【市内あちこち】
前田利家公は、秀吉公の態度が軟化したことをみはからって、右近について「武勇のほか茶道、連歌、俳諧にも達せし人である」といつてとりなし、京都の伏見で右近に「金沢へ来るがよい、3万石ほど提供しよう」と招きます。右近は「禄は少なくてよい、南蛮寺一ヶ寺でも建ててくださるならまいろう」と・・・、天正16年(1588)右近は金沢に下りました。
前田家お預かりとなった高山右近は、金沢に移り住み、天正18年(1590)には、小田原攻めに前田家に属し十字の幡指物を立て勇猛に戦ったと伝えられています。さらに10年後の慶長5年(1600)の関が原の前哨戦、大聖寺攻めでは、軍奉行を命ぜられます。
(加賀藩でも右近ほど実戦経験豊富な指揮官はいなく、利家公亡き後の動乱では、前田家における右近の立場を一層強固なものとなり、慶長11年(1606)の前田家・家老連署奉書には、右近の名は筆頭にあり、利長公の絶大な信頼を得ていたものと思われます。)
一方築城家としての右近は、金沢城改修に才能を発揮します。天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いの後、秀吉公から加増を受けた前田利家公が4月28日(新暦6月14日)に入城し、尾山城と改称します。 その後、高山右近が金沢に入る頃には尾山城の大改造を行われたといわれ、その頃、城は再び金沢城に改称されたといいます。
(金沢城の歴史を溯ると、天正8年(1580)佐久間盛政により一向一揆の金沢御堂が攻め落とされ、そこがそのまま金沢城と改称されています。)
(金沢城の黒い鉄板張りの隅柱)
今も残る金沢城の特徴は、慶長期の右近によるものか、その独特の意匠“漆喰にナマコ塀”“隅柱の黒い鉄板張り“は、垂直線が特徴の西洋風で、特に、城郭の柱は防火上、壁に塗りこむのが普通ですが、国内では類例のない柱を外に出した黒い鉄板張りの意匠は、白壁を引き締め、優美さの中に力強さがうかがえます。
金沢城は、さらに文禄元年(1592)2代藩主前田利長公により再び改造が行われます。郭や堀が拡張され、慶長4年(1599)には、いわゆる慶長の危機に際し、右近によって、新丸の増設、尾坂口を大手に、石川口を絡め手と改め、さらの27日間という短期間に東西の内惣構3kmの空堀が築かれます。
慶長10年(1605)には、2代利長公は隠居し、翌年富山城に移りますが、慶長14年(1609)に火災の会い、当時の関野の地に城を建てることになり、縄張りを右近が命じたといわれています。この高岡城は利長公が隠居城として使われたのは短期間で、慶長19年(1614)利長公は死去し、その翌年、一国一城令により、大坂夏の陣から利常公凱旋を待って廃城となっています。
以上、右近の武将、築城家としての足跡を辿ってまいりましたが、右近の金沢に残した足跡は、キリシタンであり「利休の七哲」と呼ばれ文化人として、精神的あるいは文化的側面にも大きな足跡を残しています。
次回は、その辺りを・・・。
(つづく)
参考文献:「高山右近」加賀乙彦著、講談社 1999年・「キリシタンの記憶」木越邦子著、桂書房2006年、他