【此花町(旧鍛治町)→瓢箪町→浅野本町→山上町】
7月25日。金沢二十五天神巡りの3回目は安江八幡宮スタートで30数名が参加しました。今回も雨が心配されましたが、またまた嘘のような上天気に恵まれました。とは言え、夏真っ最中、約8千歩の道のり暑さに悩まされた2時間、汗を拭き拭き歩きました。
(安江八幡宮に集合)
15 安江社の八幡摂社(安江八幡宮)
現在地 金沢市此花町11-27
天慶2年(939)河内国誉田(ほんだ)より勧請。安元2年(1176)富樫の外戚安江二郎盛高の再興と伝えられています。味知・住吉の両社を兼帯。藩政期、社家が奉仕した金沢五社の一つで、鍛冶八幡とも云われていて、稲荷・日本武尊石・むすびの社を有し、ほかに郷土玩具「加賀八幡起き上がり」は、この神社に奉納されたのが起こりで、「発祥の宮」を名乗っています。主祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと・応神天皇)、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)。合祀:安産の神様 金沢水天宮。文献上も伝承上も、天神と関係はほとんど留めていないらしい。
16 崇禅寺 普門品尊像 (曹洞宗)
現在地 金沢市瓢箪町5-49
菅原山(かんげんざん)と号し、曹洞宗に属していますが、現在では、ほとんど見られない神仏一体の寺院です。開祖は、南北朝の貞和年間(1345~9)、大乗寺3世明峰素哲禅師で、2代朴也和尚のあと長く廃絶していましたが、慶安元年(1648)、能登永光寺住職久外呑了和尚が自分の隠居所に当てるため、藩に願い出て、心蓮社跡の現在地をもらい再興しました。
久外呑了和尚は、3代藩主前田利常公のご落胤といわれ、正月やお盆には、金沢城に登城できる身分だったそうで、天神画像は藩主から贈られたという言い伝えがあります。この画像と観音様の木像が祀られていて、後に新政府による明治元年(1868)の神仏分離令に際して、「菅公を祀るにあらず、菅原道真は観音である。」と申し立て撤去をまぬがれ神殿を仏殿にした。と伝えられています。
その御神体は、藩主から贈られたといわれる天神画像の掛け軸で、その座像の上に、きわめて小さい字で2077文字の観音経が記されていて、一見、数字の一に見えるので、「一文字天満宮」と呼ばれています。近いうちの御開帳があるそうです。
安政泣き一揆のころ、卯辰山の侠客で京三度の綿津屋政右衛門等が寄進した「臥牛像」は、頭をなでると頭がよくなると言う言い伝えがあります。
天満宮の内部には、大型の天神縁起絵巻の額が2枚掲げられていて、全国でも珍しいもので、「オテラート」のときに“絵解き”を計画しているそうです。
(天神縁起絵巻の部分)
○小野太三郎翁之碑前庭に大きな石碑があります。明治34年、太三郎61歳のときに、大変親しい間柄の崇禅寺三香味思閑師の撰により建立したものです。
17浅野社 二十一社別殿 (浅野神社)
現在地金沢市浅野本町1-6-1
社伝によれば長徳3年(997)現在の地に、ご鎮座されて以来、生産の神・病気平癒・更に雨乞いの神として、たいそう賑わったが、永正年間(1504~1520)までの一向一揆により社殿は焼失し荒廃をきわめていたのを享禄2年(1529年)に再興され、春の例祭日には神輿やシシ舞いが出て賑い、更に秋季祭には流鏑馬が行われたとあります。
(浅野神社)
≪みち草≫
今回は、観光ガイドでも個人的にもあまり通ったことのない、金沢近郊の、小橋用水の水車や豪農の屋敷、旧町名の標識などをコースに組み込み歩きました。
(水車)
(旧家屋敷)
18神明社 春日別殿(小坂神社)
現在地 金沢市山の上町40-1
小坂神社(こさかじんじゃ)は、養老元年(717)の創建。春日大社の荘園だった土地で、一時衰退するが、寛永13年(1636)神主高井三喜が利常公に取り立てられ、現在地に300坪を拝領し正月5月9月の祈祷を仰せつかったといいます。この神社も春日大社の末社にあたり「春日さん」として親しまれています。金沢五社の1つで、富士大権現、医祖神堂、白玉大明神を祀り、末社に天神さんがあり、画像があります。
≪付けたり≫
① 菅原道真公のご先祖は、現在の藤井寺道明寺辺りの土師氏だといいます。土師氏の祖は相撲で知られる出雲の国の能見宿禰(のみのすくね)で、大和の当麻村の当麻蹶速(とうまのけはや)というものと天皇の命で相撲を取り、能見宿禰が勝ち当麻蹶速を殺す。その結果、天皇より当麻村の土地が与えられ天皇に仕えたという。能見とは「鑿(ノミ)」に関連したと見られ、石材に関わったという推測があります。この伝承は石材を供給する二上山の支配権が「当麻」から「能見」に移ったということを示唆しているといわれています。
② 道明寺周辺は、菅原道真公の先祖である土師氏の根拠地で、道明寺は氏寺で土師寺(はじ)として建立され、今の道明寺天満宮の地にあたりました。当時は七堂伽藍や五重の塔のある大規模なものだったと伝えられていますが、延喜元年(901)道真公が大宰府に左遷されたとき、道明寺の伯母の覚寿尼を訪れた話は有名で、道明寺というのも道真公の死後、道真公の号「道明」が由来とするといわれています。
③ 天満宮については、明治4年北野天満宮など、天満宮という名乗りを「神社」と改めさせられました。「宮」と名乗るのは、祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためで、「宮」に復活したのは、戦後の神道国家管理を脱してからです。
(つづく)
次回の天神巡りは8月26日予定