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キリシタンと金沢③高山右近

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【市内あちこち】
前田利家公が「武勇のほか茶道、連歌、俳諧にも達せし人である」といったという高山右近評!!何百年も伏せられ、途絶えてしまったと思われた右近の足跡を単に読み物としてではなく、史実として、木越邦子さんは丹念にお調べになり「キリシタンの記憶」にお書きになっています。


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(キリシタンの記憶)


≪右近と茶道≫

高山右近は利休七哲の一人で「利休極上一の弟子也」とされ、今も茶道が盛んな金沢にあって、藩政初期、高山右近が加賀藩の茶道に与えた影響は大きなものであったに違いないと思われます。



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(金沢の茶室)


≪右近と歌≫

片岡家文書に、しき紙二枚を写しとったものである。以下は高山右近の歌二首

一 高山南坊筆

おろか成り おひのなみたの寄気れは

夕日のかけの大和なてそこ(印)



草かれのまかきののこるなでしこを

わかれし秋のかたみともみよ

   金二而一巴ニ唐竹の模様



高山右近の姪が嫁いだ片岡休庵は、利家公が越前府中以来、前田家一門と親交があり兄弟2家の兄の家系で、後に利家公に従い金沢に出て町人となり越前屋と称した家柄町人でした。秀吉公が金沢城滞留中には、前田家の御茶堂役も務めた家といわれています。越前屋と高山右近との深い親交が書かれている由緒帳も残され、今も金沢の某家には右近直筆書簡も伝わっているといいます。


(休庵の子休嘉の妻は、右近の斡旋で加賀藩に迎えられ4000石で仕えた丹波八木の城主だったキリシタン大名内藤如庵の女であったと伝えられています。)




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(市内のかって右近の屋敷跡にある、キリシタン燈籠の写しと蹲)


≪右近と能樂≫

高山南坊の総領十字郎は天下の美少年也。毎日能を致され諸人見物いたしけり。其頃はやり歌に、“能を見よなら高山なんぼう おもてかけずの十字郎を。かやうに童どもうたいけり”というのがあり、高山父子がいかに能の優れていたかが窺えます。(加賀藩史料より)



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(能楽堂の杜若の像)


≪右近と加賀料理≫

金沢を代表する料理に“冶部煮”があります。昔は鶫(つぐみ)や獣肉、今は鴨、鳥等の肉に小麦粉をまぶし“とろみ”を付け、金沢独特の“すだれ麩”などと煮込んだもので、今も金沢の郷土料理として食されていますが、料理法が従来の日本料理とは違うことから、キリシタン文化(南蛮文化)が伝えたものといわれ、高山右近が考案したものではという言い伝えもあります。



(他、南蛮に由来する金平糖や干菓子も高山右近が祖ではという説もあるらしい。)



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(冶部煮)


(つづく)



参考文献:「高山右近」加賀乙彦著、講談社 1999年・「キリシタンの記憶」木越邦子著、桂書房2006年、他



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