【金沢(金沢21世紀美術館)】
前にも少し触れましたが、金沢21世紀美術館と私の出会いは、OPENした年(平成16年(2004)10月7日)の7月に発足した市民が運営する「友の会Zawart」が主催する解説サポートスタッフ募集(ボランティア)に応募したことに始まります。
(「友の会Zawart」は、平成15年(2003)6月、2年後に施行される「金沢市における市民参加及び協働の推進に関する条例」を先取として実施された「金沢21世紀美術館友の会準備会ripple21」をOPEN時に「金沢21世紀美術館友の会Zawart」として発展的に発足したもので、記憶によると「友の会準備会ripple21」は公募で応募した49名(印刷業、デザイナー、教師、学生など)は、当時の山出保市長は大変の喜びようで全員を採用したと、当時の新聞で読んだことが思い出されます。)
「友の会Zawart」は、美術館とは下請的別組織で「会員募集」と「各種サポーター(ボランティア)の募集」を担い、珍らしさと新しい物好きの若い市民には人気で会員募集は、1年半で約2000人も集まったものの、サポ一タ―(ボランティア)は、田舎者の金沢人でもボランテイアに参加するのにお金を払い、無償(スポンサーが付く時は有償・1回だけ)のシステムの「友の会Zawart」では、なんぽ根性良しの金沢人の運営委員やボランィアでも不満がつのりまします。
(各種サポーターとは:(当時の美術館ではボランティアの呼称)、解説ガイド、ワークショップの企画や実施、作家手伝い、友の会の自主企画や友の会Zawartの運営など・会員募集とは、有償で特典のある一年間の期限付きの会員券(前売券)販売)
(当初、ボランティアの鑑賞ガイドが参加した企画)
私はその頃、「友の会Zawart」に関わっていなかっので、聞いた話の受け売りですが、運営委員をなさっていた方によると、「各種サポーター(ボランティア)の募集」に対し「会員募集」の中から僅かなマージン(%)の手数料の中から請け負っていたので、市民参加及び協働と云う観点から理想的ですが、しかし「友の会Zawart」の運営委員は寄せ集めで、他に本職を持つ兼業が多く、日本で“初めての市民参加及び協働を踏まえた新しいシステム“(当時職員が少なかったための苦肉の策か?)の「友の会Zawart」は、美術館の期待に応えられず?OPENの1年半の平成18年(2006)4月、システムが変更になり、ボランティア募集の窓口も美術館総務課窓口になり、「友の会Zawart」が消滅して、何方でも応募が出来、友の会会員でなくてもボランティ活動に参加出来るようになり、会の名称もZawartが外され美術館で運営される様にりました。(当時の運営委員へ、間違っているところがあれば、教えて下さい。)
(各種サポーターとは:(当時の美術館ではボランティア呼称)、解説ガイド、ワークショップの企画や実施、作家手伝い、友の会の自主企画や友の会Zawartの運営など・会員募集とは、有償で特典のある一年間の期限付きの会員券(前売券)販売)
(鑑賞ガイドが中止でブチマケタ長文投書の一部)
私の美術館デビューは、OPENの平成16年(2004)10月7日でした。仕事は市役所口の警備で、朝から来場者に笑顔で”ようこそ、いらっしゃいませ”とお決まりの声を掛け、まだ覚えてもいない迷路のような通路をチラシ頼りに伝え、聞かれれば、展示室やトイレへの近道を教えるだけの仕事でした。
オープンの式典は、役得で見られるかもと思って張り切って来たのに、同じボランティアで参加した同僚の目も有り、持ち場を離れる分けにも行かず、退屈していましたが、式典も終わり、そこで、私のボランティア活動に欠かせない1シーンがありました。私が長年ボランティア活動を続けられる力になっている大切なことになります。
それは、60歳を過ぎて“暇つぶし”に参加したオープン当日、すべてのセレモニーが終わり、当時の山出保市長はお付きの人もなく一人疲れきった様子で、市役所口への長い通路をトボトボと歩いて来ました。そして私は、新聞の写真でしか知らなかった市長に“お疲れさま“と声を掛けていました。すると、余程、疲れていたのか?どこの誰かも分からない私に、なだれ込むように抱きつき、“ありがとう”だったか“あんやと”か忘れてしまいましたが感謝の言葉が返ってきて、ビックリしました。そして言い知れぬ感動を覚えました。
(多分、山出氏はお忘れでしょうが、そのことが有って以来、私のボランティアは、単なる“暇つぶし”ではなくなっていました。そして、人に言ったら笑われますが、ボランティア活動は、市長は、どんな仕事をなさっているのかは存じませんが、自分勝手に想像して「市長に代理」だと思って取り組むようにしていました。あとで元市長に聞いたら、その事は覚えていないといっていましたが!!)
(2005年3月4日・北國新聞「地鳴り」に投稿)
そして、私のボランティアの対象は、お客様は変わりませんが、兼六園に金沢の町・歴史・文化だけでなく美術館や現代アートから、さらに並行した参加した金沢市まちづくり市民機構では、アートセンターの企画や設立に関わることが出来、実りの多い第2の人生に過ごすようになりました。これらを通して出会った多くの方々、そして何よりも、普通に暮らしていると出会うこともない、ミュージアム・クルーズでの小学生と過ごす貴重な体験は、素直な目とこだわらない心に気付かされるなど、学ぶことが多く、活動を通して得た経験は、当然「まいどさんの活動」にも大いに反映されています。
18年間の間には美術館では、一時、ミュージアム・クルーズ以外のボランティア活動は縮小され、私が目指した「解説ガイド」もその後、数回、ギャラリーツアー、ナビゲーターなど解説ガイドが終わってしまいます。それなりの理由があったのでしょうが、私自身は、一時、21世紀美術館のコンセプトの一つである「まちに活き、市民とつくる、参画交流型の美術館」では無いのではとか、おだてられて「梯子に登ったら梯子を外された」等と言いつのり解説ガイドの復活を願い、美術館へ文章での働きかけや上部団体へ投稿などもしたこともあり、当時、モヤモヤを引きずりながらもミュージアム・クルーズを続けてこられたのは、美術館の職員やクルーズの仲間の皆さんとの長年にわたる交流や絆があればこそだと強く感じています。有難うございました。この場を借りてお礼申し上げます、次回は、ボランティア活動の内容を綴ります)
(当初、ボランティアの鑑賞ガイドが参加した企画)
つづく
参考資料:金沢21世紀美術館パンフ・2007年から私が書いたり集めた資料・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』