Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all 876 articles
Browse latest View live

小立野の旧鷹匠町(上・中・下)

$
0
0

【石引2丁目・石引4丁目】

石引の大通り石引2丁目の左側小路が旧上鷹匠町、4丁目の左側小路が旧中鷹匠町で、藩政期は通称で鷹匠町や新坂高と呼ばれていたようで、明治期に上・中・下の町名となります。明治19年(1886)に出羽町練兵場が出来た時、下鷹匠町(旧出羽町5番丁の裏側)は練兵場に吸収されました。幕末の侍帳によると2,500石の人持組永原権佐家(新坂高)を始め永原家分家や450石から700石の約30軒の中堅直臣の屋敷があります。

 

(武家地の住所は通称で、侍帳ではこの辺りは鷹匠町や新坂高等と書かれています。)

 

 

(鷹匠町の石標)

 

≪旧鷹匠町金沢古蹟志

此の地、旧鷹匠の居第どもありし故に、町名に呼べり。按ずるに寛文の初め頃、鷹匠部屋を小立野へ移すと、国事昌披問答に見江たれば、鷹匠の居第を此の地にて賜ひたるも同時なるべし。寛文二年(1662)十二月の定書に、御鷹匠屋敷被下者共、小立野鷹匠町並に而一所に可相渡という事見江たり、元禄九年(1696)地子町肝煎裁許附に、鷹匠町近所と載せたれば、鷹匠町入口に町家ありたる故なり、さて明治一九年(1886)陸軍榮所の御用地と成り、此の町地悉く絶えたり。

 

(上記、“悉く絶えたり“と金沢古蹟志にありますが、絶えたのは御鷹部屋のあった下鷹匠町で、上・中鷹匠町は昭和38年の町名変更まで残り、以後石引4丁目になりました。)

 

 

(上鷹匠町の小路)

 

参考ブログ

放鷹術(ほうじょうじゅつ)!?

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12134174255.html

 (鷹匠の実演)

 

≪鷹狩り≫

日本では為政者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ちました。古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものもあります。日本書紀によると仁徳天皇の時代(355)には鷹狩が行われ、鷹を調教する鷹甘部(たかかいべ)が置かれたという、奈良・平安時代には天皇と一部貴族による特権とされるようになり、もっとも盛んになったのは江戸時代で、徳川家康が鷹狩を好んだのは有名です。家康は単なる鷹好きとか慰めの域を越えて「養生法」と捉えていたらしい、また、江戸初期は、武士が戦いの実践を体験ができなくなり、平和とはいえ実践に備えて戦闘訓練を積み、戦いの腕を磨いておかねばならず、“鷹狩りは戦の訓練”であり、“鷹狩りと称した領地視察”だったという。

 

 

(鷹匠町の名残・町の看板)

 

≪加賀藩の鷹狩り≫

2代利長公は殊に鷹狩りを好んだといわれています。利長公は慶長11年(1606)に越中高岡に隠居し召し連れた者の士帳には、御鷹師500石高田伝助以下、250石や200石、100石の士分30とあり、さらに3代利常公もはなはだ鷹狩りを好み、寛永4年(1627)の士帳に、300石高田伝助、250石千田少右衛門以下、100石、50石まで、35が載っています。しかし、5代綱紀公の時代(寛永20年(1643)~享保9年(1724)))になると徒組の者になり、小頭だけが知行を賜っています。

 

 

寛文11年(1671)の士帳に、鷹匠組小頭200石大平源右衛門・同110石(切米24俵)丹羽惣兵衛とあり、他の資料では大平源右衛門に与力鷹匠(与力知100石)で、ほか与力鷹匠は100石の2人を召抱え、1人は足軽格を召抱えていたようです。ということは、藩政初期には戦闘訓練ということもあり、鷹匠は重く持ちいたれていたのであろう。

 

(御鷹部屋は、鷹匠町の前は浅野川並木町の前田兵部屋敷のところに有り小立野へ移転したのは寛文の初め、それ以前は野田寺町諏訪神社の後地に御鷹部屋がありました。諏訪は鷹の守護として、その頃、勧請した社だという。)

 

(安政の絵図)

 

P.S.

出羽町1番丁~3番丁・下鷹匠町の武家地や欠原町の5万余坪が明治19年(1886に陸軍の出羽町練兵場になり、追々、敷地内には九師団兵器庫、師団長官舎、将校倶楽部偕行社が建ち、昭和11年(1936)に卯辰山の官祭招魂社(昭和14年(1939)石川護国神社に改称)が移転してきます。

 

 

(現在の練兵場跡)

 

戦争も激しくなると、残りの練兵場にバラック平屋波スレート葺きの金沢陸軍病院の出羽町分院になったといいます。終戦の年、作家の安岡章太郎氏は、戦地で脊椎カリエスだったか胸膜炎を患い大阪陸軍病院を経て金沢陸軍病院に入院し、ここで現役免除になり、昭和20年(19456月に退院した話を読んだことがあります。

 

その分院は我が家の裏にありました。何しろバラック平屋の波スレート葺の屋根は、台風でスレートが木の葉のように飛んだ事もある結核と精神科の病棟で、私が生まれる前から高校になるまでありました。少し調べて見ると、昭和21年(194662日の 午前840ごろ国立金沢病院(旧陸軍病院)出羽町分院第18病棟(内科重症患者収容)から出火3病棟と倉庫1棟計約800坪を全焼という記事に出会います。

 

私の学齢前、我が家2階の窓越しに見た記憶が微かに蘇ります。今の本多の森ホール(旧厚生年金会館)辺りで、後の昭和23年の第2回国体で、焼けた跡に兼六園野球場が造られ、近所の古老の話によると、当時、刑務所の囚人を使い整地を行っていたと聞いたことがあります。

(現在の御鷹部屋跡辺り)

 

昭和30年代(1955~)には、バラックを改造して、国立病院の従業員の宿舎になり、街のはずれには大きな柳の木があり夏などは木の下へ涼みに行ったことが思い出されます。

 

(現在の柳の木辺り)・左柳の木・右梅光会)

(柳の木と病院従業員の平屋スレート葺きの宿舎)

 

昭和378年(19623)頃だったか、バラックの平屋は全部壊され、野球場のレフト側裏の道路の脇にコンクリートの病院アパートや看護婦学校の寄宿舎になり、残った土地の全体を当時、金沢では良く知られた会社に任され坪5,000円で払い下げたという噂さが立ちましす。後で、直ぐに買い入ったという人から聞いた話ですが、その人は買えず、既に完売したと言う話だったとか・・・。

 

 

(建て替えられた現在の看護学校寄宿舎)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・金沢市図書館「市年表・金沢の百年」

 


小立野の下石引町(平成12年4月1日復活)

$
0
0

【下石引町】

安政期の絵図を見ると、小立野の石引大通りの左側、今の聖ヨハネ教会前の小路から兼六園までを下石引町と描かれています。明治3年(1870)の地図では、石引大通り左側の奥村家下屋敷と右側の兼六園寄りの奥村家上屋敷下石引町になり、昭和38年(1963)の町名変更までそのまま続きます。その町名変更では下石引町や飛梅町(藩政期は前田長種家の下屋敷)等も含めて「石引4丁目」となります。

 

(平成12年(2000)の町名復活では、石引4丁目のうち、石引大通りの右側国立医療センターだけが下石引町に、北陸学院と紫錦台中学校などの旧飛梅町が、新たに飛梅町として復活します。)

 

 

(今の国立医療センター・下石引町1番1号)

(今の国立医療センター・兼六園側より)

 

奥村家上屋敷(約5,500坪)は、藩政期の延宝金沢図(作図は延宝年間(167381)加賀藩の普請会所)によると奥村下屋敷となっています。金澤古蹟志によると元和6年(1620)、2代奥河内守榮明今の兼六園の徽軫灯籠(ことじとうろう)辺りに約3,000坪の敷地を賜り上屋敷とするが、元禄9年(1696に藩命で上屋敷が下屋敷に移り、以後、173年間奥村家上屋敷でした。

 

 

(延宝金沢図・石川県立図書館蔵)

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwj7ob63tpXXAhWBjJQKHWFJD8cQFggnMAA&url=https%3A%2F%2Ftrc-adeac.trc.co.jp%2FHtml%2FImageView%2F1700105100%2F1700105100100060%2Fenpo-kanazawav2%2F&usg=AOvVaw3AqvGUmaXB6EtWYVRmj-Mq

 

≪奥村氏居第来歴金澤古蹟志

石引町の入口なり。按ずるに、元祖伊豫守永福は、天正十一年五月能登末森の城主を命じられ、嫡男助十郎・二男叉十郎父子三人同道にて令入部と、可児才蔵の誓文日記・小瀬太閤記に記載し、利家卿金沢入城の初めより末森に在城せられ、二代河内守榮明元和六年の頃今の兼六園の地に居第を賜はりたり。関屋政春古兵談に、元和九年十二月十八日奥村河内屋敷出火、御城中以の外騒動、火移るやうに見江たりと云々。奥村譜には、元和九年四月金澤居宅焼失、于時定家卿之小倉山荘色紙、平兼盛歌一枚及杉丈木一千丁賜之、寛永八年四月十四日金澤居宅亦焼失、所傳口宜並家財・武器・文書悉焼亡、所残拝領之定家卿色紙耳。とありて、右の居宅は即ち兼六園の地にありし居第たり。然るに六代伊豫守有輝の時、元禄九年(1696)命に依って是までの居第を退去し、石引町の下屋敷へ移転し、是より世々爰に居住たり。三州志来因概覧附録に云ふ。

 

 

(安政期の絵図)

 

最前の第地を官地に命ぜるは、元禄九年九月廿五日なれども、上り地と成るは翌十年十一月也。歩数三千八百四十歩並に倉屋敷歩数千九百四十九歩三尺三寸、此の内四百五十一歩五尺二寸請地共に上るとあり。奥村家記には、居屋敷・倉屋敷共御用地之旨、元禄九年九月廿五日被仰出、同十年新屋敷家作出来、十月廿五日引移、十一月十日元屋敷両所共差上げとあり。夫れより代々石引町の居第に居住し、十四代議十郎榮滋の時、明治二年(1869)冬十一月兵隊の屯所と成るに付、十二月退去すと云ふ。按ずるに、元禄十年より明治二年に至り、年歴凡そ百七十三年なり。右は明治二年十月廿四日義十郎榮滋より、即今之時勢柄若し御用候はば可指上旨、藩侯へ情願有之に付き、同年十一月十九日大隊屯所に可被致皆命あり。依之十二月八日退去、十八日に家屋其の儘引渡したり。然るに廃藩置県の後、陸軍省営所の分営と成りたりしが、途に家屋を毀ちたり。

 

 

(元禄9年まで奥村家上屋敷が有ったところ)

(この辺りに奥村家上屋敷が有った)

 

以後、明治6年(1873)、 金沢城跡内に開設された金沢衛戍病院(旧陸軍)が、明治32年(1899)に下石引町の現在地に金沢第二陸軍病院として移転し、昭和20年(1945)に陸軍省から厚生省に移管され、国立金沢病院と改称し、平成16年(2004)には、独立行政法人国立病院機構金沢医療センターに改称されます。

 

(昭和の始めの下石引町の地図)

 

(少し遡ると、昭和39年(1964)の町名変更で下石引町が消滅しますが、平成1241日に現在の金沢医療センターだけが「下石引町」として復活しますが、金沢医療センターの住所は下石引町11と全国でも珍しい約5000坪の一地域が11号」という一つの番地が付けられています。)

 

参考ブログ

町名復活!!飛梅町、下石引町、出羽町と「三交会」

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12083829198.html

一時消えた!!飛梅町

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12083134507.html

 

 (今の国立医療センター内に有る看護学校)

 

P.S.

小学校の45年だった思う。風邪を引いて、前夜は鼻水が出でて熱も上がり、耳がやたらに痛くなりました。朝起きるとたいした事がないので学校に行くことのなり、痛くなったら病院へ行くようにと、出しなに母は、数10円と電車の回数券を1枚渡されました。

 

 

(バス停・昔は下石引町になっていた)

 

学校の近くの大学病院にも耳鼻科がありますが、知り合いのHさんが国立病院の耳鼻科に医者として勤めたていることを知っていたので国立病院へ行くことにしました。国立病院は学校から市電で2つめの停留所で、いつもは歩いていく距離ですが、帰りに、つらかったら電車でということで渡されていました。

 

初めての一人病院で一人電車でした。国立病院は低学年の頃、近所の同級生が盲腸で入院し見舞いに行って以来。その頃になると、窓にイギリス国旗のように張られた白いテープはもう無いものの、診察室や病室は大学病院のようなペンキで塗られた洋館ではなく、雑で質素な造りだったことを記憶しています。黒い顔をほころばせて“どうした”との声が聞こえ、久しぶりのHさんでしたが、軽い中耳炎ということで、診察も終わり、支払いのことは覚えていませんが、確かに10円札を握り停留所に向かいました。

 

 

(奥村家上屋敷土塀・昭和20年代か)

 

電車では、国立病院前の下石引町から紫中学前の中石引町、その後は大学病院前の終点です。電車に初めて一人で乗るので、中石引町を過ぎると、車掌が切符を集めに来るのを知らず、あわててポケットから母から貰った切符を渡していました。それがいざ降りるという時に車掌が貰っていないと言い張ります。確かに大勢の人が乗っていて貰ったかどうかは分からなかったのだと思いますが、車掌は“お前!!乗ったとき10円札を握っていて、今も握っているやないか!!”と口汚く私を犯罪者のように罵ります。もうその頃は乗客の降りてしまい誰もいなくなり、助けてくれる人がいません。

 

泣く泣く10円札を渡し、確か1円札23枚の釣りを悔しい思いで受け取りました。以後、その車掌には会ってはいませんが、電車に乗る度に“車掌の帽子すら憎く思えたものです。今、電車は無くなりましたが、最近、たま~に同じ会社のバスに乗り、観光客や乗客に対する乗務員のぞんざいな態度や不親切な言葉に出会うと、見るに見かねて怒鳴っている私がいます。まさか当時の仕返し??そんな事ではないといもうけど・・・。

 

 (今の医療センターの玄関)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・金沢市図書館「市年表・金沢の百年」

小立野の古蹟は山崎山だけ!?①山崎山

$
0
0

【小立野】

小立野の石浦郷山崎村は、藩政期以前、山崎山の原野で、山崎山或いは山崎領という遺名で呼ばれていたといいます。この地は、白山より連続する山のしっぽに辺り、山の先端(さきっぽ)から山崎山と云い、この山名から山崎村と云ったと云われています。藩政期初期は小立野より金沢城までが山林で、土地は平均化して武家地や組地、町地とし、石引町などの町名が立てられました。

 

 

(兼六園の山崎山)

 

(金澤古蹟志には、往昔は小立野の地は、石浦郷山崎村の地内に、小立野の惣名を山崎山と呼べり。然るに山崎山の地、悉く町地と成りたりし故に、迫々平均して家屋を建てたりといへども、今云う山崎山の地辺は、僅に往古の儘にて雑木生ひ茂り、実に深山の体をなしたるけるが、文政五年(1822)竹沢殿造営の時、今の如くその地域を狭められ、築山の如く成りて、僅に山崎山の遺蹟を残されたりといへり)

 

参考ブログ

東外惣構の起点!?兼六園山崎山の謎

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11721443583.html 

 

(兼六園の山崎山の標識)

 

≪山崎庄≫

三州志来因概覧附録に云ふ。山崎庄は、小立野の出羽町辺、専ら此の庄内にて、今の与カ町は関わらずと云ふ。一説に、小立野は山崎庄にある野たり。国祖入城の初め、猶本丸より小立野の方を山崎庄と唱へしといへり。今、按するに、可観小説・混見摘写には、二ノ丸新五郎塚辺りをばいにしへ山崎郷と云うとし、、博伽雑談には、本丸より小立野の経王寺辺りまでをば山崎郷と云ふとあり。然れば郷とも庄とも呼びたりけん。(金沢古蹟志)

 

 

(兼六園の山崎山)

 

山崎村から上野町へ

金沢古蹟志によると、山崎村は往古小立野石引町辺り村落があり、家教も多き村でしたが、村地が追々町地になり、.経王寺の前へ転地するよう命しられ、その後、経王寺を建立したので、利常公の御母堂寿福院殿、毎度の参詣に道路が悪く、村を今の上野村の地へ移転し、村名も、新村では無いので上野村としますが、延宝六年(1678)に上野新村と改称されます。また、山崎領は、山崎村旧領地で、笠舞村へ合併し笠舞村より年貢が納められます。この地は昭和になり、金沢市に合併し田圃たけでしたが長谷川町と呼ばれていました。現在は金沢市笠舞2丁目になり田圃はなく民家が立ち並んでいます。

 

(現在の旧経王寺の参道)

 (旧長谷川町・現笠舞2丁目)

 

小立野の名称由来

小立野というのは、俗に小立野台と称し、台上の惣号で、今は台上に石引町等の数町を建て、家屋が連なる一区で小立林を小立野といわれていいますが、小立野という名前には諸説あります。

  1. 「加府事跡必録」には、この原野幅狭く細長き地なりにより、小立野といえとぞ。惣じて小立野は幅狭く竪長き野なるにより「小竪野」と唱へし、後に小立野と謬書(びょうしょ)するなり。

  2. 「三州志」には、天徳院の塔司「小立庵」は、昔、小立野荒野なる頃より有りける庵号。

  3. 一向一揆の将「七里参河」この地に小館を建て、それゆえ「小館野」または「小龍野」という。

  4. 源平盛衰記に義仲、平岡野木立林に陣を取るとある。

(どれももっともらしいが、定かではない)

 

 

(現在の天徳院)

 

砂金台地「小立野」

地質学者の説によると、1万年以前(沖積世)まで、小立野台地は犀川と浅野川が蛇行

して流れていたという。

海の沈下に伴い台地が浸蝕され今日のように河岸段丘ができ川床が下がり小立野台地が

細長く残りました。犀川が河岸段丘をつくったとき、川の上流の「片麻岩」が含有する

金を多量に小立野台地の段丘に沈殿させたようだ。

そういうわけで、芋堀藤五郎伝説に有るように小立野台地には昔から砂金が取れたそうです。

一番多かったのは、今の兼六園から金沢城のところらしく、中世にはゴールドラッシュで金屋が集まり、金沢御坊(1546)の頃まで砂金採掘が続いたといわれています。

 

 

つづく

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行

小立野の古蹟は山崎山だけ!?②山崎村跡

$
0
0

【小立野・石引2丁目】

この村は、藩政期以前石浦の郷内の七ヶ村の一村だと云う、現在の金沢城祉から石引4丁目辺りで、金澤事蹟必録によると、小立野山崎村は、延徳二年(1490本願寺より小立野山の尾崎に道場を建て、尾山御堂と称し、道場の守護として本願寺より家老下間、坪坂等を下し、その旅館を小立野に建て住居させたという。それゆえ何時しか工商の家が集まり?そこが山崎山であったので山崎村と呼ばれるようになったと云われていますが、金澤古蹟志では、以下、それぞれの時代の記述を記載し、本当はどうなのかを解き明かしています。

 

(本丸に尾山御御堂が有ったといわれています)

 

山崎村は、金澤開府以後は、村地はことごとく武家・町家・寺院の屋敷となり、加賀古跡考の記載では山崎領と云う旧名だけが残ったと云う。ところが山崎の邑名(村名)は、白山比咩神社に伝来する三宮古記正和元年(1312)の條に、水引紳人云々。山崎・凹市紺一(現久保市さん辺りか?)。又、近年水引紳人沙汰進分事、山崎村紺一。等とあり、正和元年(1312延徳2年(1490より180年ばかり前である事など、又、右古記には、山崎の村落は古い村ですが、尾山御堂建立で工商が集り、山崎の村が建てたということは、妄誕怠る事いちじるし(言うことに根拠のないでたらめ)と書かれています。

 

 (藩政初期の山崎村地・石浦神社の氏子図より)

 

さらに、土屋義休の金城隆盛私記には、山崎村は古くは1000石餘の所とあり、利長・利常二公のとき、府中繁栄。村里に町家が多く、山崎村の残り地小立野経王寺道路を山崎領という古説がありと、又、有澤武貞の金澤細見図譜に、山崎村は1000軒ばかりの家居がある大在所という記載があるのは誤りで、土屋義休の伝説の在所は今の十間町辺りだとしています。これもまた誤りか?

 

 (白は、藩政期以前の山崎村・図は延宝金沢図の模写・兼六園のところの重臣の屋敷)

 

明治の郷土史家森田柿園の見解として、金澤古蹟志には、石浦神社に伝来する寛永八年(1631)の氏子地図に、山崎村跡は小立野石引町の裏なる出羽町の地辺とあり、三州志来因概覧附録では、この地を古山崎村といい、藩政初期には、横山山城・横山右近・奥村河内の屋敷を賜はり、山城邸は‘本多安房守邸と相向いとある。よって山崎の村落は、現在の二に丸新五郎塚跡から兼六園の地より今(明治)練兵所(今の石引4丁目)となる出羽町の旧地が山崎の村跡だと書かれています。

 

 

(明治の練兵場跡)

(この辺りが新五郎塚跡)

 

(二の丸新五郎塚跡は、藩侯の寝所の居間先、松坂門上に辺り、尾山御坊の頃、この辺りが坪坂伯耆守の子の城代坪坂新五郎(天文日記)の墳墓とされた。利家公入城時にこの塚から人骨が出土し、これは世俗では本願寺第8代蓮如上人の骨とし、四十万の善性寺の近くの山に葬りました。明治14年に二の丸御殿が焼失した時、残る人骨がでたので、蓮如上人の父、第7代存如上人の遺骨として西町の神護寺跡に廟所を建て安置した。)

 

(存如上人の御廟所)

 

(旧山崎町の町名改称の碑)

 

≪小立野の旧山崎町≫

金沢市内の町名が変更された昭和39年(1964まで、小立野に有った旧山崎町は、山崎村とは無関係で、藩政期、山崎氏(5,500石)の屋敷地があり、明治2年(1869に山崎町の名で町立されました。その町は山崎氏邸が有ったところで波着寺の隣地、始めは山崎氏の下邸で、途中から山崎氏がこの地内に居住を移します。延宝の金沢図には、山崎庄兵衛と記載があり、前口七十間、東側四十七問一尺、西側八十三間五尺二寸で、地内には家士も居位し山崎家中とよばれていました。

 

  (安政の絵図・山崎氏屋敷)

 

山崎氏略伝

山崎氏の出自は、「越前国に官吏として赴任した藤原氏の末裔」や山崎家が伝承する「村上源氏赤松氏流の末裔」など諸説あります。山崎閑斎長徳は、天文21年(1552)誕生と伝えられ、元山城国山崎の油売で、家紋も油筒の形を用いています。当初は朝倉義景の家臣として仕え、義景の宿老だった山崎吉家の縁戚に当たるといわれ、父は吉家の弟山崎吉延ともいわれていますが、詳しいことはわかりません。朝倉氏が織田信長によって滅ぼされると明智光秀に仕え、天正10年(1582)の本能寺の変や山崎の戦いにも参加します。

 

光秀が山崎の戦いで敗れると、越前国の柴田勝家に仕え、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは勝家の家臣佐久間安政の許で戦い、勝家が死去すると前田利家公に次いで前田利長公に仕えます。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは加賀国大聖寺城の山口宗永、山口修弘親子を討ち取るという功績を挙げ、戦後に利長公から14000石とも15000石とも云われる所領を与えられます。慶長16年(1611)に剃髪して閑斎と号し、慶長19年(1614)からの大坂の陣にも、冬・夏の両陣に参戦します。

 

長男庄兵衛は、父に先立ち、二男阿波へ15000石を譲るが、これまた先立ち没します。故に三男長門長鏡の名称を譲る。これが山崎氏の祖となります。末子を美濃と云い、関斎卒後隠居料2,000石を譲り大聖寺藩士山崎氏の祖也とあり、山崎閑斎は行年67歳で元和7年(1621)に病死したとあります。

 

その子孫は、文政期には金沢町奉行として、或るいは、「禁門の変」で慶寧公の筆頭家老として加賀藩史に登場するなど幕末まで続きました。

 

(今の旧山崎町)

 

P.S.

前田利家公に、15,000石で仕えた山崎閑斎を見抜いていたらしく、2代利長公に「性根は善いが、使用上注意せよ」と言い残していました。さらに「山崎はかたくなな武辺者ゆえ、 侍(さむらい)30人か40人の頭にはよいが、大軍の将とすることは 無用」とも言っていたという。のちに前田家が徳川方に加わった大坂夏の陣のとき、豊臣方の真田幸村の突撃で徳川方が混乱する一場面に小躍りした山崎閑斎3代利常公「今こそ徳川を討って天下を取られよ」と寝返りを勧めたという逸話があり、大局を見ないイノシシ武者に大軍を預けて暴走されたら堪らないということですネ。

 

 

(今の二の丸)

 

太田但馬守誅殺事件では、前田利長公により横山長知と山崎閑斎の2人に太田殺害を命じますが、山崎は約束の時間に遅参したため、横山は、助太刀として連れて行った御馬廻組の勝尾半左衛門とともに太田を成敗します。後日談では、横山と共に利長公の命を受け、遅参した山崎閑斎には、この事件の後、それまで兄弟のように仲の良かった横山との仲が悪くなったらしい、それは連座した女中の中に山崎の縁者がいたせいであろうか?等々

 

参考ブログ

本多家上屋敷は太田長知の屋敷跡

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12314086241.html

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行ほか

山代温泉①ほっと石川観光ボランティアガイド加賀地区大会

$
0
0

【加賀温泉郷・山代】

平成14年(2002)に発足した「ほっと石川観光ボランティアガイド連絡協議会」に加盟する石川県内の各地区では、年3回持ち回りで開催される研修会が316日今年度最後の研修が加賀地区山代温泉で開催され、16ヶ月ぶりに私も参加させて戴きましました。

 

(ほっと石川加賀地区大会1)

 

(ほっと石川加賀地区大会2)

 

今回の研修コースは、山代温泉を中心に加賀市内の幾つかのコースが用意されていて、私たちの金沢の「まいどさんグループ」は、「魯山人寓居跡」と魯山人所縁のところをめぐるコースで、半日の研修でしたが、内容が盛りたくさんで聞くだけで精一杯でした。以下、今回、山代温泉の行かないところも含めて調べた事を何回に分けまとめてみます。

 

 

(いろは草庵)

 

山代温泉の開湯は、1300年前の神亀2年(725)と言われています。温泉縁起には、霊峰白山へ行基上人が白山登拝の途中、霊鳥が水たまりで翼の傷を癒しているのを見つけ、温泉を発見したという逸話が残されています。霊方山薬師院温泉寺は、温泉守護のため創建されたと伝えられ、薬師日光月光十二神将を祀り、白山権現を勧請して鎮守としたことがこのお寺の始まり、白山五院の一。末社、別院数百坊を有したといいます。

 

 

(薬師院温泉寺)

 

後に明覚上人を従えて花山法皇が北国巡歴の際に山代温泉に立ち寄り、湯の優れた効能を見抜き温泉寺を中興し七堂伽藍を建立したと伝えられています。戦国時代には兵火により焼失しますが、大聖寺藩主前田利治により再建されました。境内背後には「めかくしさん」とよばれる室町時代に造られという明覚上人を供養する「石造五輪の塔」は国の重要文化財に指定されています。

 

(明覚上人(みょうがくしょうにん)天喜4年(1056)~ 没年不詳)は、平安時代後期の天台宗の僧。読み方についてはめいかくとも読むそうです。温泉房または唯心房(存疑)と号し、比叡山に入って覚厳に師事して天台教学を学びました。比叡山に五大院を開創した安然(841?915?)を慕って悉曇学(しったんがく)を修学し、加賀国薬師院温泉寺に移り住みました。)

 

 

(薬師院温泉寺の所縁)

 

「あ、い、う、え、お、か…」誰もが知っている日本語の五十音順ですが、もともとの並び順は「いろはにほへと…」ですが、「あいうえおか…」の現代の日本語に進化させたと言われている方が明覚上人です。明覚上人は、独学で悉曇学(しったんがく)・サンスクリット文字を学び、それをもとに今の五十音順を創り上げたと言われ、今、街には周辺が散策できる「あいうえおの小径」が整備されています。

 

毎月10日薬王院温泉寺では、この明覚上人の偉業を称えるために「明覚上人顕彰会」が寺にある「五輪の塔」にて行なわれています。そして810日は明覚上人の本命日にあたり、ご供養も執り行なわれます。また、学業成就にご利益があるパワースポットとも言われています。

 

 

(山代温泉の昔ながらのベンガラの宿)

 

山代温泉の泉質は、同じ地にナトリウム・カルシウムー硫酸塩・塩化物泉など微妙に違う3つの泉質があり、鎮静効果が大きく病後回復、疲労回復、ストレス解消、健康増進などに効能があると言われています。特に「脳卒中のリハビリ」などに利用され「脳卒中の湯」「神経痛の湯」と言われていて、昔から多くの人々が湯治に訪れ、傷を負った明智光秀や加賀藩初代藩主前田利家公など、時の権力者たちも湯治に訪れたそうです。

 

藩政期より戦前までは温泉宿が18ほどの山代温泉は、北前船の船乗りや近郷近在から湯治客を集め、共同浴場“総湯”を中心に町がつくられ、共同浴場の周りに温泉宿が立ち並ぶ街を「湯の曲輪(ゆのがわ)と呼ばれ、湯治客が街を行き来し、長逗留の湯治客は自然に包まれた付近を散策したといいます。大正中期に、日本初の旅行温泉ライターが書いた「温泉巡礼記」に“山代の湯女”が紹介されたことで、全国的に有名になったといいます。

 

 

(古総湯)

(今の総湯の門・旧吉野屋の門)

 

現在では、温泉宿の内湯はあたり前ですが、街には2つの共同浴場の“総湯”“古総湯”があり、“総湯”は、広くて新しい熱交換システムを導入。加水なしの100%源泉の共同浴場です。もうひとつの“古総湯”は、明治時代の総湯を復元し、外観や内装だけでなく「湯あみ」という温泉に浸かって楽しむだけの当時の入浴方法も再現した共同浴場になっています。

 

 

 

山代は、藩政末期に古九谷を再興した吉田屋窯が生まれた土地で、近くには「九谷焼窯跡展示館」や少し離れた大聖寺には「石川県九谷焼美術館」 そして、今も登り窯のある有名な菁華窯が有り、湯治場としてだけでなく、古今、多くの文人墨客にも愛されています。また、大正時代に逗留し、旅館の看板を製作したという美食家であり芸術家としても知られる北大路魯山人が、作陶や絵画を学んだのも山代であるといわれ、現在、その当時の寓居跡は「いろは草庵」という名前で観光名所となっています。

 

(つづく)

 

参考:聞いた話や加賀市で頂いたパンフレット、ウィキペティアフリー百科事典など

山代温泉②魯山人寓居跡「いろは草庵」

$
0
0

【加賀温泉郷・山代】

大正4年(191510月、細野燕台の食客として金沢に滞在していた福田大観(後の魯山人)が燕台に伴われ山代の吉野屋で、主人の吉野冶郎に会います。治郎は書画骨董の数寄者で世話好きの当時55歳。その吉野家には、燕台の書いた看板がすでに掛けられていたが、治郎に自分の看板より、この男の書く看板に改めないかと、熱心に勧めたといいます。

 

(魯山人寓居いろは草庵)

 

(細野燕台と福田大観(魯山人)との出会いは、大正4年(19157月福井の鯖江で旅館と美術ブローカーで茶友窪田ト了の処で紹介され、8月に初対面の時とまったく同じ白絣の木綿の着物に羊羹色(黄土色)の呂羽織、履き古した草履を素足に履いて、手垢で薄よごれたカンカン帽をかぶり、風呂敷包に身の廻りの品をくるんで、金沢の殿町の骨董屋兼セメント屋の燕台の店に現われ、この日から細野家の食客として納まり、燕台は家族ぐるみで温かく向入れています。燕台は早速、知人の間を廻り福田大観(魯山人)に印章を刻らせて貰うよう頼んで歩きますが、印章では誰も注文してくれず、やむなく看板の注文をとつて彼に仕事を与えます。まずは燕台自ら考えた骨董店の「堂々堂」の看板を彫らせてみます。3日後には、まさに堂々した堂の出来映えだったといいます。)

 

細野燕台は、明治5年(187272日に金沢生まれ。金沢で家業の油屋を継ぐ。古美術に精通し,のちに骨董(こっとう)業とセメント業を営み、茶や書でも一家をなした。無名時代の北大路魯山人に味覚と陶芸について教えた。伊東深水のえがいた肖像画「酔燕台翁」がある。昭和36924日死去。89歳。本名は申三。

 

 

吉野治郎は、大観の書を見てその才能を見抜いたのか、不遜な顔つきではあるが、気骨のありそうな面構えに期待して、また、燕台への義理立てもあったのか、その仕事が打ち込める場所にと自邸を開放します。服部神社の石段を真直ぐ降りてきたところに治郎自身の隠居所があり、明治の初めに文人数寄者たちの雅遊のサロンとして建てたもので、ここを仕事場として大観に提供します。現在の魯山人寓居跡いろは草庵です。

 

 

服部神社:機織の神の天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)を祀るとされています。延長5年( 927)の書物によるとその時代には大変立派だった社殿も、天文21年(1552)越前の朝倉義景の戦火にあって社殿を消失しました。 江戸末期には廃絶されていましたが、明治8年、現在の場所に服部神社を再興され、菊理媛神(くくりひめのかみ)をまつる白山神社と合併して郷社となりました。)

 

 

(服部神社)

 

山代での初仕事が吉野屋の看板を彫琢することで、吉野屋の看板は前に書きましたが、細野燕台が書いたものを使っていましたが、燕台は、「ちょうどええ機会やから吉野屋はんも、いつまでもわしの看板を使わんで、これに彫ってもらったらええ」と勧めたといいます。普通なら、その能力がいかに優れていたとしても簡単に出来るものではなく、燕台が若い大観(魯山人)に惚れていたか?がよくわかります。

 

 

 (魯山人寓居いろは草庵で解説中)

 

大観(魯山人)は仕事場に提供してくれた一室に畳表を敷き、砥石で鉋を研ぎ終えると燕台の看板の字を削り落とします。彫られた「吉野屋」は力強い陽刻彫り横書きで、一見、粗野に見えるごつごつとした彫りに大観の力量を感じた吉野治郎は、この看板が気に入り、即、玄関に掛けます。

 

 (いろは草庵の室内)

 

燕台の宣伝で大観(魯山人)の仕事を見に駆けつけた山代の館主「あらや」「くらや」「白銀屋」「田中家洗心館」、「山下家」そして「菁華窯」の須田与三郎などから注文をもらい、これらの看板を彫ることになります。そして大観は翌年の春までの7ヶ月を吉野屋の隠居所に逗留し、それらの看板を掘る仕事に没頭したのは、11月から12月で、のちのち語りつがれる多くの代表作が彫られています。

 

 

 (今、山代に残っている看板)

 

大観(魯山人)の刀技は燕台が抱いていた以上の力量を発揮し、その彫りは臨機応変、自由奔放で、思っていた以上の才能が現れていました。用材の大半は欅、楠、桂、杉、栗などを用い、彫琢したところに緑青、胡粉で仕上がられます。

 

細野燕台は山代温泉に滞在する時、決まって銀製の小鍋を持ってきました。当時、温泉場の旅館には板場はなく、仕出し屋から客の好みにあわせて料理を運んでいました。しかし、せっかくの汁ものも冷めてしまうので、燕台は部屋の火鉢で暖め直すために持って来たもので、北陸の山代で大観(魯山人)が、後の美食倶楽部から星岡茶寮につながる美味に開眼したのではと言われています。特に生れて初めて「クチコ」「このわた」を燕台からご馳走になった大観(魯山人)は、その美味さに驚いたと伝えられています。

 

 

(書展のチラシ)

 

P.S.

今回訪問した魯山人寓居いろは草庵では、「書の愉しみ」と題し、魯山人とゆかりの方々、魯山人の新たな才能を見出したといわれる金沢の細野燕台、料理の才に目覚めさえた金沢「山の尾」の太田多吉の書も展示さていて、それらの書にも、それぞれの信念や哲学が込められているように思えたのは演出や設えとばかりとは言えない何かを感じました。

 

 

(つづく)

 

参考:北室正枝著「雅遊人」―細野燕台の生涯―・当日魯山人寓居跡いろは草庵での解説など

山代温泉③たちばな四季亭

$
0
0

【加賀温泉・山代】

思いがけず、山代のボランティアガイドの皆さんのご配慮と老舗旅館「たちばな四季亭」のご理解により、当旅館のお宝を見学させて戴きました。この場を借りてお礼を申し上げます。有難うございました。「たちばな四季亭」前身は明治元年(1868)創業で田中屋旅館といいました。平成2年(1990)に全館を新築し、館名を「たちばな四季亭」と改め、リニューアルオープンしたと聞きます。

 

 

(たちばな四季亭)

 

それ以来、山代に残る明覚上人の「あいうえお・・・」伝説から、経営の“こころ”を「ひらがなのおもてなし」とし、ひらがなから受ける柔らかさと優しさをおもてなしの心に反映させ、お客様が常に温もりを感じられるお宿を目指しているそうです。

 

(旧名田中屋の看板)

(玄関には、芭蕉の句”両の手に桃と桜や草の餅”) 

 (3月の玄関の設え)

 

ご案内して戴いた、女将さんのお話では、前身の田中屋旅館時代の大正5年(1915)には、当時の館主(和田重太郎)福田大観(後に北大路魯山人)が親交を深め、当時の特別棟のため「洗心館」の看板を制作して戴き、魯山人の心はそのままに、特別宴会場“洗心”の名に残し受け継いでいるそうです。また、館内には、魯山人作の「洗心館」の看板や和田重太郎の作品、高価な骨董や扁額、陶磁器のコーナーが設けられていました。

 

 

(魯山人の看板)

 

どうも、その和田重太郎さんは、温泉旅館の館主でありながら、画家でもあり、福田大観(魯山人)が山代に滞在する間、大観(魯山人)に絵を教えていたらしく、その功績が数年前、地元の北國新聞に取り上げられていたそうです。さっそく調べてみるとの曾孫のブログに曾祖父和田重太郎氏の記事を見つけました。

 

 

(和田重太郎の画①)

(和田重太郎の画②)

(茶房好山庵の作品群)

 

曾孫和田哲行氏のブログによると、大観(魯山人)とは結構仲がよくて、絵画を教えたお礼に看板を彫ったことが書かれていて、ウチには魯山人の作品が何点か残っているとも書かれています。

 

(数年前の北国新聞の記事)

 

僕(曾孫)の中では曽祖父は絵画の天才でしたが、あまり日の目が当たることなく、秘密兵器のような方だと思っていました。「このまま秘密兵器のまま終わるのでは?」と僕(曾孫)を含めて和田家全員がそう思っていましたが、「やっと日の目を見るようになりました」と、今でもお寺に行くと曽祖父の書いた絵が飾られていて住職がお礼を言ってくれます。曽祖父の功績が評価されたと今度お墓の前で報告しようと思います。(曾孫和田哲行氏のブログ引用)

「曾祖父の功績」

https://ameblo.jp/shinagawawd/entry-12043827594.html

 

そこで、さらに知らべると、その和田重太郎は、明治6年(1873)に山代の田中屋旅館の長男に生まれ、号好山。納富介次郎によって創設された石川県立工業学校の専門画学部本科に入学。鈴木華邨(日本画)や村上九郎作(木彫)から学び、明治27年(1894)に卒業。以後、校長だった納富介次郎の信頼を得て、介次郎が創設した富山県立工芸学校では図案絵画科の教員を、香川県立工芸学校では、納富介治郎から校長心得を受け継ぎます。

明治34年(1901)には父の死で、山代に帰り田中屋旅館を受け継ぎます。生来温厚篤実な人柄で、長らく内紛の続く鉱泉宿営業組合を仲裁し、若くして組合長に推挙され、采配をふるったとあります。また、晩年まで画道の修行を続け、題材は幅広く、請けおわれて画塾を開いた。買い求めた納富介堂(介次郎)、鈴木華邨の作品と好山の軸、屏風、陶芸作品を「茶房好山庵」に展示し、その業績を伝えている。昭和26年(1951112日、78歳で逝去とありました。

 

 

(江戸時代の著名な文人が書いたという「竹里館」の偏額、魯山人が譲ってほしくて何回も手紙が送られてきたと聞く)

 

(納富介次郎、明治-大正時代の陶芸家、教育者。天保15184443日生まれ。肥前小城藩藩士柴田花守の次男。父に書画、詩歌を学ぶ。安政6年(1859)佐賀藩士納富六郎左衛門の養子となり万延元年(1860長崎に出て南画を、文久2年(1862)上海に渡って貿易調査を行い、明治6年(1873) ウィーン万国博覧会で政府随員として渡欧し、ヨーロッパ各地の製陶所を見学して帰国、勧業寮で新技術を教える。のち石川、富山、香川、佐賀などの県立工業(工芸)学校長を努めた。大正7年(191839日死去。75歳。号は介堂。)

 

(つづく)

 

参考:石川県立工業高等学校創立120周年記念美術工芸所蔵作品図録など

山代温泉④ 初代須田菁華と魯山人

$
0
0

【加賀温泉郷・山代→東京・鎌倉】

魯山人が言った有名な「器は料理の着物」という言葉が有ります。魯山人の作陶の多くは料理を盛る器で、自らつくる料理のために器づくりを始めたのは自然の成り行きでしょうが、魯山人が「器は料理の着物」に思いを致したのは、細野燕台や太田多吉を知り、作陶を初代須田菁華に習い閃いたのでしょう。魯山人は、衣裳が婦人の生命であるなら、食器は料理の生命です。盛り付けたとき、その素材に合い、美しさを感じる食器を目指し、料理の素材を生かすような食器づくりに励みます。その器は、新鮮な材料が、そのまま調理されたもの程、盛り付けたときに最高の美を発揮するといい、逆に、調理過剰、装飾過多の料理は、それを拒否してしまうと・・・・。まさに大正4年(1915)食材の豊富な北陸の金沢や山代で、素晴しい好事家や名人と呼ばれる作陶家を知り触発されたことによるもだと思われます。

 

 

(須田菁華窯1)

 

(ピカソは「凡人は模倣し、天才は盗む」と言い、スティーブ・ジョブズは「優れた芸術家はまねをし、偉大な芸術家は盗む」と言ったといわれていますが、魯山人は優れた芸術家から息を吹き込まれ、さらに偉大な芸術家になったということのようです!?)

 

 

(菁華窯②)

 

金沢の食通で知られた細野燕台の食客となり細野家の食卓で気づきます。子どもの頃から養家や奉公先で料理を経験しますが、家庭の温かみというものに縁がなかった魯山人は、大勢の家族とともに囲む食卓というものが、いかに食材を引き立たせるかをしみじみと実感し、「まるで器から出汁がでているようだ」と言っています。

 

 

(金沢の山の尾)

 

また、金沢滞在中に東山の「山の尾」の太田多吉を知ります。多吉は自ら九谷焼職人の須田菁華のもとに出向き、自らの料亭「山の尾」で使用する食器を作る姿とこだわりを目の当たりにし、食と器の調和の大切さを知り、毎日のように「山の尾」に通い加賀料理を教わって食への興味を深める一方、吉野治郎が提供した別邸を拠点に篆刻や書の制作に励むようになります。

 

(菁華窯の看板)

 

大正4年(191511「菁華」の刻字看板完成し、その見事な出来映えに菁華窯の仕事場に入ることが許され、初めて絵付けを体験します。書家の魯山人も最初は、素焼きの上では筆が思うように滑らず困惑したといいます。それ以来、看板を彫るかたわら、ひまを見ては菁華の工房に出向き、釉薬の調合や窯の焚き方といった作陶の基礎を学びます。以後、魯山人は初代須田菁華に手ほどきを受け、陶芸の技術や審美眼を磨いていきます。

 

 

(星岡茶寮給仕募集チラシ・いろは草庵より)

 

魯山人は、大正8年(191836歳の時、幼友達の中村竹四郎と東京に骨董店「大雅堂芸術店」を開店し、大正9年(1919)骨董店の二階に会員制の食堂「美食倶楽部」を開店。店の陶磁器に手づくりの料理を盛りつけた演出が、好評を得ます。翌年から福田大観を実家の姓である北大路を正式に名のり、北大路魯山人となり、大正14年(1924)赤坂に開店する会員制の高級料亭「星岡茶寮」で、北陸時代に磨いた才能を開花させます。

 

 

(星岡茶寮の女中頭募集チラシ・いろは草庵より)

 

魯山人は星岡茶寮の顧問兼料理長として腕をふるい、料理と器の調和にきめ細やかな配慮をみせ、盛り付けに使う器を石川の須田菁華窯に出向いて作ります。星岡茶寮は「東京における最高の料亭」と呼ばれるまでに発展します。

 

 

(不遜の面構えの魯山人)

 

大正15年(1934)に鎌倉山崎に7000坪の土地を借り、登り窯を築き、燕台は、再度作陶の職人集めを魯山人から依頼され、宮永東山窯から工場長の荒川豊蔵、金沢の初代中村梅山窯から松島小太郎、須田菁華窯の山本仙太郎を燕台が説得して歩いて引き抜き、困り果てた東山窯、梅山窯、菁華窯からは、燕台はかなり恨みを買ったといわれています。

 

 

(須田菁華窯の登り窯)

 

以後、魯山人には傲岸・不遜・狷介・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、戦前を代表する芸術家・批評家から、世界的画家ピカソまでをも容赦なく罵倒し、この傲慢な態度と物言いが祟り、昭和11年(1936)には、星岡茶寮の経営者中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は昭和20年(1945)の空襲により焼失した。

 

 

(山代の菁華窯)

 

魯山人は晩年まで、かつて暮らした金沢や山代の吉野別邸のことを気にかけていたそうです。

 

参考ブログ

魯山人と初代須田菁華‐加賀市総合サービス

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=10&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwiF-YXY64naAhUGH5QKHRI0DOAQFghhMAk&url=http%3A%2F%2Fkagashi-ss.co.jp%2Firoha_kikaku2%2F%25E9%25AD%25AF%25E5%25B1%25B1%25E4%25BA%25BA%25E3%2581%25A8%25E5%2588%259D%25E4%25BB%25A3%25E9%25A0%2588%25E7%2594%25B0%25E8%258F%2581%25E8%258F%25AF%2F&usg=AOvVaw1WDNz2Lojud8fSagATeIs9

 

参考文献:北室正枝著「雅遊人」―細野燕台の生涯―ほか

 


東の廓と燕台(えんだい)さんの艶談(えんだん)

$
0
0

【ひがし茶屋街】

燕台さんには、東の廓(ひがし茶屋街)に2人の囲い者(お手掛けさん)が居たと聞く・・・。囲い者と言っても、妻曾登に隠れて、こっそり別宅などに住まわせていたわけではなく、妻も公認!?当時、燕台さんには年端もいかない娘がいて、その娘玉映を連れて別宅に行ったこともあり、娘は曾登に、綺麗なお姉さんに可愛がってもらった話をして、曾登も苦笑いしたという話が今も語り継がれています。

 

(現在のひがし茶屋街・元東の廓)

 

大正の初め頃は、芸妓遊びは男の甲斐性という時代のせいもあり、妻の曾登は、今となっては内心は分からないものの、アッケラカンとした性分も手伝い、表向きは取り立てて気にする風もなく、お手掛けさんの1“広さん”は、燕台さんの妹と気が会い電話で長話をしたり訪れたりしたらしく、家族ぐるみで認める付き合いだったとか、当時は、金沢のお金持ちの旦那さんにとっては「男性天国」だったようです。

 

 

 

そのお手掛けさんの1“広さん”は、維新後、家が没落した士族の娘で、幅広い教養と気配りも良く優しい女性で、芸妓(げいこ)の頃から燕台さんの文人の話が通じる“広さん”が最もお気に入りだったようです。出会いは、25歳の燕台さんが、東の廓(ひがし茶屋街)の茶屋で一目ぼれした女性で、当時15歳、色白で小柄、口数が少なく面長の金沢美人だったといいます。

 

(燕台さんは、背は当時とし高いほうでしたが、取り立ててイイ男とは言い難く、酒屋の坊ちゃんではあるが大事業家でもなく、どこでどうなっていたのかよく分からりませんが、お金が回りいつも羽振りがよかったらしい、それに話がうまく、人への気配りが魅力で芸妓衆に受けが良かったようです。)

 

(現在のひがし茶屋街)

 

以来、燕台さんは、足繁く東の廓(ひがし茶屋街)の“広さん”のところへ通い詰めていました。ところが、“広さん”の年期が明け、20歳の時に野沢という表具師の元へ嫁にいってしまいます。

 

(旧彦三1番丁)

 

すっかり気を落とした燕台さんは、今度は、東の廓(ひがし茶屋街)の“照さん“を引き、愛宕町で待合「照乃」を持たせてやったそうです。”照さん”“広さん”ほど美人ではないが、歳は燕台さんと似たり寄ったりで、彦三1番丁の釜師宮崎寒雉の隣の別邸に住まわせていました。

 

 

(現在のひがし茶屋街)

 

“照さん”は、芸事は不得手だったそうですが、大酒飲みで、お客を相手は口八丁で座持ちが良く、お座敷では、ザックバランで人気もあり重宝がられていたようで、客の中には、芸が不得手なことを知りながら「おい、照。三味線を弾けマ。」というと、“照さん”は、さすが、一瞬、むかついた顔をするが、直ぐに笑顔つくり「ほんなら引かせてもろサケ、見まっしマ。」と返し、さっと立ち、帯止めを解くと、その帯を三味線の糸巻きに縛りつけ、三味線を畳の上で引きずり歩いくと、大爆笑と拍手の嵐、座が大いに盛り上がったそうです。そのように気性が激しくお転婆で大柄な女ですから”アラビア馬“とあだ名が付いたそうです。燕台さんもそんなさばさばとしたキカン気がお気に入りだったらしい・・・。

 

 

(旧観音町)

 

ところが3年ほどすると、“広さん”は未亡人になり、男の子を連れて野沢の家から戻ってきました。それで燕台さんは、早速、“広さん“にも待合「野沢屋」と観音町に家を持たせたそうです。

 

 

 

当時の東の廓(ひがし茶屋街)では、元旦には花初めの座敷があり、芸妓達は、正月向けの日本髪を結い上げ、黒留袖を着て、茶屋の女将のところに年始にいってから、料理屋から馴染みの客のところをまわり、廓では、松の内は花代を取らず遊ばせてくれたそうです。旦那衆は芸妓達に1円の入った「お年玉」を配るのが習わしで、三味線や踊りは普段より華やかになり、賑やかに歌や舞っているところに加賀万歳がやって来て、街の通りはいつもより忙しく人力車が行き交ったと、北室正枝著「雅遊人」に書かれています。

 

 

(旧殿町十番地の細野燕台の店跡)

 

(細野燕台(ほそのえんだい):明治5年(187272日金沢市材木町生まれ。金沢で家業の油屋と酒屋を継ぎ、後に旧殿町十番地でセメント販売を業とし支那骨董店を併設した。若い頃、漢学を金沢の五香屋休哉に学び、書家の北方心泉に書道を学び、茶道や書画骨董にも通じ、茶道家、書家として一家をなす。無名時代の北大路魯山人(ろさんじん)に味覚と陶芸について示唆を与え、後に魯山人の誘いで鎌倉にて活躍した。伊東深水のえがいた肖像画「酔燕台翁」がある。昭和36年(1961924日死去。89歳。本名は申三。)

 

 

参考文献:北室正枝著「雅遊人―細野燕台・魯山人を世に出した文人の生涯―」ほか

 

大観(魯山人)と「山の尾」太田多吉の出会い

$
0
0

【ひがし茶屋街】

大観(魯山人)は、大正5年(1916)正月。山代での看板の仕事を終え、多少懐具合もよくなり、金沢に帰り十間町の燕台さんの店の近く上博労町の下宿で仮住まいをします。実は、金沢で遣り残した事があり、金沢や山代に滞在中、名前だけは知っていた山の尾の太田多吉に会う事でした。山の尾の太田多吉と燕台さんは昵懇の間柄でしたが、なかなか紹介して頂けず、大観(魯山人)は一計をめぐらせます。

 

 

(旧殿町の燕台さんの店の跡)

 

太田多吉は、茶の湯に精通し、偏屈者で、癇癪持ち。燕台さんは、大観(魯山人)の人を食ったような言動は恐らく多吉の機嫌を損ねかねないと最初からから危惧していたものと思われます。昨年、大観の来沢に際し、燕台さんは大観に印判の仕事をと思い、富山に住む金山従革という篆刻の大家のもとを訪ねたとき、「昨今の篆刻はみんな中国の真似だが、自分は日本独自の篆刻を完成させたい」と大風呂敷を広げ、古今の篆刻文書をことごとく「読んでいない」と言ったために失笑を買った会見で失敗したのに懲りていたもの思われます。

 

 

(今の山乃尾玄関)

 

北室正枝著「雅遊人・細野燕台」によると、大観は燕台さんのお手掛けさんの一人“照さん“を訪れ、燕台さんに言っていますが、山の尾太田多吉さんに合わせて貰えませんと口説き、照さんからも燕台さんに言っては貰えませんかと頼みます。どうも、もう一人の”広さん”に頼るより、照さんの方がさばさばしていて気安かったと言うことらしく、“照さん”「そんなことやったら、“お安いご用”」と言い「山の尾の“だんさん”のいい人の初枝さんも知とるさかい、そっからも云うてもろてあげるワ」と言われ大観の作戦は成功します。

 

 

(今の山乃尾・ひがし茶屋街より)

 

山の尾に行くと、燕台さんは、茶を知らない大観の所作に、太田多吉が何時、機嫌が悪くなるかとハラハラしていましたが、結果は、食で繋がり良いほうに転がっていきました。出された「ばい貝」です。大観は、秋の食った物とは格段に味が違うこと気づき、多吉は「あんたいい舌をもっておりなさる!!」「舌の感覚は生まれつきもんやサケ、たんと(沢山)食べマッシ」と言い「ばい貝は縁起のいい食べモンや、倍々に膨れて、目出度い事が重なるということや。まだ正月やサケ、目出度い、目出度い」と大観の味覚をほめ、すっかりご機嫌がよくなったという。

 

 

(今の山乃尾のアプローチ)

 

調理場では「これはどのように調理してはりまっか」と大観は細かく聞いてきたといいます。多吉は大観が料理にも興味があるのではと思い「君は料理にも興味があるのかね?」 「ええ、初めて口にする複雑な味なので」と言うと太田多吉が丁寧に説明してくれ、大観は味を確かめるように箸を運び、燕台さんは、素知らぬふりで酒をのみ続けながら、内心、和やかな2人に目を細め安堵していたといいます。

 

 

(ひがしの菅原神社前の誘導看板)

 

(太田多吉は、金沢の山の尾の主人で、「山の翁」と号し、茶懐石や書画骨董に詳わしく、また所持していたので、古美術界では有名で、当時、茶人として名高い男爵で三井財閥の益田鈍翁をはじめ、東京、京都、大阪などから茶人、数奇者、美食家が「山の尾」にたえまなく訪れていたそうです。なかでも燕台は多吉との骨董趣味が通じ、多吉は食通の燕台に一目置いていたようで、親しく交流しています。山の尾の料理は、京都とは一味違う多吉流の調理方法で、スッポンなどの絶品の味や、加賀料理やクチコ、コノコなど、多吉自らは鰻を捌く鰻料理は見事で、河北瀉でとれる天然の大きな鰻を開いて、一日中、裏庭の滝に打たせて清水でさらして脂をぬき、これを蒸さずに白焼にして、山椒と胡椒の粉を焼塩と混ぜたものを掛けて食べさせるのを自慢だっと言われています。)

 

 

(今の山乃尾の看板)

 

多吉は、傲岸不遜な魯山人をやわらかく懐に入れ、加賀料理や懐石料理を教えます。ここでの経験が、後の美食家としての魯山人の料理の基礎になります。いくら食と器のスパーマン魯山人であっても、その能力を引き出してくれる人がいなければ、名を残すことは出来ないことが分かります。

 

 

(山乃尾前からの眺望・手前はひがし茶屋街)

 

また、太田多吉には本妻のほか、二人の妾がいましたが、子供には縁がなく、多吉にとっては薄幸に育ち、漂泊の大観を子供のように思え、見ることも聞くことすべてに興味を持つ大観を可愛がり、その後も大観が訪ねてくる度に調理場への出入りを自由にさせます。

 

 

(宝円寺と太田多吉の墓)

(宝円寺の細野燕台の墓)

 

昭和7年(1932928日。山の尾の太田多吉翁の金沢での葬儀に北大路魯山人が参列し弔辞を述べます。以下要約する“近頃の茶人は、少しばかり茶の作法、お手前や形式を覚えると直ぐにそれを商売とする然らずんば鬼も首を捕らえたように鼻うごめかして身の粉飾をする。そうゆう振る舞いが、すでに茶人の資格を欠くものであるが、今の茶人の多くは大根が浅薄(あさはか)な了見から出来ているから大概は、苦々し手合いが多い。その点は、今度逝った金沢の太田多吉翁(山の尾)のごときは実に立派なもので「茶を身の飾りとせず、商売とせず、実に自己を安んじる宗教としていた。」と述べられたそうです。

 

(今の山乃尾のアプローチ)

 

しかし、魯山人自身は、よく知られている話ですが、嫌らしい行為も多く、美しさや快感の追求や良い物を見るために所持者の金持ちや美術商に取り入り、美味くて美しい料理を食し、また、提供するために使用人を足蹴にし、情欲を満たすために女を手篭めにするなど、太田多吉翁のような立派は師に出会いながら、人として、決して誉められることのない生き方をしたのです~が?作品と人格は別なんでしょうネ!!

 

 

(今の山乃尾)

 

(後日談ですが、太田多吉には後継者はなく「山の尾」の什器備品を売り払い、門や玄関は、燕台さんの紹介で深谷の旅館「三竹屋」に移され、昭和6年(1931)には土地屋敷を尾張町の薬問屋の石黒伝六に売って手放し、 翌昭和7年(1932)に多吉は八十才で亡くなります。山の尾の門や玄関を移築した三竹屋は大正11年(1922)、西町に創業した数寄屋亭旅館に、その後、十間町に移り湯葉懐石を主に文人墨客に愛され燕台さんも贔屓にしていた料亭で、平成元年(1989)には金沢都市美文化賞を受賞したが、平成六年に廃業しました。昭和23年(1948)、石黒伝六の土地を買った本谷氏が、太田多吉の「山の尾」にあやかって、「山乃尾」として営業しています。)

 

参考文献:北室正枝著「雅遊人―細野燕台・魯山人を世に出した文人の生涯―」ほか

金沢・観音町復活①現在は!!

$
0
0

【金沢東山1丁目】

先日、“金沢「観音町」復活へ”の記事が北国新聞の1面に踊っていました。旧観音町(東山1丁目)と言えば、私にとって17年前、金沢ボランティア大学校に行くようになり、街中研修で初めて訪れた町でした。その頃は、すでに東山1丁目でしたが、ひがし茶屋街休憩館もなく、研修では、昔、観音院の参道で、藩政期から戦後しばらくまで魚屋や味噌屋、醤油屋、酒造業や質屋等々ありとあらゆる店が軒を連ね、横に繋がるデパートのようで金沢では2番目の繁華街だったという解説がありましたが、その頃、人気の出始めの茶屋街の裏通りという位置付けで、少し寂れた街だったように記憶しています。

 

 (観音町の石標)

 

今は、当時と比べものにならないほどの人出があり新しい店も増え、お土産屋、カフェ、レストラン、お菓子屋の他に、変わったところではカレー屋で魚介類を売る店、醤油アイスクリームの店、和風ホテル、骨董屋等、今までになかったお店も出来、町歩きの観光客も多くなり、トイレ付きのひがし茶屋休憩館では、入場者も10年前の35倍に増える日もあり、昔ながら三和土(たたき)の土間の傷みも激しくこの春にはオープン以来2回目の修理に入っています。

 

 

(北国新聞記事)

(三和土工事中のひがし茶屋街休憩館)

 

金沢市内の旧町名の復活は、平成11年(199910月に、全国の自治体で初めて「主計町」が復活し、その後、旧町名が次々に復活し11の旧町名が復活しましたが、平成21年(200911月の下新町と上堤町を最後に動きが止まっていました。

 

(平成11年(1999)、山出市長時代「旧町名」に復活する運動が始まり、現在11の旧町名が復活していますが、当時の山出市長は旧町名の復活は「懐かしさよりもコミニティーの復活や」とおっしゃっていますが、金沢の文化の高さを示す試みで、ここ9年程一服していましたが、最近、すでに金石の「金石下本町」「金石通町」「金石味噌屋町」が旧町名の復活を目指ています。町名変更の実績は、主計町・平成11年、下石引町・平成12年、飛梅町・平成12年、木倉町・平成15、柿木畠・平成15年、六枚町・平成16年、並木町・平成17年、袋町・平成19年、南町・平成20年、下新町・平成21年、上堤町・平成21年)

 

 

(家の壁の東山1丁目)

(懐かしいポスト)

(昔ながらの暖簾)

 

新聞記事によると、旧町名のエリアは、1丁目が約0.8ヘクタール、2丁目が約0.5ヘクタール、3丁目が約2.4ヘクタールで、3町会でつくる「観音町をよくする会」が中心となって、平成27年(2015)頃から旧町名の復活を検討してきたそうです。

 

(現在、観音町は1丁目と2丁目が存在しませんが、昭和41年(1966)当時東山1丁目に編入されなかった0.3ヘクタールのみが「観音町3丁目」として残っています。)

 

 

(旧観音町1丁目)

(旧観音町2丁目)

 

町内会の観一町会(36世帯)は41日、観二町会は(27世帯)は325日、観三町会(33世帯)は48日にそれぞれ総会を開き、過半数の賛成により旧町名復活を目指すことを決議したとのことで、「観音町1丁目」「観音町2丁目」「観音町3丁目」の旧町名の復活を目指すことを決めたもので、早ければ2019年春にも観音町で住居表示がなされるそうです。

 

復活には、面倒なツールもあるらしく、大変だと聞きます。その流れは、金沢市によると、旧町名復活の手続きは、地区から復活の申し出を受けた後、市が復活区域の土地や建物などの現況を調査します。その後は、金沢市旧町名復活審議会に諮問し、市議会に町名変更議案を提出します。市議会での議決を経た後、市長の告示により旧町名が復活する流れになになるそうです。

 

 

(観音町のシンボルとなっているひがし茶屋街休憩館)

 

≪順調に行けば来春にも観音町12丁目と3丁目の1部が復活します!!≫

 

現在、東山1丁目に属する旧町名。観音町以外、

愛宕14番丁

(佐久間盛政が金沢城に在城の頃、現兼六坂(尻谷坂)の上にあった愛宕社を前田利長公の命で、現在の料亭「山乃尾」に所に移し、卯辰愛宕社明王院と称したことから愛宕下や茶屋町と呼ばれ、弘化3年(1846)から愛宕一番丁から三番丁となった。慶応3(1867)愛宕一番丁から三番丁が、卯辰京町・中ノ町・老松町・宮川町となり、明治5年宮川町が愛宕四番丁となった。現在東山1

 

 

森下町

(藩政初期、森下村の郷士亀田大隅の子孫が染工になって居住していたので、この名がつけられた。本町の一つ・現在東山123と森山1)

木綿町

(かつて木綿問屋が居住したことによる。地子町の一つ1・2)・八幡町(卯辰八幡宮が、慶長4年から明治6年まで宇多須神社の地にあったので、社号からこの名がついた 現在東山12

御歩町15番丁

(藩政時代、藩主を警護する歩(かち)が住んでいたので、この名がついた。はじめ観音下御歩(徒)町などと呼ばれていた 現在東山1)

木町1~4番丁

(藩政のころ、材木問屋が集まっていたので、はじめ卯辰ノ木町、かつて四筋あったことから四丁木町などと呼ばれ、のち、この名がついた。地子町の一つ・3番丁は現在東山1・他は12

豊国町

(観音山下町が改称されたもの。豊国神社社殿の麓にあったことから、明治元年、この名がついた 現在東山1)

 

(つづく)

 

参考:北国新聞 平成30年(2018)410日号・金沢市ホームページ旧町名~現在の町名一覧

 

金沢・観音町復活②昔の観音町と卯辰山王と観音院!!

$
0
0

【東山1丁目】

観音町は、明治以来昭和41年(1966)まで、観音山下より浅野川大橋詰めまでの道筋で、大橋側が観音町1丁目、道筋の真ん中より山際までが観音町2丁目、卯辰山の中腹までが観音町3丁目と言いました。昭和41年以降は1丁目、2丁目が東山1丁目になり、3丁目の一部はそのまま観音町3丁目として残りました。今は人家も少なくなり、一時は廃屋が目立っていましたが、それも今は無く、観音町3丁目の裏坂沿いに数軒が寂しく佇んでいます。

 

 

(旧観音町1丁目の町並み)

(裏坂の現在も観音町3丁目)

 

(調べると、観音院の裏坂は明治421月、金沢市は皇太子行啓記念事業として観音町から卯辰山忠魂堂に至る道路の開さく認可を申請し、4月に工事がはじまえり、向山(卯辰山)観音()725日開通式とありました。)

 

 

(観音坂・裏坂から旧観音町2丁目を望む)

 

藩政期は観音院の参道(幅約4m、長さ約400m)を観音町、観音大工町と呼ばれていました。当初は狭くて曲がりくねった道筋でしたが前田光高公の時、参詣に不便なので道を拡張し直道にしています。観音町と呼ばれるようになったのは寛永年間(16241644)の終わりか正保年間(16441648)の初め頃だといわれています。

 

 

 (観音院の住所表示)

 

元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許附に観音町・観音町古道町観音町山の下町と並ベて載っています。この観音町・観音町古道町が、旧観音町1丁目~2丁目にあたるようですが、山の下町は旧御歩町に続く、旧豊国町に属していたと思われます。此の地辺は浅野川の河縁にて、観音山の麓を観音山の下町と呼んでいたようです。

 

 

 (今の観音院)

 

≪観音院は卯辰山王社の別当≫

観音院は、開祖祐慶が卯辰山愛宕社の別当明王院2世で、隠居して観音山へ移り、観音堂と隠居所を建立し観音院と号し卯辰山山王の別当となります。宗派は高野山真言宗、山号は卯辰山(長谷山)。元々石浦山王社を勧請したもので本尊十一面観音菩薩像は行基菩薩の御作で大和国長谷観音の末木で作られたと伝えられたものですが愛宕明王院の祐慶が石浦山王から借り受けたものでした。

 

参考ブログ

金沢の”愛宕権現“

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11294577851.html

よくは知らない!

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11336374257.html

 

 

(観音院縁起)

 

天正10年(1582)に、愛宕明王院として尻谷坂(今の兼六坂)上で奉祀したものを、慶長6年(1601)に愛宕明王院を卯辰山に移し時、明王院の隣の地(今の宇多須神社の裏)に堂宇を立て移します。ところが慶長11年(1606石浦七ヶ村氏子の訴訟で、行基菩薩御作の仏像が石浦村に返還され、新しく仏像をつくります。

 

 

(観音院坂の階段)

 

慶長18年(1613前田利常公の娘亀鶴姫の宮参りの際、境内が狭いため不便が多かったので観音山の地を請い受け、元和3年(1617利常公夫人(珠姫)により、新たな堂宇が起こされ、利常公も客殿、庫裏を寄進します。これらの建物も宝暦9年(1759)の大火で焼失、後に再建されます。

 

(観音院の平面図)

 

観音院は、明治元年(1868)、神仏混交廃止令により、本尊十一面長谷観音以下、仏像、仏器は医王院に移し、別当観音院住職は復飾し、長谷大膳と改称し豊国神社の神官になり、観音院の寺号を廃止します。昭和10年(1935)には、医王院を林屋亀次郎氏と綿貫佐民氏が発起人になり観音院(名義は医王院)を再興します。昭和30年代(19551965)には、崖崩れにより、現在、墓所となっているところから、昔、愛染院のところへ観音院(医王院)を移しました。

 

 

【観音院略図)

 

(山王社は大山咋神と大国主神を祭神としますが、藩政期前田家では、藩祖前田利家公の遺命により豊臣秀吉を密かに合祀していました。明治2年(1869)、社号を豊国神社とし正式に豊臣秀吉を主神とし、旧観音院の本堂に移しますが、明治19年(1889)社殿を殿町に移し、さらに明治40年(1907)には現在の卯辰三社に遷座し現在に至ります。)

 

(つづく)

 

参考文献:参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「金沢郷土辞彙」金沢文化協会 日置謙著 昭和17年発行ほか

金沢・観音町復活③観音院の現世利益 

$
0
0

【東山1丁目】

旧暦の710日。観音院では毎年縁日が行われます。この日を“四万六千日”といい、お参りすると46,000日(126年)の功徳があるということで、昔から金沢の人々はこぞって参詣したと伝えられています。また、1升枡にお米が46,000入るから四万六千日だという説もあるそうです。また、諸病治癒に、筮竹のような百本の籤で病を占い、籤には番号が100まで付けられていて、別に備えてある処方箋の台帳ようなものと符合すると処方箋を発行するようになっていました。信者はその処方箋を持って街の薬舗で薬を処方してもらうシステムです。

 

(金沢には、八坂の永福寺でも良く似たシステムがあったと聞いたことがあります。)

 

 

(今の観音院

(諸病占い)

 

藩末に書かれた柴野美啓の「亀の尾の記」によると、四万六千日の日には「所狭しと茶屋が軒を連ね、見世物、のぞきの類までここに建ち、繁盛に驚けり」とあり、また、幕末に庶民が書いた日記「梅田日記」に記載されている丸山茶屋についても「定茶屋があり、酒肴をひさぎ、楊弓場があり、また、崖下の浅野川に向かい土器を投げた」などと書かれ、当時の寺院空間での行楽の様子が記され、縁日だけの留まらず、普段でも市民のラウンドマークとして参詣者で賑わっていたようです。

 

このエリアには、観音院、山王社のほかに、医王院、愛染院、市姫宮、そして三重の塔、能舞台、定茶屋の丸山茶屋、広場があり、地下には洞窟が掘られていたそうで、観音院の胎内めぐりだったのか、はたまた軍事用か、よく分からないそうですが、工事方法は辰巳用水と同じらしい、また、昭和15年(1940)頃、浮浪者の通称初太郎が、この洞窟をねぐらにしていて、東の廓に手伝い等をしたという伝説が残っています。

 

参考ブログ

四万六千日と“七稲地蔵尊祭礼”

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11338926008.html

“心の道“癒しのスポット②観音院

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11151914929.html

 

明治28年(18951月、日清戦争で戦死者奉る忠魂堂の建設計画が妙慶寺(浄土宗)など金沢の仏教界が中心になり展開され、観音院跡に決まり、その年の11月に祝建式が行なわれ、明治31年(1898)に慰霊式が行なわれてます。

 

 

(現在の倶利伽羅不動寺)

卯辰山の豊国神社の下に招魂社(後の出羽町石川護国神社)がありましたが、これは仏教式で創建しようとしたもので、建設募金も半官半民で、建築費の不足分は各町会で割り当てたもので、単に慰霊施設に留まらず、戦死者の遺品を保存展示していたそうで、全国に9ヶ所あったそうです。現在の浅田屋さんのところで、建物は、戦後、倶利伽羅不動寺として移築されました。

 

 

(市民の住宅)

 

(現在、浅田屋の松魚亭や六角堂のところは、しばらく空き地になっていましたが、金沢市が宅地造成に入ります。今も何軒かの立派な市民の屋敷が有りますが、市民には浅田屋さんの店舗が独占しているような印象です。)

 

参考ブログ

伝説ですか実話ですか「安政の泣き一揆」

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11282842364.html

 

参考文献:参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「金沢郷土辞彙」金沢文化協会 日置謙著 昭和17年発行ほか

 

小立野の旧上野村①~上野新村へ

$
0
0

【錦町→上野本町→小立野15丁目】

ここのところ脱線に脱線で、小立野から離れていましたが、我が地元小立野が中途半端では不本意ですから、今回より小立野に戻し山崎村の後継上野村を藩政期から戦後までを調べることにしました。

 

(明治38年の金沢市街図部分・玉川近世史料館所蔵)

 

前回までの振り返り:小立野のルーツ山崎村の村地は藩政期まで、現在の兼六園の山崎山を中心に金沢城の極楽橋あたりから小立野石引町辺りを山崎村と称し、藩政期には村地が追々町地になり経王寺が建てられる前の地へ転地するよう命じられますが、それも経王寺を建立したので、利常公の御母堂寿福院殿、毎度の参詣に道路は村家があり見苦しく、目障りになる事で、村を上野村の地へ移転し、村名も、新村では無いので上野村とします。

 

(上野八幡神社)

 

参考ブログ

小立野の古蹟は山崎山だけ!?①山崎山

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12357314874.html

 

“上野”の名は「三壷記」に、正保3年(1646)田中覚兵衛という牢人が小松殿(利常公)に言上し、寺津村の石嶋という所より用水(現寺津用水)を堀り上げ、土清水の山の腰を掘り廻し、牛坂(うっさか)の上野土清水野とを田地に開発したことから、牛坂の“上の村”ということで「上野村」という村名が起こったといわれています。

 

(金沢古蹟志によると、当初は村名も、山崎の旧民であることから新村では無いので上野村としますが、寛永7年(1630)辰巳水道(用水)の余水をもって田地を開くよう上野村、涌波新村、三口新村が仰せつかり、上野村は、延宝6年(1678)に上野新村と改称します。)

 

 

(旧上野町の現風景を彷彿させる旧金大工学部跡地)

 

山崎村の村地の残り山崎領(崖下)は、笠舞村へ合併し笠舞村より年貢が納められます。この地は昭和になり、金沢市に合併し田圃たけでしたが長谷川町と呼ばれていました。現在は金沢市笠舞2丁目になり田圃はなく民家が立ち並んでいます。

 

ところが村立の事については、改作所旧記によると、元禄7年(16942月、上野、三口、涌波3ヶ村肝煎連名の言上書に、上野新村、三口新村、涌波新村、60ヶ年以前より御水道上水の余水を使うことが許され、以来、利常公の時代に不毛の地が、今千石余の田地に成ったとあります。

 

(上野新村の「村御印」は、新京枡に改められた寛文10年(1670)に草高55156合(免四ッ五歩)、三口新町は231石(免四ッ五歩)、涌波新村は18726合(免四ッ五歩)であった。)

 

城下に近い上野新村は笠舞村、田井村と同じく、相対請地により多数の家が建ち、寛文2年(1662)には、相対請地制限令が出されますが、相対請地が止まらず、村方では裁許が出来なくなり、金沢町方に依頼して金沢町方支配となり、文政4年(18212月には、それらの相対請地の地域に対し、町名を付けたり、最寄の田地の支配を属させ、上野村領は上野町に属するようになります。

 

(相対請地:前田氏の金沢入府以降、金沢城下の拡大や寺院の建立・移転に伴い、小立野台も次第に町場化して行きます。近世を通して町地の拡大は続きます。相対請地は、農民の土地を町人に貸したもので、そこに住む人々は職業でみると日雇が半数、下級武士、大工・鍛冶・笠縫などでした。)

 

明治12年(1879)周辺に散在した相対請地は120余町が正式の町地として編入されます。以下、旧上野新村地区の町名の町々が編入されています。

松下町・小立野新町全部・上野町全部・上弓の町・土取場撞木町・土取場永町・元鶴間町・下鶴間町・上石引町)

 

 

(古墳の雰囲気を残す上野八幡神社)

 

小立野の牛坂辺りは、昔から古墳があり大きく多く有ったと伝えられています。しかもその古墳は庶民の墓ではなく、伝説によると一向一揆以前の富樫氏代々の遺墳で、富樫政親以下は、近世には釈賊と言われたためここに墳墓を築くことが許されず、政親、泰俊、晴貞の墳は野々市や伝燈寺など所々に散在しています。

 

(上野や牛坂の村地は、大昔、埋葬の地で、上代高貴の墳墓で、現在の上野八幡や旧金大工学部の地は古墳の一域で有ったそうですが追々崩し平地にし、今はわずかに上野八幡の社地の古木が残っているにすぎません。)

 

天徳院・金大工学部(旧金沢高等工業)・上野練兵場(射撃場)が見える

(大正10年の缶沢市街図部分・玉川近世史料館蔵)

 

牛坂は、かって金沢城修築の石材を戸室山から下田上の浅野川を渡り、引き上げたという坂で、今は野坂と言われている坂ですが、その坂道は、人の行き来は殆ど無く、下田上橋から小立野旧弓の町に至る旭坂の途中から小立野に旧金大工学部の南側の道路に至り、そこを進んで行くと旧小立野新町、亀坂経由で金沢城に至ります。大正時代の地図を見ると、坂を上がると4万坪と言われた旧軍の上野射撃場を横切っています。

 

 

(今の野坂)

 

参考ブログ

石引の道“野坂”

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11084631627.html

牛坂(うっさか)は・・・どっち!!

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11266746371.html

 

(つづく)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「さきうら」過去・現在・そして未来へ 高田慈久 金沢市崎浦公民館 平成14年発行

小立野の旧上野村②旧崎浦村字上野新村

$
0
0

【小立野13丁目・上野本町】

上野新村は、前回も触れましたが、藩政期、すでに一部が町方住民や武士が農地を相対で借り請ける相対請地が多くなり、その請地は貞享4年(1687の相対請地の御触等裁許は町奉行が行なうと定めます。文政4年(1821には、上野新村の相対請地は上野町として住民は町奉行の支配下に入りますが大半の農地は上野新村として、明治維新を迎えます。

 

(上野新村の田圃から眺めた山々)

 

(明治元年(186812月、明治新政府は近代的な税制の確立を迫られます。農民の土地所有を認め、明治4年(1871)には田畠勝手造りの布告、明治5年(1872)に地所の永代売買の禁止を解き、土地の売買・譲渡に際して地券が発行され、明治6年(1873)に、地租改正条例を発して地租に着手と矢継ぎ早に税制の改正が施行されます。これは明治政府の富国強兵、殖産興業の国策を推進するため、他産業も期待できない段階で、財政安定には農村からの租税に頼るしかなかったと言われています。)

 

 

(旧上野町の石標)

 

明治12年(1879)には、居住地は上野町及び小立野新町として金沢に編入され、その他の相対請地は、それぞれ松下町(横山繰蔵人家下屋敷等)・土取場撞木町・土取場永町・上弓の町(足軽組地)・元鶴間町(門前地)・上石引の一部を編入します。(詳しくはウィキペディア小立野参照)

 

(旧上野町の旧家)

 

上野新村の歴史を語る上では、忘れる事の出来ない処があります。それは辰巳用水寺津用水です。辰巳用水は、ご存知のように犀川から金沢城へ水を引くため造られたのは有名で、藩命により、高台のため水不足になるため余水が上野新村や三口新町、涌波新町の水田を潤しました。

 

参考ブログ

犀川から浅野川・・・辰巳用水①

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11727805597.html

3代藩主利常の決断・・・辰巳用水②

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11728810935.html

板屋兵四郎・・・辰巳用水③

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11731040659.html

 

(旧金大工学部前を流れる辰巳用水)

 

寺津用水は、前回も書きましたが、上野村の名「三壷記」の寺津用水の項に書かれていますが、実際の寺津用水は、辰巳用水が完成した14年後の正保31646に田中覚兵衛が上野や土清水野の灌漑のため言上しますが、その18年後、寛文41664に工事に入り翌年完成したもので、辰巳用水が“いざ”と言うときの「切り札」に備えたものと言われていますが、藩が本格的に寺津用水に取り組む6年前、土清水に水車で製造する藩の鉄砲火薬合薬所1本松より移ってきます。これも藩が寺津用水に力を入れた事とは無関係ではない様に思われます。

 

当時の土清水野は原野で、寺津用水の開削により、近村も含めて107haの耕地が生まれますが、藩はこの工事に150の支出と完成後の破損修理の費用を藩が賄ったそうです。因みの150は、2,500でこの金額は当時5,000に相当したという。因みに土清水の村御印は203石7斗5合(免3っ)と少なく免も30と周辺の他村と比べても低いことからも窺えます。

 

(寺津用水の取入口は、犀川ダムの3km下流の寺津逆調整池ダムで、明治28年(1895)金沢市が用水を利用して発電所を計画し、犀川系七ヶ用水の各用水普通水利組合管理者の猛反対に合います。翌年許可が下りますが、その後インフレのより実現が困難になり、当時、同じ事業に力を入れていた実業家森下八衛門(当時、和菓子の森八主人)に全ての権限をたくします。明治30年(1897)森下は金沢電気事業株式会社を設立。明治33年(1900)に辰巳発電所が完成し、以来、市内2000軒の家々の電灯の明かりを提供しますが、大正10年には金沢市が会社を買収し、電気局創設し、水利権も再び金沢市に帰属します、また、この寺津用水の水は現在も金沢の上水道の水源として使われ、市民の生活を潤しています。)

 

(明治38年の金沢市街図部分を加工・玉川近世史料館所蔵)

 白が金沢市、グリーンが石川郡・ブルーが河北郡

 

明治2年(1869)版籍奉還で金沢藩は金沢県にさらに明治5年(1872)金沢県が石川県になり、県庁は一時期石川郡美川町に移されていたが、再び県庁は金沢に戻ります。当時の県下の行政区分は明治322年まで数回変わります。

 

(氏神さんの上野八幡神社)

 

(当時の世情は、物情恟然(ぶつじょうきょうぜん)人々堵に安らぐが如く、旧藩士は第宅を毀ちて、市街に転住するもなあり、殊に大身の士は、邸地を售(う)り下邸を廃し、その跡大概耕田に変じ、平民もまた失職廃業し、去りて僻地に匿(かく)る者寡駆らず。従来最繁昌したる旧本町は固より論なく、旧七ヶ所及旧地子町に至るまで、多く家屋を毀ち、その跡往生にして畑地となれり・・・と武士も町人も惨憺たる状況が「稿本金沢市史」に書かれています。)

 

明治22年(18894月、石川県令23号町村制施行により、石川郡(218村)河北郡(19村)上野新村が所属する石川郡の旧石浦荘と河北郡の金浦郷が合併して崎浦村が誕生します。崎浦の村名は「この辺りは山崎山の麓にて、山崎は加賀国史上はなはだ縁故あり、またこの地方の一半は往古石浦庄と称せられ一半は金浦郷といえり、石浦のことも国史著名な地なり、故に歴史の故名を折衷して崎浦村と称す」と石川県石川郡誌に記載されています。

 

明治22年当時の崎浦村上野新町は、戸数37戸 人口220人 

 

 

(今の警察学校・この奥が旧牛首村(現錦町)

 

石川郡の石浦荘(涌波新村・栗林地方・三口新町・上野新村・山崎地方・笠舞村・大桑村)

河北郡の金浦郷(舘村24年湯涌谷村館村より編入)・土清水村・牛首村・牛坂村・田井村)

 

(上野新村の東端(現小立野1丁目)より卯辰山を望む)

(つづく)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「さきうら」過去・現在・そして未来へ 高田慈久 金沢市崎浦公民館 平成14年発行


小立野の旧上野村③野坂・牛坂・大坂

$
0
0

【旭町→小立野12丁目】

現在、小立野の県道10号線アベニュー城東(小立野1丁目9−1)の前の小路を元金沢大学工学部グランド横より小立野1丁目36に抜ける通りの先(今は坂が有るように見えない。Googleマップには記載なし)、旭坂へ続く500m程の坂を野坂(牛坂・大坂)といい、藩政初期、金沢城へ戸室山から石を運んだ坂と言われています。現存する大正10年(1921)の金沢市街図では上野射撃場を横切り田上ノ橋(今の下田上橋)に繋がる坂になっています。坂道の道幅約1,7mで、雨が降ると、すぐに雨水が流れ大川となったといいます。

 

 

(野坂の上から奥卯辰)

(野坂の隣海鼠塀の屋敷から小立野1丁目辺り)

 

 六 小立野口

 小立野口ハ、尾張町ヨリ大手町・尻垂坂通・下石引町・中石引町・上石引町・小立野新町・上野町郊端ニ達シ、刀利越往来ニ通ス、長サ十八町四十間ナリ、越中方面ニ越ス間道ニシテ、郊端ヲ経、少シ許リニシテ道路分岐ス。

 

右ハ土清水・牛首ヲ経テ銚子口ニ達シ、左ハ牛坂ヲ下リ田上橋ヲ渡リ戸室山方面ニ通シ、又浅野川ノ右岸二沿イ上田上ヲ経テ銚子口ニ至リ、右方ノ道路ト合シ、浅野川上流ノ各村邑ニ通ス。上方湯涌村ヨリ越中二通スル間道アリ。

 

此ノ牛坂方面ノ往来ハ、金沢城修築ノ石材ヲ、戸室山ヨリ切リ出シ運搬セシ道路ニシテ、石引町ノ如キ名称モ、因ッテ生セシナリ。         金澤市街温知叢誌乾坤より

 

 

 (金澤市街温知叢誌乾坤)

 

参考ブログ

石引の道“野坂”

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11084631627.html

 

 

(大正10年の金沢市街図の部分を加工・玉川近世史料館)

赤い線は野坂・茶色の元金大工学部・ブルーは天徳院

 

(野坂に至道・左は元金大工学部グランド)

 

今は3mから2m程の幅で、人がどうにか通れる道になっています。小立野台に上がる直前や田上側の旭坂車道の途中隅から上がる処も石段が付けられています。しかし、近年は徒歩の方でも旭坂を利用する人が多く、野坂を上り下りする人は殆どなく、小立野台側の隣には海鼠塀のお屋敷の塀があり、坂上は少し開けていて崖上の眺望台のように見えます。

 

(野坂の下る石段)

 

(上野射撃場の有った頃、この野坂(牛坂)の中程に橋爪という菓子屋(現在小立野1丁目)があり、兵隊さん向けに和菓子のアンマキを製造販売していたといいます。昔、そのお菓子屋の娘さんから「野坂は昔オオサカと呼ばれていた」と参考文献「さきうら」に乗っています。書かれた方の言によると「オオサカ」というのは重要な坂(戸室石を運んだ坂か?)と云う意味があるそうです。また、明治5年(18729月の皇国地誌の加賀国石川郡上野新村の道路の項「刀利踰往来」に、“村地ノ西南 金沢上野町界ヨリ 東方大坂(オオサカ)ヲ下リ牛坂村地界ニ至ル 長七町五十間 幅四間或ハ三間。とありります。)

 

(小立野1丁目の和菓子の「はしづめ」

(上野八幡神社)

 

加賀藩士脇田直賢(金如鉄)は、韓国から帰化人で1500石小将組頭や金沢町奉行にまで出世します。野坂辺を眺望が7歳まで居た漢城(ソウル)の景色の似ていることから落涙したという伝説が青地礼幹の可観小説に書かれているそうです。

「金澤古蹟志」より。

 

此の辺りは中秋弄月の最勝景なり。脇田夕庵祖父の如鉄は、高麗人の擒(とりこ)にて、朝鮮人金氏なり、然るに此の辺若松山・浅野河映帯せる勝景、故郷の風景に彷彿たりとて、思郷の涙を流せしとなり。詩歌者流此の古塚の頂に登りて月を賞す。然れども酣酒多時なれば、墳霊妖崇をなすと言い伝ふ。按ずるに、是長享以前富樫氏の遺墳なるべし。

(古墳とあるのは、現在の上野八幡神社や元金大工学部のところにあった富樫一族の古墳)

 

(元金大工学部の跡より眺める山々)

 

青地礼幹(あおちのりもと):江戸中期の加賀藩の儒者で藩士。延宝3年(1675)青地定政の子として生まれる。父は本多家の一族から青地氏の養子。加賀藩の八家本多家の初代本多政重は米沢藩家老直江兼続の養子に入った時に生まれ子の子孫で、兄斉賢(兼山)と共に、室鳩巣に師事し、前田綱紀公、吉徳公に仕え、新番頭、小姓組頭などを勤る。加賀騒動に先立って、寛保2年(1742)、家老本多政昌宛に大槻伝蔵の弾劾文を送ったことでも知られている。

 

参考ブログ

西田庭園「玉泉園」と脇田九兵衛直賢①

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11742999642.html

玉泉園を作庭した脇田九兵衛直賢②

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11744735655.html

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「さきうら」過去・現在・そして未来へ 高田慈久 金沢市崎浦公民館 平成14年発行・「金澤市街温知叢誌乾坤」氏家栄太郎著 八木田武男編 1999発行

 

小立野の旧上野村④上野射撃場と戦後の開発!!

$
0
0

【錦町・旭町→小立野12丁目】

明治10年(1877)から終戦直後(1945)まで現在の小立野12丁目の周辺に陸軍上野射撃場や大正8年(1919)開校の金沢高等工業学校(後に金沢工業専門学校・金沢大学理工学域(工学部)の前身)があるほかは、田畑が広がるのどかな農村地帯でした。旧上野射撃場跡は、終戦後は農地に、さらに昭和30年代(1955~)に区画整理が行われ、大規模な住宅地が造成されます。金沢大学理工学域の角間移転に伴い、その跡地に石川県立図書館金沢美術工芸大学の移転が決まり、現在は空き地になっています。

 

 

(旧金大工学部正門前)

 

幕末、野坂の下り口上野新村地内に、東西100間(約183m)、南北115間(約210m)に加賀藩上野弾薬所と東側傾斜地に弾薬試験場があり、明治10年(1877)上野新村(現小立野12丁目)・牛首村(現錦町)・牛坂村(現旭町)に跨る地が陸軍省所轄地になり、日本陸軍金沢第7連隊の演習場として使用され陸軍上野練兵場が造られます。

 

(大正10年金沢市街図の部分を加工・玉川近世史料館蔵)

上野射撃場は、一番山から三番山まであり、高さは約5~6mか?

 

明治31年(1898)第9師団設立後にその練兵場が上野射撃場なり、その一帯東西320間(約370m)、南北525間(約590m)、面積約42千坪(約13,8ha)と広大なものだったそうです。

 

 

(今の1丁目の小立野児童公園にある明治天皇御野立所跡)

 

(現在、小立野1丁目の上野児童公園の樹林の中に記念碑があり「明治天皇御野立所跡」と刻まれています。この地は明治11年(1878)、明治天皇が北陸巡幸で金沢を訪れ、当地で歩兵第7連隊を閲兵された記念に、51年後、昭和4年(1929)帝国在郷軍人会金沢市第三分会によって建てられたもので、当時は、今の公園の中央付近にあり、自然石を高く積み上げ、その上に石碑が建っていましたが、戦後、区画整理で公園にしたとき、積み石がゆるんで危険だったころから、積み石を1個残らず碑の周辺の配置し、碑は現在地に移築したそうです。)

 

昭和11年(193641日、三馬村・小坂村と共に崎浦村は金沢市に編入され、崎浦地区の10ヶ村がそれぞれ金沢市に編入されます。上野新村は上野本町、涌波村は涌波町、笠舞村は笠舞町、大桑村は大桑町、三口新村は三口新町、土清水村は土清水町、舘村は舘町、舘山村(舘村の出村)は舘山町、牛坂村は旭町、田井村は田井町、牛首村は錦町、山崎地方は長谷川町になり、崎浦村は消滅します。現在は崎浦公民館や金沢農協の崎浦支店など、幾つかがその名を残しています。

 

(今の金沢市農協崎浦支店)

(崎浦公民館)

 

(崎浦村が金沢に編入された当時は、まだまだ見渡す限り田圃や畠が続く、のどかな農村地帯の風情はのこしていましたが、戦後、昭和30年以降は、宅地造成や道路の建設と開発で地区の人口が段階的に増加し、名実ともに町化が進みます。)

 

(今の2丁目案内板・緑色は元上野射撃場の一部)

(右、宮本硝子建材より先が上野射撃場)

 

昭和20年(1945815日、第2次世界大戦が終結し、軍隊は解体されます。21年(1946)には、国有地として財務局が管理されます。以後、上野射撃場農耕地として払い下げられ、旧軍人により開拓団が結成され、12戸が入植し、25000坪を開拓して野菜、芋、ぶどう類を栽培します。昭和35年頃からは上野射撃場跡に新たに住宅地が開発され菫町、小立野台町、森丘町、森丘下町が生まれます。

 

(今の森丘上町町会案内板・旧町名は町会名として残っている)

 

昭和35年(1960)上野本町第一土地区画整理組合が設立され2万坪が整理され菫町が、翌36年(1961)第2土地区画整理組合が5万坪の地を整理し小立野台町が誕生します。同年第三土地区画整理組合が2万坪(元上野射撃場)の地を整理し森丘町を、同年第四土地区画整理組合により6万坪が整理されました。

 

 

(1丁目小立野児童公園横の用水)

 

しかし、昭和39年(19644月金沢市の住居表示条例により、上野本町菫町、小立野台町、森丘町、森丘下町は小立野123丁目となり、現在、上野本町は一区画だけが残っています。

 

今後は、金沢大学工学部の移転に伴い跡地に石川県立図書館金沢美術工芸大学の移転し、道路も整備されると、ますます人口が増加し、さらなに大きな町へと変貌することが想像されます。

 

 

(左旭坂上・右この手前辺りに上野射撃場の二番山が有ったらしい・・・)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「さきうら」過去・現在・そして未来へ 高田慈久 金沢市崎浦公民館 平成14年発行

 

小立野の旧町名①旧上野町、旧天徳院門前と旧小立野新町

$
0
0

【小立野34丁目・石引2丁目の一部】

旧上野町(うえのまち)は、旧上野新のところで少し触れましたが、崎浦村が昭和11年(1936)金沢市の編入に際し、崎浦村上野新を金沢市上野本町としたもので、旧上野町とは別のものです。旧上野町は、小立野台地にあって、湯涌街道に沿い、倉谷往来が分岐するという交通の要所に位置していて、初めは上野新村の村地でしたが相対請地が進み次第に町屋が出来、貞享4年(1687)には町奉行の支配下に入り、文政4年(1831)には上野町と称します。

 

 

(旧上野町の石標)

 

 明治4年(1871)の町名改正の際には宝憧寺門前(現幸町)天徳院裏門前を加え、158軒の旧上野町となり、昭和39年(1964)の住居表示の改正で小立野3丁目となります。上野町の町名の由来については、何回か書きましたが、牛坂の上の町であったからこの名がついたと言われています。この町は昭和1桁代の頃までは辰巳や湯涌からの街道にあたり、馬車利用者も多く蹄鉄を打つ鍛冶屋の店も多かったと聞きます。

 

(門敬寺)

(明治の地図には左湯涌谷道・右犀川谷道)

 

参考ブログ

お地蔵さんと善光寺坂①

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12286230457.html

お地蔵さんと善光寺坂②

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12287049217.html

 

旧天徳院門前は、小立野新町の北東にある曹洞宗天徳院の門前地で、寛文11年(1671)旧上野村と境争論を起こしています。天徳院の下馬腰掛所があったので、下馬先とも言ったらしい、明治4年(1871)天徳院門前の三ッ辻(至石引・至天徳院・至亀坂)から天徳院に掛けて南東側60軒が旧上鶴間町(現小立野4丁目の一部)になり、北西側12軒が旧上石引(現石引2丁目の一部)へ合併し、天徳院裏門前は旧上野町に合併します。

 

 

(天徳院門前)

(今の小立野新町)

 

旧小立野新町(こだつのしんまち)は、町域は石引往還の両側で藩政初期、戸室山より金沢城へ石を曳いた道です。町名は藩政期の元文5年(1740)に小立野新町に火災があったとの記録がその初見だそうですが、その以前にも小立野新町の存在を示す図、享保19年(1734)軍学者有澤武貞編の「加陽金府武士町細見図」があり、その後の延宝金沢図(167381)では地子町とあり、町名の記述はありませんが、もうその頃には「小立野新町」と呼ばれていたことがわかります。

 

(文化8年の町絵図部分加工)

小名かめ坂・小立野新町と辰巳用水の分流が見える

 

 

(上野町・小立野新町・松下町図部分を加工)

明治25年「金沢市街図」金沢玉川図書館近世史料館蔵

 

寛政年間(17891800)に金沢の町は東方44町、西方48町、南方34町、北方32町の東西南北に分割され、小立野新町は南方に属しています。時代は下り文化8年(1811)の金沢絵図名帳には小立野新町の住民一人一人の所在とその職業が明示されている資料があります。絵図には、小立野新町を「ホ」と「へ」に分け、「小立野新町」と「小名かめ坂」の文字が書いてあります。町名帳には、総戸数134軒(天徳院門前の一部を含む)の職業と屋号と名が記されています。

 

「ホ」は組合頭近江屋与右衛門62軒(町人41軒・武家21軒)「へ」は組合頭通屋与左衛門72軒(町人65軒・武家7軒)で肝煎は孫兵衛。職業は町人、日雇、大工・髪結い・おかせ・桶屋・鍛冶等職人、小間物・紺屋・炭・批・味噌・醤油・塩・油・八百屋・四十物・豆腐・笊振・煙草・魚鳥・菅笠・道具・干菓子・古手買・古金・雑穀・煮売り・紙・請酒・酒造・青草等小売、武家は割場付、御細工所付足軽・小者や重臣の家臣や小者など134軒内武家28軒が混在していました。)

 

(文化8年の金沢町名帳より・・・部分加工)

 

幕末に、上・下に分かられていたらしく、明治4年(1871)に小立野上新町と小立野下新町の一部を併せて小立野新町に、明治12年(1879)、上野新村の一部を編入し、昭和39年(19641月、一部が小立野3丁目となり、同年4月、小立野3-4丁目及び一部は石引2丁目となりました。

 

(今の下馬辺り)

(大正の下馬の図・今より石引よりにある)

(今の下馬地蔵、昔より亀坂より)

 

参考ブログ

小立野の古地図めぐり③小立野のこと

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11900610883.html

小立野の古地図めぐり④亀坂(がめさか)と御小屋坂

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11902550557.html

 

(つづく)

 

参考文献:「さきうら」過去・現在・そして未来へ 高田慈久 金沢市崎浦公民館 平成14年発行・「小立野共和会百年史」編集・執筆・編集 石田順一 共和会発行ほか

小立野の旧町名②旧松下町

$
0
0

【小立野3丁目の一部】

旧松下町(まつしたまち)は、藩政期武家地で人持組横山蔵人の幾つかある下屋敷(家中町・かっちゅうまちの一つで、町奉行の管轄外だったため町名がなく、藩政期は付近の人々からは「横山蔵人家中」と呼ばれていたようです。明治2年(1869)、に松下町と町名が付けられます。町名の由来は、何でも横山蔵人家中の周りは松の木が植えられていて、松の木の下の町から松下町と呼ばれるようになったと言われています。

 

(横山蔵人家は、初代正房が寛永10年(1633)加賀藩八家横山長治の四男として生まれます。藩主前田綱紀公に家老として仕え、知行1万石を領した。万治2年(1659年)中小将御番頭、寛文3年(1663)中小将頭、延宝2年(1674年)若年寄を歴任し、貞享3年(1686)家老となりました。)

 

 

(旧松下町から突き当たり小立野新町)

 

延宝年間(16731681)の金沢図には、「御唐犬引拾6人」とあり、隣接地は百姓地(約600坪)です。敷地は石引往還に面してかめ坂より56間(約100㎡)先に、唐犬引16人の拝領地と描かれています。

 

(土地は、間口62間(112,727m)、奥行き83尺(15,454m)で面積は527坪になり16人で割れば1人約33坪、同時期に近くの御小屋坂下に唐犬引35人と飼料所(6間×19間)の拝領地があり、いずれも30坪前後で、当時の小者の拝領地に相当し、御犬引は武士ではなく御小者と同等の位であったことが推測できます。因みに足軽屋敷の敷地は50坪~75坪(足軽小頭)で士分。御小者は士分ではなかったようです。)

 

(延宝の金沢図・旧松下町が、御唐犬引拾六人と有ります。)

 

藩政期、加賀藩では鷹狩りが歴代藩主により160回も行われたらしく、慶長11年(16067月には小立野、泉野、袋畠を「御鷹場」として設定されていたそうです。以後3代利常公が卯辰山で鷹狩りを行なったと伝えられています。主な行き先は越中の砺波野や加賀では大豆田、七ツ屋、粟崎などが上げられますが、11代藩主治脩公が小立野亀坂で放鷹したという記録が「政隣記」に書かれています。

 

(政隣記:加賀藩の上級武士津田政隣(まさちか)(17551814)は、11代藩主治脩公や12代斉広公の時代に、町奉行や馬廻組、宗門奉行などを務めた人で、政隣が加賀藩の政治、経済、文化の重要事を詳細に記録したもので「政隣記(せいりんき)」と言われている古文書です。)

 

 

(現在の天徳院と旧松下町の境の辰巳用水)

 

藩政後期や幕末の金沢図には、延宝金沢図に「御唐犬引拾6人」と描かれていたところと天徳院の際の辰巳用水までを「蔵人同心組」「横山蔵人の下ヤシキ」と書かれたものもあります。横山蔵人家は、加賀八家の一つ横山家の支家で禄高1万石で家老も務めた加賀藩の重臣で上屋敷は田町(今の暁町辺り)にあり、幕末の下屋敷は、かめ坂だけでなく上屋敷の浅野川寄りや小立野の経王寺裏にありりました。

 

 

(今の旧松下町・大含寺前)

 

横山蔵人家中屋敷地に、明治12年(1879)、上野新村の一部を編入し、昭和39年(19644月、小立野3丁目の一部となり、旧町域は現在の小立野3丁目131418街区辺りを言います。

 

(町会名「共和会」は、旧小立野新町と旧松下町との合同の町会名で、昭和39年(1964)以降の住居表示では小立野3丁目と石引2丁目の一部です。 因みに「共和会」という町会名は、大正4年(1915)で小立野の各町のうちで、上石引町の石引大四会とともに町会の成立は古く、昭和の9年頃の結成だそうです。)

 

参考ブログ

上野八幡神社の秋祭り

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11925106763.html

 

PS

大正時代の住民の回顧録に、松下町を流れる辰巳用水や当時移動した天徳院の隅っこ有った塚や地蔵尊の話が出ていますので紹介します。

 

 

(左天徳院の敷地・右松下町)

 

辰巳用水:上野町や松下町を経て天徳院の山門の横を流れいた辰巳用水は、水がきれいで、近所の人々は朝起きてまずこの川で歯を磨き顔を洗い、夏には子ども達は、辰巳用水に入り“あべ(泳ぐ)”たとも書かれています。

 

(大正の天徳院と旧松下町、旧小立野新町・お墓の間に地蔵尊・青は辰巳用水)

 

天徳院の出世地蔵伝説:辰巳用水に沿って松下町角に曲がるところに塚が2つあり地蔵尊があった。住宅地になった為に、天徳院総門近くに移され“出世地蔵”と名がつけらたが、悪童達は”立ち退き地蔵“と言っていたそうです。

 

(天徳院山門)

 

(天徳院総門のところの出世地蔵尊)

 

(総門跡脇の地蔵堂は、加賀騒動の真如院の子、勢之佐(利和)と八十五郎の供養ため建てられたもので、墓とともに天徳院の辰巳用水の内の藩政期は雑木林の中に、明治になり田んぼの中にあり、近くの松下町から良く見えたらしく、大正時代に住宅地になり、総門近くに移され、「墓」は野田山に移されたので地蔵堂だけが総門脇に残りました。松下町から総門内に出世したので出世地蔵と言われるようになったといわれています。)

 

(天徳院(大正時代)・右の上、赤いところが昔のお墓と地蔵尊)

 

参考文献:「さきうら」過去・現在・そして未来へ 高田慈久 金沢市崎浦公民館 平成14年発行・「小立野共和会百年史」編集・執筆・編集 石田順一 共和会発行ほか

小立野の旧町名③上・中・下弓ノ町

$
0
0

【小立野5丁目】

昭和39年(196441日に、旧上・中・下弓ノ町が小立野5丁目に町名が変更になりました、上・中・下弓ノ町は、金沢市公式ホームページの旧町名欄に「天和の頃(16811683)から足軽弓組の組地で、如来寺組、経王寺組と射場があり、通称小立野弓ノ町と呼ばれ、明治5年(1872)、如来寺組は上弓ノ町、経王寺組は中弓ノ町に、また、横山同心組の組地は下弓ノ町となった」とあります。

 

 

(金沢商業高校前・旧上弓ノ町)

 

(かって金沢の旧市内に「弓ノ町」と名の付く町が幾つかありました。それらは藩政期、持弓足軽の組地だったところで、今回紹介する小立野弓ノ町と呼ばれた町の他に、安江町辺りにあった弓ノ町(枡形弓ノ町)や現在でも分かる地域の名が付いた長田弓ノ町、三社弓ノ町、六斗林弓ノ町があります。)

 

 

(明治3年の地図に藩政期の小立野の寺と下屋敷と組屋敷を記述)

 

(上弓ノ町)

(旧中弓ノ町)

(旧下弓ノ町・美大裏より)

 

「金澤古蹟志」の“上・中・下弓ノ町”

此の地は、旧藩中は持弓足軽の組屋敷也。万治二年(1659)十一月の定書に興力侍並足軽御弓乃者被下屋敷、寄親・組頭へ打渡、頭より共組中へ致割符可相渡。とあり。但し此なる弓組の屋敷地は,万治より遥か後なり。天和元年(1681)十二月八日奥村兵部より半田権之佐・小泉勘十郎両名宛の書翰に、各組足軽居屋敷並射場、小立野経王寺後にて、願之趣入御覧候処、願之通可仕旨被仰出。とあり。右半田・小泉両士即ち持弓頭也。此の組地は鶴間谷の高辺也。従前は経王寺の方なる組地を経王寺組と呼び、如来寺の方などは如来寺組と呼べり。さて廃藩後は如来寺組の一町を上弓ノ町とし、終王寺組の一町をば中弓ノ町とし、又其の次なる横山同心組の組地をば下弓ノ町と称する事となりたり。

 

 

(今の如来寺)

(今の経王寺)

 

「金澤古蹟志」の“持弓軽卒の来歴”

藩国官職通考に云ふ。持弓頭・持筒頭七人一組興力三人、足軽四十二人、内小頭六人、横目六入・手替六人。但し弓三組・筒四組也。延宝八年(1680)十月甘九日始めて頭三人を命ぜらる。弓頭小泉勘十郎・半田権佐・筒頭は加籐十左衛門也。一組与力三人。弓組は三十張、筒組は鉄砲三十挺預けらる。故に足軽三十人、外手替六人、内三人は頭へ下され、軍装の時は組へ出す。小頭六人、都合人数一組四十二人、宛行米高千百十俵也。頭への役料は百五十石、是は最初より被下と見ゆ。右足軽の宛行高等凡て大組の通りにてありしゆゑ。俗に中組と称す。按ずるに、大組中組合せて十組也。諸格一致の振合也。因って称号大組・中組は優劣ありていふに非ず。人高の多少を以ての唱へなるべしと。平次按ずるに、持筒足軽といふは、既に瑞龍公(利長公)時二組あるよし可観小説に見ゆ。

 

(可観小説:加賀藩五代藩主前田綱紀公に仕えた儒学者青地礼幹の説話集です。)

 

 

(旧元鶴間町金沢刑務所・現金美大正門前)

 

「金沢古蹟志」の横山与力同心屋敷

此の地は、今下弓ノ町と呼べり。旧藩中は藩士横山蔵人の与力同心の邸地にて、同心屋敷と称す。改作所旧記に、寛文四年(1664)閏五月廿八日上野村之内横山志摩殿え長四十二間五尺幅廿二間相対下しに成。地子銀二分五厘歩也。今之同心屋敷。と見え、又元禄七年(1694)横山志摩殿与力並同心屋敷二千五百六十二歩(2,562坪)、上野村領之内戌八月廿日打渡す。とあり。

 

(明治12年「金沢区市街図」に、経王寺より中弓ノ町に行く筋を「元つるま丁」後ろに「下つるま丁」と記されています)

 

 

「金沢古蹟志」の与力同心来由

吉岡氏の撮要須知に云ふ。甲陽軍鑑末書にて考ふるに、武田家にては与力と云ふ、又同心と云ふ。一人二役の如し。与力同心と連続して書く事は、源平盛衰記に既に見えたり。古き唱えなりしことを知るべし。わが藩にては金沢町同心というのは、士の役名也。足軽に列にては、御台所同心、定番付同心、さて横山同心、多賀同心といへり。其の意は一つにて、事は分ち有りと知るべしといへり。案ずるの横山同心・多賀同心は、旧藩五世綱紀卿の時、横山筑後・多賀信濃両人被取立時、初めて与力力士と同じく付属せされたり。

 

(与力同心は、どれだけの禄高だったのか不明)

 

(上弓ノ町・五木寛之氏の東山アパート)

(左鶴間坂9

(鶴間坂)

(鶴間坂の石標)

 

≪小立野弓ノ町の周辺の街≫

上鶴間町(現小立野3・4丁目の一部):藩政期には天徳院門前(下馬)と呼んだところでしたが、明治2年(1869)の町名変更で天徳院門前三っ辻寺の方の60軒及び天徳院・如来寺が上鶴間町と命名されます。(小立野34丁目には S39.4.1

 

 

(旧上鶴間町)

 

下鶴間町(現石引1丁目・宝町の一部):鶴間町の名称の由来は町の東方のごく近くに鶴舞谷、今の鶴間坂と呼ばれる坂があり、その名称から鶴間町と名付けられたそうです。かっては、経王寺跡(金大医学部)の一部と藩政期の経王寺門前・経王寺横町を明治2年(1869)に下鶴間町と命名されます。(石引1丁目宝町にはS39.4.1。)

 

 

(旧下鶴間町(経王寺門前)

 

(昭和39年4月までの周辺地図・黄色が上・中・下弓ノ町)

 

元鶴間町(現小立野5丁目):明治12年(1879)の金沢区市街地図では、経王寺門前より中弓ノ町に至る道路筋に「元つるま丁」の地名がみえます。明治40年(1907)に金澤監獄が中・下弓ノ町へ移転された際、元鶴間町に変更したのではないかと推測できます。

 

 

(元鶴間町・金沢刑務所職員官舎跡・金沢美大構内)

 

(旧元鶴間町・旧刑務所所長官舎跡・現金沢美大構内)

 

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「金沢郷土辞彙」金沢文化協会 日置謙著 昭和17年発行・「さきうら」過去・現在・そして未来へ 高田慈久 金沢市崎浦公民館 

Viewing all 876 articles
Browse latest View live