卯辰山⑨浦上村キリシタン(その1)
【卯辰山湯座屋跡・織座跡・卯辰山養生所跡】 平成10年(1998)10月15日。国道159線卯辰山トンネルの工事現場から身元不明の人骨が発見されました。年代については、江戸末期から明治期にかけてのものだろうということで調査に入ると、明治2年(1870)から金沢に送られ明治6年(1874)に長崎に帰る浦上村キリシタンの死亡者103名の1部である可能性が極めて高いという事が分かりまいた。...
View Article卯辰山⑩浦上村キリシタン(その2)
【卯辰山織屋跡・湯座屋跡】 キリシタン信徒は生きて再び浦上に帰るなどとは思いもよらなかったらしく、どこかへ連れ出されて殺されると信じていたようです。着の身着のまま12月4日に船と大雪の中の陸行で金沢に到着。第一弾の戸主を中心とした114人の男子は、その頃、廃屋になっていた卯辰山の織屋跡に収容されます。...
View Articleキリシタンと金沢①高山右近
【小将町から市内あちこち】 先月、金沢で藩政初期前田家の客将として26年間(36歳~62歳)、金沢で過ごしたキリシタン大名高山右近の足跡を伝えるギャラリーが開設されました。牧師で観光ボランティアガイド「まいどさん」も務める奈良献児氏が、平成27年(2015)高山右近没後400年を前に、右近が金沢に来て初めに教会を設けた兼六園下の近く、小将町の町家を改修して開設なさいました。...
View Articleキリシタンと金沢②高山右近
【市内あちこち】 前田利家公は、秀吉公の態度が軟化したことをみはからって、右近について「武勇のほか茶道、連歌、俳諧にも達せし人である」といつてとりなし、京都の伏見で右近に「金沢へ来るがよい、3万石ほど提供しよう」と招きます。右近は「禄は少なくてよい、南蛮寺一ヶ寺でも建ててくださるならまいろう」と・・・、天正16年(1588)右近は金沢に下りました。 (金沢カトリック教会の高山右近の解説)...
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View Articleキリシタンと金沢③高山右近
【市内あちこち】 前田利家公が「武勇のほか茶道、連歌、俳諧にも達せし人である」といったという高山右近評!!何百年も伏せられ、途絶えてしまったと思われた右近の足跡を単に読み物としてではなく、史実として、木越邦子さんは丹念にお調べになり「キリシタンの記憶」にお書きになっています。 (キリシタンの記憶) ≪右近と茶道≫...
View Articleキリシタンと金沢④高山右近
【市内あちこち】 天正16年(1588)頃、加賀藩お預りの形で金沢の下った高山右近が最初に住んだのは現在の金沢21世紀美術館の敷地内であったと伝えられています。しかし、利家公の金沢への誘いに対し右近は「禄は少なくてよい、南蛮寺一ヶ寺でも・・・」は、利家公の存命中に実現されたかどうかは定かではありません。...
View Articleキリシタンと金沢⑤高山右近
【金沢・長崎・マニラ】 高山右近の年譜などによると慶長18年(1613)12月、徳川家康が「伴天連追放文」を示し、翌年正月幕府は加賀藩に宣教師の国外追放の命じます。引き続き家康から利長公に高山右近、内藤如庵とその一族を京都所司代板倉勝重に引き渡すよう厳命が届けられます。 (金沢城石川門)...
View Article金沢二十五天神巡り(第3回)
【此花町(旧鍛治町)→瓢箪町→浅野本町→山上町】 7月25日。金沢二十五天神巡りの3回目は安江八幡宮スタートで30数名が参加しました。今回も雨が心配されましたが、またまた嘘のような上天気に恵まれました。とは言え、夏真っ最中、約8千歩の道のり暑さに悩まされた2時間、汗を拭き拭き歩きました。 (安江八幡宮に集合) 15 安江社の八幡摂社(安江八幡宮) 現在地 金沢市此花町11-27...
View Article加賀藩の文化政策
【金沢城下】 加賀藩の文化について“触り”を数分話すことになり、にわか勉強をしました。調べているとついつい深入りしてしまい、余分な事まで書いてしまいました。その話の持って行き場がなくて、分ったような分らない話ですが、ここに書くことにします。 (金沢城)...
View Article利常公の奇行!!加賀文化創出のお殿様
【城下町金沢】 徳川家康公は、大阪夏の陣の後、「加賀殿は名将である」「23歳で見事な采配をしたらしい」という噂に、利常公を警戒したといいます。そして秀忠公に「利常だけは生かしておいてはならぬ」と意見をしますが、人柄のいい秀忠公は顔をしかめて同意せず、娘婿の利常公をかばったと伝えられています。 (海鼠塀のうしろが金沢城本丸跡)...
View Article利常公の孫“綱紀公と文化政策”御細工所①
【金沢城下】 5代藩主綱紀公は、3歳で父光高公が急逝したため、その年に家督を相続し祖父利常公が後見にあたることになりました。しかし、祖父は聡明な孫に「わしに学ぶな」「わしの真似は無理だ、百万石をつぶしかねぬ」と言ったといわれています。 〈金沢城菱櫓)...
View Article“綱紀公と文化政策“御細工所②
【金沢城下】 細工者は、お目見得以下の御歩並ですが、藩主に御目見得できるエリート集団でした。というのも藩主自身が好みや考え方を直接細工者に申し渡す場合もあり、綱紀公の頃は、二ノ丸御殿に近い新丸にありました。宝暦の大火(1759)以後、城外に転出し今の中央公園の東側一帯にあったといいます。 (河北門前の新丸(芝生の辺り)に初めの御細工所がありました) (宝暦の大火前の河北門櫓図)...
View Article一寸知りたくなった前田綱紀公・・・。
【金沢城下】 文武に優れていたといわれている綱紀公は、並みの学というのではなく、確かな根拠をふまえた学識で、好学の将軍綱吉公を感嘆させる学識は、本格的なもので綱吉公の“学”の理解に耐え、特別に厚遇されたといいます。 (河北門より菱櫓)...
View Article前田綱紀公の82年間
【金沢城下】 父、4代藩主光高公が急死により正保4年(1648)綱紀公は、祖父利常公の後見で3歳の時、将軍家光公の命で父の遺領を継ぎます。襲封した綱紀公は、それから実に在職79年。享保8年(1720)81歳で将軍吉宗公に退老を願い出て、翌9年(1721)江戸本郷邸で死去し、柩は金沢に移され野田山に葬られました。ときに82歳、法号は松雲院徳翁一斎居士といいます。 (金沢城河北門)...
View Article「二十億光年の孤独」って
【武蔵ヶ辻・金沢アートグミ】 「二十億光年の孤独」と銘打った展覧会が、武蔵ヶ辻のNPO法人「金沢アートグミ」で、9月8日まで開催されています。何とも掴みどころのない宇宙を思わせる不可思議なネイミングですが、工芸と現代アートの展覧会です。頭が固いのかネイミングと展覧会の内容が繋がってきませんが、先日、何の予備知識もなくブッツケ本番で見に行きました。 (二十億光年の孤独展と山本基)...
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