【金沢城下】
加賀藩の文化について“触り”を数分話すことになり、にわか勉強をしました。調べているとついつい深入りしてしまい、余分な事まで書いてしまいました。その話の持って行き場がなくて、分ったような分らない話ですが、ここに書くことにします。
藩政期、何処の地方でも、京や江戸の文化が為政者や権力者によって地方にもたされました。前田家も加賀、能登、越中を治めるようになり、武具や城郭の建築、それに付随する装飾を造る芸術家や工人が金沢に招かれ、その技術がこの土地に定着しました。
やがて、3代利常公や5代綱紀公の時代になると、それが幕府へのカムフラージュのため武器から工芸品を造るようになり、藩は文化政策を奨励するにいたり、制作される作品や製品は前田家の自家用の調度や贈答品になったといいます。
また、一流の芸術家や工人からもたらされた技術を根気よさと真面目で忍耐強い、この土地の人々が身に付け、地方で作られるものとしては、きわめて精巧で芸術性と独自性をもつ工芸として定着し、現在の工芸王国と言われる基礎になったともいわれています。
茶道奉行に招かれた千宗室に伴われ金沢に滞在し後に移住した茶陶の大樋家や釜師の宮崎家は今も金沢にあって金沢工芸界を牽引しています。その他、滞在して工芸技術を伝えた中には、金工、漆芸、あかね染、友禅染、陶磁器など、芸術家や工人が招聘され滞在し、やがて移住して技術や理念が金沢の人々に伝えることになります。
金沢の文化は、土着の民衆の知恵が造ったものとは一線を画したもので、工芸にいたっては、民芸運動を起こした思想家柳宗悦が「貴族的工芸」と言っていますが、単なる“もの”ではなく芸術性や独自性が内在する“上もの”の工芸品が今に伝わっています。
3代利常公は、鼻毛を伸ばして“虚け者”を装い幕府を欺いたという逸話が残るほどの知恵者だといわれていますが、鮮やかに武器を工芸品にシフトするという柔軟な頭脳の持ち主で、当時、旧豊臣系大名を中心に大名廃絶政策から福島家や加藤家が改易されたにも関わらず一番大きな大名前田家は、明治まで14代、286年間大大名を全うします。
少し言葉足らずでもありますが、一般論としては、大体こんなことなのでしょうが、書きながら思い出したのが、4年前、小説家の童門冬二氏のお話でした。氏の「金沢は武家文化都市」という講演だったと思います。堺や大阪、江戸は商業資本により文化都市で、金沢はそれに比べると唯一“武家文化都市”であるというお話でした。
その武家文化都市というのは、千利休の人間対人間の茶道文化に裏打ちされた利休の自信に信長公が気づき“文化を経済政策に取り入れ価値の転換を図る”信長の政策を目の当たりに見てきた前田利家公が信長の意志ともいえる”カルチャーを立国の精神に“を自ら実行したという話しだったと思います。
(報酬を土地から茶器に・・・等々。)
童門氏は、加賀の文化政策は、信長公の文化を経済政策の取り込んだもので、利家公の「挫折」「屈折」「傷み」から得た、心の持ち方から信長の思想を体得したのではないだろうかと、結んでいらっしゃいました。
今回、忘れていた昔のメモから、金沢は、利家公から利常公、綱紀公さらに明治まで「文化によって国を立てる」という信長公と初代利家公のポリシーが連綿と続いけられてきたことに改めて気づかされました。
参考:平成21年小説家童門冬二氏の講演など