【金沢城下】
前回も述べたように、細工者には手厚く保護されていました。例えば細工者が風邪を引けば5日間の休みのほか、家族の看病休暇も認められていたそうです。互助制度ではお米の貸与や弟子の育成費の特別支払いなど、細工者に対する手厚い施策は、それだけで加賀藩の工芸の振興にかける熱意が伝わってきます。
細工者には、町人から採用された者は一代限りでしたが、武士階級から細工者になった者もいて、彼等には世襲が認められ、相続する男子がいない場合や子息が不器用な場合などは婿養子を引き合わせるか、養子を迎えて相続させたといいます。
藩主や城内の細工御用の仕事で、御細工所の外に発注することもありました。こんな場合御用職人(藩御抱え職人)を使うことになります。このような御用職人は「町奉行支配細工人」と呼ばれ、常に30名ほどいて、彼等の俸禄米も御細工者とほぼ同等で、仕事の指示は御細工所奉行であったといいます。しかし、御細工者は御歩並ですが、御用職人の身分はあくまでも町人であったといいます。
(城内の鶴丸倉庫)
この御細工所を核とした御細工の仕事も、すべて順調に今に継承されたわけではありません。藩政後期になると短命な藩主が相次ぎ、藩組織の肥大化から出費の拡大による財政が窮迫し、人員の削減などもあり御細工所の勢いが衰えていきます。
やがて幕末になると、御細工所を支えていた武家社会が崩壊に向かい、御細工所の機能や御用職人の仕事が停止してしまいます。慶応4年(1868)8月晦日には御細工所奉行が奉行を免じられ、同時に細工者は転職を命じられます。翌月の明治元年(1868)9月に御細工所の組織は廃止され、貞享4年(1687)以来、250余年の歴史を閉じることになりました。
明治維新を迎えると、各地で明治政府は維新による社会の動揺を鎮めるため救助事業が打ち出し、金沢でも明治5年(1872)幕末に卯辰山開拓で作られた物産集会所の建物を壮猶館跡(現知事公舎)に移し金沢区方開拓所(後の区方勧業場)を開設し、製陶部門を中心に授産事業がスタートします。有名な初代須田清華はここで陶画を学びました。
また明治10年(1877)には、長町に失業中の金属職人20人を向かえ金沢銅器会社が設立され、御細工所の加賀象嵌が引き継ぎ世界的に注目を集めました。一時は61人もの社員を有し、ウイーン万国博や国内の各種勧業博覧会の出品するものの会社の経営がうまくいかず明治21年(1888)に解散しました。
(明治初期の金沢の工芸については以下を参照)
ジャパンクタニ円山孫平①
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11220694451.html
ジャパンクタニ円山孫平②
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11233521859.html
参考文献:金沢の工芸土壌―加賀藩御細工所の潮流―小松喨一著、北国新聞社2012・8発行・「加賀百万石―前田利常から学ぶ日本と石川の再生―北国新聞1998・10・13の記事、他