下となり、県庁は管下の中央にあるべだと云う事から、5年(18722に石川郡美川に移し、県名を移転先の郡名から石川県と改めます。長町の金澤藩庁は同年金沢区会所になり、翌6年から9年まで小学校として使われます。県庁が美川に去った金沢の町は、政府の思惑通りか?戸数も人口も激変します。6年(187311年に満たなく県庁が金沢に移転させ広坂下に県庁舎を建てます。

 

旧長邸(明治に入り長町川岸24番地と始めて町名が付く)は明治13年(18801月、前田家の所有となります。さらに2年後の明治15年(188221日、出火により焼失してしまい、焼け残った表門は白山市松任の本誓寺に移します。

 

 

(現在の図書橋辺り・現在堀は暗渠)

 

加藤図書(ずしょ)の屋敷跡と図書橋

3代利常公に仕えた算用場奉行、公事場奉行、作事方総奉行などを歴任した稲葉左近直富の屋敷があったが、左近、ゆえあって自刃した後、その屋敷を代々2000石から1500石を賜った加藤図書の居邸になりました。加藤図書邸の近くに架かる橋があり、その橋を“図書橋”と呼んでいました。なお、昔から住むものは”左近橋“と称したとも云われていたらしい、藩政期には、香林坊橋からこの橋まで約1,2kmを長町といったと金澤古蹟死に書かれています。現在は、この辺りの西外惣構の堀は暗渠のなっていて橋は存在しません。

 

 

(長家屋敷跡・現在玉川図書館)

(長家の敷地図・校本金澤市史より)

 

P.S

前田利家公が2代利長公に残した「遺言」に、長九郎左衛門と高山南坊、世上をもせず、我等一人を守り、律義者に候。少宛茶代をも遣わし、情を懸け置かれ可然存候。とある尊意にても知られけり。と有り、利家公との人間関係と人柄が窺えます。慶長4年(1599)に利家公の逝去後、徳川家康は、越前敦賀の鷹商武藤庄助といふ者に命じ、長九郎左衛門連龍へ、その方は前田譜代の士でもないのだから、是非この方(家康)に心を通じたならば、能州は一円を与えると自筆の書簡を庄助に持参させたという。九郎左衛門は、この書簡を封のまま持参し、利長公へ指し出し、利長公が大いに喜んだという逸話が残っています。

 

参考文献:「金澤古蹟志8巻」森田柿園著 金沢文化協会ほか

 

長町②明治なると村井家跡や長家跡は長町川岸に

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旧長町川岸】

長町は明治のなると通称から正式な町名になり、明治4年(1871)村井家の家中町の一部を78番丁とし“長町1番丁から8番丁(藩政期は通称で16番丁)と鞍月用水沿いの「長町川岸」からなり、翌5年(1872)、大区小区制により金沢が7つの区に分かれてとき、五連区の長町1番丁~8番丁と長町川岸となりますが、区制は、明治22年(1889)に市制施行で正式な行政単位では区制が無くなりました。

 

 

(当時の市民の意識の中に生きつづけ、戦後、私が子供の頃にも、たま~にですが、訛って「三リンクとか五リンク」と言う人もいました。)

 

 

(香林坊下の鞍月用水)

 

“長町川岸”はその名の通り、武家屋敷の長町を流れる川岸の町立ですが、川は西外惣構の堀(鞍月用水)で、“長町川岸”は、香林坊橋あたりから長家跡(現金沢市立玉川図書館)の先、旧石屋小路入口(現玉川町の武蔵ヶ辻より)までの1,4km細長〜い町だったようです。 町名が付けられたのは明治4年(1871)で、昔の通称に配慮した長~い町の名と形態を残したと思われらますが、悪名高い昭和40年代の金沢の町名変更で、今はこの町名も消えて、現在の長町は、中央通り辺りから村井家跡(中央小学校)までとなり長町1丁目~3丁目と変更されています。勿論、明治4年から昭和40年までは、村井家や長家の住所は”長町川岸“でした。

 

(赤い枠内が現在の長町1~3丁目)Googlemapより

(下記図の石屋小路に交差点・ここまでが長町川岸)

(昭和2年の金沢地図より(池善書店発行)

 

(中央小学校・昔は村井家屋敷)

 

(武家地に付けられた“番丁”が消え、昔から町人町に付けられていた“丁目“で呼ばれるようになったのは、昨今の”町名復活“で良く言われていた文化性に逆らうものようにも思います。)

 

参考ブログ

旧町名をさがす会《金澤編》長町川岸

https://cho0808.hatenablog.jp/entry/20160213/p1

 

この辺りの鞍月用水沿いは、平成に入り金沢の前市長山出保さんの尽力で用水が暗渠となっていた部分の開渠にして「せせらぎ通り」のネーミングで、近年はおしゃれなカフェや古本屋さんなどもオープンし、鞍月用水と大野庄用水との間に残っている武家屋敷跡と合わせ金沢観光の目玉として人気の観光スポットにもなっています。

 

(武家屋敷跡の案内板)

(旧長町川岸の右衛門橋(えもんばし))

 

拙ブログ

年寄“加賀八家”

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11601085661.html

 

 

村井家上屋敷跡

村井家は長家と同じく加賀八家に一つで、禄高は多い時で17,200石を賜っていますが、本来は16,500余りと伝えられています。初代長瀬は13歳で利家公に仕え、数多くの合戦では利家公を支え、大刀打ちで敵首を獲るなど奮戦し戦功の限りを尽くし、利家公の又左衛門から「又」の字を賜り、又兵衛と改称します。芳春院(利家公の室於松)が人質として江戸に赴くとき、お共として行き、そのまま江戸で没します。2代長次の室は利家公の6女千世姫(初め細川忠隆に嫁し離別)であったが子が無く、3代長家は加賀藩に仕えた織田有楽斉の次男長孝の次男で遺領を受けたのは10歳だったという。邸宅は慶長の金沢城図に、城内北ノ丸(権現堂)にあり、慶長17年(1612)頃、長町の邸地(7,000坪)を賜り、北に馬場を設け、西には御荷川(大野庄用水)を取り込んだ大きな池のある庭があり、東北隅には大きな神社があり、表門は西外惣構の堀(鞍月用水)の四ッ屋橋に面していたと資料に有ります。上屋敷の裏を流れる御荷川(大野庄用水)裏には、下屋敷(家中町)並んでいて陪臣は389人という記録もあります。村井家はその後、廃藩まで11代を数えますが、屋敷を壊し退去したと云う。

 

 (金沢城内北ノ丸にあった村井屋敷)

(左側が村井家の屋敷跡・右側が長家の屋敷跡)

 

その屋敷跡に明治7年(1874)、長谷川準也(後の2代目金沢市長)と弟の大塚志良らが設立した私営の金澤製糸会社が開設されます。元々は士族授産の一環で、官営工場の富岡製糸場を模範として、当時は富岡製糸場に次ぐ全国第二の規模でした。鞍月用水の水車の回しその動力を利用し、半木製の折衷式繰糸機が100台、女工約200人で営業を始めます。明治11年(1878)、北陸巡幸で金沢を行幸した明治天皇は金澤製糸場を始めとして、長谷川準也が設立した3社(撚糸会社・銅器会社)を視察し、100を下賜したという。しかし、金沢製糸工場の生糸は、綺麗で節がなく繊度も揃っていたが、細すぎて当時のアメリカでは時流に合わなかったらしく、経営の失敗もありわずか数年で解散しますが、石川県の殖産興業の先駆けとなりました。

 

(金澤製糸場)

 

(金澤製糸場の繰糸機を製作したのが尾山神社神門の設計者津田吉之助で、その子津田米次郎は織機の機械化に取り組み、明治33年(1900)に国内初の動力式絹力織機を発明します。)

 

拙ブロブ

金沢製糸場《鞍月用水⑤》

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11826524545.html

 

 

その後、金澤製糸場から倉庫精練(株)に移り、昭和62年(19874月に市内の中心部にあった松ヶ枝、芳斎、長土塀、長町の4校の児童数が減少で統合され今の中央小学校になります。

 

 

屋漏堂(おくろうどう)伝説:延宝6年(1678)禄高1,000石の馬廻組佐々主殿は、借財が多く邸宅は破損にまかせて雨が降れば屋内では傘を用いる始末で、さらに行いに非があったとして、5代綱紀公より村井家で切腹を命ぜられました。後日、土蔵を検分したところ、武具類と軍用金が立派に用意されて有ったことから、世間では賞賛され、村井氏の深く尊敬の念を感じ、その蔵書印の「屋漏堂」を用いていたという。

 

 

(つづく)

 

参考文献::「金澤古蹟志8巻」森田柿園著 金沢文化協会 「歴史散歩・長町周辺と武家屋敷」奥野賢太郎著 金沢観光ボランティアイド「まいどさん」ガイド資料

 


長町③1丁目(鞍月用水と大野庄用水の間)

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【長町123丁目】

現在の長町1丁目~3丁目は、昭和409月の住居表示で、長町1番丁から8番丁、長町川岸・塩川町・宝船寺町・富本町・元車町1部が合わされて生まれました。今、長町と云えば、金沢を代表する観光名所として土塀が続く町として知られていますが、金沢市内で、武家屋敷の名残を僅かに残す土塀の連なる町は長町界隈です。他に武家地だった本多町、味噌蔵町、彦三、長土塀等にもありますが、ぽつんと1軒とか2軒、またはバラバラに数軒。現在、土塀が連なる地域は、長町1丁目の「長町武家屋敷跡」と呼ばれるところだけです。

 

(大野庄用水沿の土塀と長町の石標)

 

現存する土塀も、戦後、お金が掛る土塀は敬遠され板塀やブロック塀に変わりましたが、戦後数年たって、金沢市が積極的に土塀を修繕に乗り出し、特に力に入れたのが旧長町2番丁界隈で、残存する土塀の修繕とともに、新たに土塀を築き上げた部分もあると読売新聞金沢総局が著わした「金沢百年町を辿る」に書かれています。

 

その本の中に、当時の金沢市観光課に観光開発室長の言として「土塀については「保存」ではなく「修繕」と言う考え方をもっている。かって武家屋敷があったという雰囲気をつくり出す。人工的なものでいいんです」と書かれています。実は土塀は手間とお金がかかり、成り行きに任せておくとコンクリートの塀に成りかねない。土塀は一冬越すと土が剥落したり、屋根が板葺きの傷みも激しくなるので、冬は土塀に弧を掛け、土が凍るのを防ぐのに、随分、手間やお金が掛ります。そのため土塀の修繕は、市が補助金を出し観光地域をバックアップしていると言う事だそうです・・・。

 

 

(弧も掛け)

 

長町1丁目:鞍月用水と大野庄用水の間、旧長町川岸・旧横伝馬町・旧長町1,2,3,4,5,7番丁の一部(大野庄用水の上)

(旧長町川岸・鞍月用水沿)

(旧1番丁・上)鞍月用水側より

(旧2番丁・上)鞍月用水側より

(旧3番丁・上)鞍月用水側より

(旧4番丁・上)鞍月用水側より

(旧5番丁・上)鞍月用水側より

(旧7番丁・上)鞍月用水側より

 

長町2丁目:大野庄用水と中央通り・旧元車町の交差点までの間、旧長町1,2,3,4,5番丁の一部(大野用水の下)旧塩川町・旧宝船寺町・旧富本町・旧元車町の1

長町3丁目:大野庄用水と昭和大通りの間、旧長町川岸・旧長町6,7,8番丁の1部(大野庄用水の下)

 

(Googlemapより・ピンクが長町1丁目・赤い線内は長町2・3丁目)

 

「中央通り」は、旧富本町から旧塩川町、旧横伝馬町、片町、そして旧河原町、大工町から幸町、笠舞、三口へ繋がる三口新線で、昭和5年(1930520日に事業決定し、最初は旧富本町から旧横伝馬町までが昭和11年(1936214日、旧横伝馬町から片町通り昭和23年(1948520日、片町から幸町へ通じる三口新線の計画決定が昭和32年(1957510日、その間土地買収や家屋の移転保障などで遅れに遅れ全線開通したのは、事業決定してから40年の昭和46年(1971)に全線開通しました。確か昭和45年(1970)頃に片町寄りの米屋、床屋、おでん屋、風呂屋等が残っていて何れも利用したことが思い出されます。

 

拙ブログ

金沢古地図めぐり(長町編)

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またまた、長町古地図めぐり

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金沢老舗会館①―今

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他多数

 

(安政の絵図)

 

“安政絵図”

長町1丁目は、鞍月用水と大野庄用水に間の町をいう、安政期には今中央小学校の村井家のお屋敷の7,000を筆頭に全て武家地で、上・中級の武家屋敷が立ち並び、数えてみると旧長町45,7番丁までには27軒、旧長町1,2,3番丁には30と現在の1丁目の範囲内で58あり、現在の家々は当時とは比べようがありませんが、旧長町は、当時を思わせる大きな屋敷は何軒あるものの、殆どは分割され移住者の会社、商店や住宅地になりました。

 

安政の絵図によると、鞍月用水から旧長町2番丁に入口左角の村田半助邸(安政絵図には無い)は、馬廻役で大小将知行500石、その向かい角にあった藤田平兵衛(安政絵図には無い)定番頭知行3,000石その隣の福島喜内(安政絵図には無い)知行350石は断絶したのか、安政の絵図では湯原家、栂家になっています。現在新家邸長屋門ある桑島家は知行250石の表小将で代々納戸奉行、御膳奉行、細工奉行を勤めたという。

 

(旧長町2番丁・大野庄用水より入る)

現在新家邸の隣、安政の絵図には「跡地」とある大屋家は、藩政期からの門と屋敷が藩政期のもので当時は石置き屋根でしたが、明治になり瓦屋根のあずま建ちに修繕したものだそうです。大屋家の付いては下記に記しますが、この家は、元加藤又右衛門邸で、知行200石定番馬廻役で塩裁許という役柄だったといいます。

 

大屋愷あつ( 1839-1901):地図製作をした洋学者。天保10年(1839)加賀藩士石沢水満と長男として生まれ、16歳の時、京都や長崎に遊学。京都では、蘭学とともに絵師岸岱(虎に岸駒の子息)について絵を学び、長崎では、英語、蘭語、数学、天文学、大砲の製作法などを学んだという。安政5年(1858)に帰卿するがほどなく藩主より「大屋」の姓と長町2番丁の200坪の邸地が与えられた。慶応元年(1965)藩校壮猶館の翻訳方となり、翌年には砲台築造方となり、維新後には金沢県の教育係として学校教育の方針を作成するなど、初等教育に力をそそいだ。金沢でランプやこうもり傘を最初に使い、チョンマゲも最初に切った人としても知られ、石川県における皇国地誌編纂(明治13 1880)の関わり、製作した地図として、「射号万国訳図」「射号日本地圖」があるほか、世界の名数について記した「万国名数記」「広益英倭辞典」など多くの著作がある。

 

(大野庄用水に架かる長町二の橋)

 

安政絵図には村田家、加藤家、津田家が残り、藤田家は知行600石の小将組の屋敷に変わるなど、昔も今も栄枯盛衰は世の常といいますが、明治になると藤田、福島、津田、角尾邸や多くの長町のお屋敷はリンゴ畠になり、昔語りとして、当時、主人は東京等で猟官運動に忙しく、リンゴ畠は、かっての家来が続けていたという話も聞こえてきます。

 

(つづく)

 

参考文献:「金沢百年町名を辿る」著者 読売新聞金沢総局 発行 能登印刷・出版部 19907月・文久年間の加賀藩組分侍帳ほか

 

長町③長町1丁目の藩政期・・・。

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【長町1丁目】

旧長町3番丁入口北側は石浦山王社の旧地

旧長町3番丁入口にある旧藩士浅加氏の邸およびその向かいの由比氏(延宝の絵図では板坂孫三郎、川勝五郎兵衛)の邸宅は、昔は、その区域の地は石浦山王の旧社だと伝えられています。浅加氏の邸内は石浦山王社の社跡で小高き岡の上に雑木林が茂り、その林の中にタモの木が神木で、もし差し障ることがあれば必ず祟りがあると云われていたそうです。天正8年(15803月柴田勝家等の加賀の賊徒返討として討入り閏39日尾山城が落ちた時、石浦の社殿及び本地観音堂も兵火に遭い、天正8年以後この地を去り慶長7年(1602)に再興、その後、長町の地は武家地になり、石浦の村地は兵火にあい再興の際に石浦町と町地に、旧長町3番丁入口の地は、旧藩士浅加氏の邸と道を経た向かいには由比氏の屋敷となりました。よって、石浦村も今菊川2丁目の旧町名石浦新町の地に再興されました。

 

(今の石浦神社)

 

由比勘兵衛邸跡

由比氏のご先祖由比勘兵衛光清は、3代藩主前田利常公の家臣で後藤又兵衛・塙団右衛門と並び称せられた豪傑で槍の名人でした。「金沢城の見えるところに葬ってほしい」との遺言で、寛永3年(1626)、卯辰山に墓を建てたと云われています。「由比勘兵衛之塚」と記した石碑と由緒を書いた金沢市教育委員会の立札が立っていました。現在のものは移転再建したものだそうです。(文久の士帳には、小将組 家禄450石)

 

 

(この辺りに浅加家、由比家があり、その前は石浦山王社)

 

浅加九之丞邸跡

延宝の金沢図に、浅加左平太とあり、旧長町3番丁の北の入り口にあり、元禄6年(1693)の士帳に、淺加左平太長町山本千丞小路とあるとあり、左平太は九之丞の父で、享保9年(1724)や士帳に浅加九之丞長町とあり、これより歴代この邸に居住し、金沢古蹟志のは、これより歴代この地にあり、とありますが、文久の士帳には見当たりません。

 

 

(余談:旧長町3番丁は始めからこの辺りは石浦山王社の氏子でしたが、中頃より野町の神明宮に成ります。浅加氏と由比氏は後々まで石浦山王社を産土神として崇めたと伝えられています。)

 

 

縁切宮

この祠は、右衛門橋下の旧長町5番丁入口の川縁にあり、元惣構の土居下に俗に縁切りの宮という貴船明神があり、この本社は京都鞍馬口の貴船神社だと云われています。昔、加賀藩八家の村井氏の奥方が、主人の浮気のため、自分の持っている、櫛、簪、笄などを埋めて祈願したところ霊験あらたかに、主人の浮気がやんだと伝えられている祠です。昔は婚礼の列はこの前を避けて通る習わしがあり、また、男女の縁結びには夜の丑の刻(午前2時~4時)に人目を忍んで祈願すりと良いと云われていました。縁切り祈願は香林坊方面より、縁結びは「高岡町方面」からお参りすると効果が有るとも云われています。

 

 

(この辺りに有ったという妖物屋敷)

 

長町川岸の妖物屋敷

縁切の宮の向い、延宝の頃この辺りに長谷川頼母(1000石)の屋敷がありました。借財が重なり元禄4年(1691)に召し上げられ、文政年中まで約130年間空き地になっていました。ここはそれ以来妖物屋敷と呼ばれた地で、悪地と云い伝えられるところでしたが、文政年中藩士松本氏がこの地を望み拝領し、初めて家作をし、まだ落成しない内から留守居に下男を置いていたが毎夜妖怪出で、種々奇怪な事があり、下男がはなはだ恐怖し、松本氏はその事とを聞き臆病なりと、自身も止宿すると勇気に恐れてか何の異変が無く遂に家作落成し、家内が移り居住した。廃藩後家屋を壊し、町家数戸となりました。

 

(左、藤掛・青地・稲垣家跡、右、浅香・竹田家跡・現在聖霊病院・聖堂)

 

竹田市三郎邸跡

旧長町5番丁の竹田邸は、先祖市三郎忠種3代利常公より小将に抜擢され、生涯側近として利常公に仕え、利常公が亡くなった際に殉死した人物です。延宝の金沢図には、前口2945寸・奥行東側302尺・西側30間とあります。始祖忠種は実は村井兵部家人大場采女と云う者の子で、横山山城守の家人竹田金右衛門と云う者の養子となり、容顔美麗であるところから利常公の稚児小将に召出され、追々加恩があり家禄3,530に至り、邸地をここに賜り、子孫世々居住します。明治の廃藩置県の際、家屋を壊し地所を売却して去る。現在は聖霊病院と聖堂になっています。(文久の士帳には、人持組竹田掃部 家禄3500石)

 

(旧長町5番丁・左聖霊病院)

 

(聖堂は昭和6年に竣工。スイス人のマックス・ヒルデンの設計。中世ヨーロッパ建築ロマネスク様式の木造平屋。室内の黒漆塗りの円柱には金箔を使い、また、金沢の伝統的な色彩群青色など金沢の工芸を活かした内装は日本人の大工によって作られた事を窺わせます。平成84月、金沢市指定保存建造物に指定されました。)

 

浅香左京邸跡

延宝の金沢図や元禄6年(1693)の士帳に、浅香左京、長町竹田五郎左衛門の隣角とあり、これより歴世ここに居住し、廃藩の際退去。先祖の左馬助三卿は、元は勢州北畠具毅の医湯鵠嘉兵衛が子で、国司滅亡の時、嘉兵衛討死して、嘉兵衛が妻、左馬助を胎内に持ちながら、蒲生氏郷の家来水野三左衛門が方に来嫁して左馬助を生み、水野少次郎と名乗ります。容顔美麗で、氏郷子小姓に呼出され、奥州安積郡安積の城を預けられ、1万石を領し、安積左馬助と称し後浅香に改めた。氏郷家亡びて後流浪し、慶長の初め石田治部小輔に付き、浅香三左衛門と号す。石田滅亡の後、再び浪人と成り大坂陣の以前利常公召出され、家禄3000石を賜はり、浅香出雲と称し馬廻組組頭を勤めたという。(文久に士帳には、小将組 浅香主馬家禄1400石)

 

(右、現足軽資料館の旧7番丁青地家辺り・左、中央小学校)

 

学者青地斎賢と弟礼幹の邸跡

現在の足軽資料館の隣に有った青地家は、本性が本多氏で本多家の初代政重が、直江兼続の養子のなった時に生まれた男子の血筋だと伝えられています。青地氏の本国は近江で、佐々木氏の一族で、その祖駿河守茂綱は実は蒲生定秀の二男で、茂綱の男青地四郎左衛門光綱だと云われています。慶長4年初めて利長公に奉仕。二代四郎左衛門等定は、実は佐々木中務大輔承漢の四男が定政の養父で、定政は本多政重の曾孫といわれこれが青地の祖と云われています。定政の長男・次男にて、兄弟共に室鳩巣の高弟で、兄斎賢、弟は礼幹と言い。貞享2年(162812月綱紀公より分家を命ぜられ、世禄1000石の内800石を嫡子斎賢に賜わり青地氏の宗家とし、200石を次子礼幹に賜はり、庶家とし別家を建て元禄16年に新に邸地を賜はり別居します。兄弟共に学問に励み室鳩巣の高弟として知らています。(文久の士帳には、小将組青地半四郎 小将町 家禄400石)

 

(現足軽資料館)

 

藤掛家屋敷跡

現在の足軽資料館は、藤掛家屋敷跡です。文久の士帳には、小将組藤懸?栄之助、長町5番丁とあり、家禄は300石 お寺は寺町の曹洞宗延寿山常松寺。

 

 

(足軽資料館・藩政期この辺りは中級武家地で足軽の住まいはなかった。)

 

拙ブログ

足軽資料館①

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またまた、長町古地図めぐり

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長町野村家・建物の見どころ

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(つづく)

 

参考文献:「金沢古蹟志八編」森田柿園 金沢文化協会 昭和8年発行ほか

長町⑤2丁目の幕末の地図と士帳1

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【長町2丁目】

長町2丁目は、前にも書きましたが、旧長町1番丁(下)5番丁(下)の犀川側、そして旧長町川岸、旧横伝馬町と旧塩川町、旧宝船寺町、旧富本町、旧元車町の一部ですが、幕末、安政の地図文久の士帳を見ると藩政期は略武家屋敷だった事が分かります。現在の長町2丁目は、駐車場やアパート、学校、公共施設、そして住宅も含めて230がひしめいていますが、幕末は、武家屋敷46と比較すると随分屋敷地が大きい事が分ります。

 

 (長町一の橋から旧長町1番丁に建つ、中央公民館の長町館)

 

(因みに、万治2年(1659)の金沢侍屋敷の定めによると、長町全域(旧1番丁~旧6番丁)で120有る武家屋敷で家禄が1番多い家禄100石で敷地が約170坪(561㎡)2番目の家禄200石で200坪(660㎡)、以上300石~400石で300坪(990㎡)500石~700石で400坪(1,320㎡)800石~1,000石で550坪(1,810㎡)、この辺りにはありませんが足軽では50坪(165㎡)御小人は30坪(99㎡)さらに3,000石の人持組クラスでは900坪(2,870㎡)と家臣団が住む下屋敷を拝領していました。)

 

(googlemapより)

 

安政の絵図と文久の士帳を付け合せると

「安政の絵図」安政1年~2年(18545「文久の士帳」(文久元年~4年((18611864

 

長町(下)1番丁

(旧穴水町側)不破320石・浄土宗法船寺)・富永1500石・日蓮宗立像寺)・野口3軒)

 

(大野庄用水に架かる御荷川橋より旧長町1番丁を見る)

 

長町(下)2番丁

(犀川側)本保(日蓮宗経王寺)・中川・瀬川・浅加4軒)

(旧穴水町側)安田・伊藤田辺200石・曹洞宗松月寺)3軒)

 

(今の旧長町(下)2番丁)

 

長町(下)3番丁

(犀川側)天野300石・臨済宗妙心寺派普明院)・不破100石・浄土宗法船寺)・奥村・○田4軒)

(旧穴水町側)杉江180石・日蓮宗妙法寺)(現休憩館)180石・曹洞宗本覚寺)・田辺400石・浄土宗了願寺)・武田・森5軒)

 

(今の旧長町(下)3番丁)

(天野家の長屋門の案内板)

 

長町(下)4番丁

(犀川側)高○・西永160石・真宗大谷派超雲寺)・原横井150石・日蓮宗妙慶寺)・進士100石・臨済宗妙心寺派高巌寺)・笠井・武田・木島8軒)

(旧穴水町側)高田550石・真宗大谷派長徳寺)・小島100石・浄土宗極楽寺)・森・脇本・麻生200石・臨済宗妙心寺派宝勝寺)・大村250石・曹洞宗長久寺)・山森250石・曹洞宗久昌寺)・山田200石・日蓮宗全性寺)・井上150石・浄土真宗本願寺派弘願寺)八島150石・曹洞宗眞行寺)10軒)

 

(今の旧長町(下)4番丁)

 

長町(下)5番丁

(犀川側)田伏150石・日蓮宗妙慶寺)・杉本小原100石・日蓮宗立像寺)・○○・水野竹内100石・安立寺)・田内200石・浄土宗妙慶寺)・改田250石・浄土宗了願寺)田辺9軒)

(家禄と檀那寺の入っているのが、地図にも士帳にも有る家)

 

 

(今の旧長町(下)5番丁の犀川側)」

(旧長町(下)5番丁にある寺院の松、藩政期は寺はない)

 

4番丁高田家の長屋門

高田弥八郎種昌は家禄550で改作奉行などを歴任した中級武士で、屋敷跡には400石以上の武士に許された「長屋門」が今も残っています。しかも長屋門の土台石は、藩が許可した御留石の戸室石が用いられています。このクラスの藩士は外出するのが一般的に馬に乗って外出が許されていて門の左側に厩があり、右側には、馬などの世話をしる仲間といわれる武士奉公人が住む仲間部屋があります。

 

443坪の屋敷地と武家屋敷は現在ありませんが、残された270の敷地には大野庄用水を引き入れた池泉回遊式庭園が造られています。)

 

(高田家の長屋門)

(高田家の馬屋)

(高田家の庭園)

 

(つづく)

 

参考文献:「加賀藩組分侍帳」金澤文化協会 昭和127月 発行ほか

長町⑥2丁目の幕末の地図と士帳(2)

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【長町2丁目】

前回の幕末の地図士帳では、武士の家禄を書きましたが、今回は、加賀藩の武士の家禄身分について簡単に復習します。簡単にと云うのは、私が観光ボランティアガイドになろうとしていた頃、書いたメモで、自分が理解できるようの書いたものです。

 

(何しろ当時始めてだったので、“参考文献”などを書く事など思いも寄らなかったことから書いてありません。詳しく知りたい方は図書館で加賀藩関係の本をお探し頂ければ幸いです。)

 

 

(石川門)

(赤い枠内は長町2丁目・安政の絵図より)

 

加賀藩の家格

年寄(加賀八家)11,000石~50,000(与力知含む)

藩政の執政役で月番と加判の職につく、「月番(御用番)は、月交代で藩政を主宰します。」「加番は、藩政についての審議に参加し、月番が起草した文章に署名する。」元禄3年には七家であり、軍事では人持組を7隊にわけ七手組の頭でした。以後、村井家が加わり八家となります。

 

拙ブログ

年寄“加賀八家”

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(今の河北門より菱櫓を望む夜景)

 

人持組(68) 1000石から14,000万石(与力知含む)

加賀藩の上士身分、約70家あり家禄は1000石から1万石を越える。(1000石を越えても人持組に加わらないものもある)このクラスから家老や若年寄が任命され、人持組から寺社奉行、公事場奉行、算用場奉行の要職を勤めました。

 

平士(1,511家)80石~2,400

軍事組織:御馬廻組・定番御馬廻組・組外・御表小将組・御大小将組・新番組

行政組織:武具奉行・宗門奉行・御細工奉行・改作奉行・町奉行・御馬奉行・会所奉行・割場奉行・御作業奉行・御普請奉行など

 

与力(190家)60石~300

御徒(3,802家)50俵~150

足軽(5,382家)20俵~25

(明治2年の士族・卒族など人口戸数などより・以下、小者中間など武家奉公人は割愛)

 

 

(初代加賀藩主前田利家公)

 

加賀藩の収入

加賀藩2代の前田利長公は関ヶ原の戦いの前 80万石を超える所領で、将軍の徳川家は初代利家公の室芳春院の人質や3代利常公に2代将軍秀忠の娘珠姫が入嫁など、協調路線をとってきました。そのため 徳川家からすれば、下手に敵対されると ダメージが大きいというためか、加賀・能登・越中 3国の 102万石が与えられます。加賀藩では、正保期(1640頃)には利常公の改作法等により内高(総収入)が112万石に増収し、その内家臣団の知行地は82万石であったが、文化期(1831頃)より藩の財政が逼迫し、家臣団に今の賃金カットに等しいしわ寄せがきます。慶応3年(1868には、内高139万石に増えていますが家臣団の知行地は75万石に下がっています。

 

(今の旧長町1番丁(下)辺り)

 

五公五民:農民に対する税を加賀藩では「免」といい、加賀では三ッ八歩(38%)、能登、越中は四ッ三歩(43%)で、これに「口米」と称する1石に付き1斗1が課され、ほぼ五公五民の割合でありましたが、農民が道路工事の人夫に出る費用を銀で支払う「夫銀」や副業(山林、原野から得られる収入)「小成物」、また罰金が厳しく、村単位で納税するシステムのため、納められない家があると村の責任になり、実際の収穫の8割近くを収めることにならざるをえなく、藩は“百姓と胡麻は搾れば搾るほどよし、生きぬよう、死なぬようにするが、慈悲なり”で、武士本位の政策で加賀藩は農民の生活を抑えて、収入の確保を図ったと言われています。)

 

(今の長町2番丁(上)辺り)

 

加賀藩士の収入

100石取りの武士は、実収43924と半分以下の石数にしかならず、例外を除いては1,000石でも比率のおいては変らず、また扶持米は平士及び平士並、御徒や御徒並みの1部や、町年寄、十村などに支給するもので、一人扶持男子玄米5合、女子は玄米3の割で、支給日は春渡し22日、暮れ渡しは102の算用場切手をもらい、それぞれ堂形(今のしいのき迎賓館のところ)米蔵で現品と引き換えました。切米は新番、足軽、小者など俵数で支給する玄米で、1俵は玄米5(加賀では)支給は1月から8月に至る分を春渡しとして3月、9月から12月までの分を暮渡しとして11月算用場切手でもらった。何れも町の蔵宿に預け、1石に2手数料を払い家族の1年に食べる分を引き、その残りを米仲買人に売り生活費にしました。また、合力米は、客分など純然たる家臣ではないので、石数で数え、玄米出給した。

 

(参考:文化文政時代の1石は1両。1両(銀60匁)は現在の10万円に当たります。NHKのドラマより)

 

 

(今のしいのき迎賓館・藩政期は米蔵の堂形)

 

加賀藩には、「百石6人泣き8人」という諺があります。100石では奉公人が幾人かを雇っていました。そのため家族6人が精一杯という事だそうです。

 

(今の金沢城・橋爪門続櫓・五十間長屋と菱櫓)

 

(つづく)

 

参考文献:「加賀藩組分侍帳」金澤文化協会 昭和127月 発行ほか

長町⑦長町4番丁・長町の「りんご」とトマス・ウイン

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【旧長町4番丁】

明治12年(1879104日 石川県中学師範学校(石川専門学校の前身)で教授のかたわらキリスト教の伝道をする目的で、トマス・ウインが金沢に到着します。長町の案内に沼田悟郎(同校長)があたり、長町4番丁2番地に住むことになります。当時、長町にはリンゴ栽培が盛んで、ウインは高値のリンゴを買い  遠く新潟、愛知などの外人に贈ったので、市価が高騰し、これが幸か不幸か長町の武家屋敷が壊され町ことごとく果樹園になったといいます。当時「長の林檎(リンゴ)に村井の柑子(みかん)」といわれた所以らしい・・・。

 

(トマスが後に住んだ飛梅町のウイン館・ベランダの階段に座るウイン氏)

(曳き家で移動した現在のウイン館)

 

そのリンゴ栽培計画は長町界隈だけでなく、当時の県知事李家隆介「名勝兼六園」を伐採して大果樹園を企画した事もあったと伝え聞きます。あわやのところで名園はその難を免れたものの、長町の武家屋敷は、屋敷をことごとく壊し畑にしたので、残ったのは塀や長屋門のみになります。お陰で今、残った屋敷は大屋家だけとなり、やがて「りんご」は青森や長野に及ばず没落してしまいます。それにしても兼六園が「大果樹園」になっていたとすれば??兼六園がまぼろしになっていたと思うと、「石橋を叩いても渡らない」という県民性によるものと断言出来ますが、リンゴを支える“リンゴ吊”の方法が松や樹木の雪外対策の「雪吊り」を生み、ちゃっかり応用した先人の小利口さが、今では兼六園の冬の名物になり観光客を楽しませています。

 

(兼六園のリンゴ吊り)

(現在の兼六園)

 

(「リンゴ」の栽培は、明治8年(1875)金沢区方勧農場の指導で、リンゴ栽培が長町界隈で展開され、宮口、御園、松村氏等によって改良され、青森、長野よりは先に手がけたものの、すっぱい青リンゴと小さい海裳リンゴは、全国のニーズに合わなかったのでしょう。今では見かけませんが、私の子供の頃、リンゴといえば甘酸っぱい青リンゴでした。中学校になると崎浦地区のリンゴ農家の同級生がいて、売り物をカバンに忍ばせてきたのを、プールの隅っこで、ガッパンなってかじったのが思い出されます。)

 

 

 

トマス・ウイン

アメリカのジョージア州フレミントンの牧師の子に生まれ、アマースト大学とシカゴのマコーミック神学校を卒業。 1877年、ユニオン神学校を卒業した後、イライザーと結婚して明治10年(187712月に横浜に入港、横浜のジェームズ・バラの塾を経て明治12年(1879)にヘボンの推薦で石川県中学師範学校英語教師になるため、妻や伝道師と共に金沢に赴任。石川県令の許可を得て、キリスト教の講義所を作り、105日北陸最初の礼拝を行います。明治14年(1881)には大手町の講義所で日本基督一致教会金沢教会(現、日本基督教団金沢教会)を設立。明治15年(1882)には私立愛真学校(後の北陸学院)を設立。明治16年(1883)には中田久吉や長尾巻、長尾八之門、狩谷芳斎らに洗礼を授けています。

 

(トマス・ウイン氏・北陸学院ウイン館提供)

 

明治4年~12年の長町界隈の出来事

明治4年(187hojye18  政府は人民に散髪を命じられ、金沢では大屋愷アツ(旧2番丁の大屋家の初代)、岡田雄巣が卒先して散髪し、結髪者を驚かせた。

 

(旧長町2番丁の大屋家)

 

明治5年(1872116 長町川岸1番地(富永邸跡)に永山平太らにより明治義塾という私塾が創設され漢洋学を教授した。8月に至り廃止、区学校と合併した。 

 

明治5年(187227  長町4番丁に弘義塾を営む橋健堂が石浦町で女子教育のための塾を開いた。 

 

googlemapより・旧長町4番丁)

 

明治5年(18729 長町の元金沢県庁(元加賀八家の長家跡)は金沢区会所となった。(明治612月区会所は他に移り明治9年まで小学校として使用された) 

 

(元長家、明治になり金沢県庁)

 

明治6年(1873116  金沢長町で叢書堂が開設された。各種書物や日誌、新聞等を集め、ひろく市民に閲覧の便を与えた。当時の新聞報道によると「毎日利用者が群集。有志の拠金により設けたもので次第に完備させる」とある。 

 

明治7年(18741 長町小学校が創設された。 

 

(長町小学校跡・現在は金沢中央公民館長町館)

 

明治9年(1876124日 旧壮猶館内に石川県農事講習所(農学校の前身)が創設された。

(明治8年(1875)石川県農事講習所の(前身金沢区方勧農場)の指導で、リンゴ栽培が長町界隈で展開された。)

 

明治9年(187610 宝船寺町小学校校舎は長町5番丁に移り勤成小学校と改称された。 

 

明治10年(18773月 長谷川準也が銅器会社を創設した。従業員50余人、資本金1万円。 

 

 

(2代目金沢市長長谷川順也)

 

明治10年(1877 46日 長谷川準也、大塚志良、円中孫兵らが長町川岸52番地(製糸会社隣接地)に金沢撚糸会社を新設し撚操および再製を開始した。従業員は男女工85人、資本金13,000円。 

 

明治12年(1879104  石川県中学師範学校で教授のかたわらキリスト教の伝道をする目的で、トマス・ウインが金沢に到着した。その町案内に沼田悟郎(同校長)があたった。

 

 

(本編の写真提供は、北陸学院ウイン館)

 

(つづく)

 

参考文献:金沢市立図書館(金沢の百年明治編)金沢市史編纂審議委員会 昭和40年5月・「長町界隈の侍帳(二)」長町住人抽出より 山森青碩著 金沢文化協会 昭和12年発行

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