【城下町金沢】
徳川家康公は、大阪夏の陣の後、「加賀殿は名将である」「23歳で見事な采配をしたらしい」という噂に、利常公を警戒したといいます。そして秀忠公に「利常だけは生かしておいてはならぬ」と意見をしますが、人柄のいい秀忠公は顔をしかめて同意せず、娘婿の利常公をかばったと伝えられています。
その後も利常公は、常に徳川将軍家の強い警戒に晒されながらも巧みにかわして120万石の家領を保ちます。福島家、加藤家と相次いで豊臣恩顧の大名が改易される中、家康公が死ぬ間際に利常公に「おまえを殺したかったが、助けてやる」と言ったという言質を取り、必死で世間に言い触らし世論を味方にしたといいます。
利常公は、内政においても優れた治績を上げ、治水や農政事業(十村制、改作法)などを行い、「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの盤石の態勢を築きました。また御細工所を設立し、美術・工芸・芸能等の産業や文化を積極的に保護・奨励し、加賀文化の基礎を築きました。
利常公は、父の初代前田利家公の特長を受け継ぎ立派な体格と能力の持ち主で、その点が数多くいる利家公の子供たちから利長公の後継に選ばれる決め手となったといわれていますが、藩主になると幕府の警戒をかわすため”虚け者“を装って、人を食ったような奇行の逸話が多く残っています。
幕府からの警戒を避けるために、故意に鼻毛を伸ばして馬鹿を装い、病で江戸城出仕をしばらく休んだ後、酒井忠勝に皮肉を言われ、「疝気でここが痛くてかなわぬゆえ」と満座の殿中で大切のところを晒して弁解したといいます。
徳川御三家の尾張家に江戸城中で頭巾をかぶることが許されると、利常公も頭巾をかぶって登城し、人に咎められるとその場は謝って頭巾を取るが、すぐにまたかぶり、何度も繰り返すうちについに誰も咎めなくなったといいます。
〈石川門①)
江戸城中
に「小便禁止。違反者には黄金一枚の罰金」との札が立てられると、ことさらにその立て札に向かって立ち小便をし、「大名が黄金惜しさに小便を我慢するものか」と言い放ったといいます。
わが子の光高公が金沢城内に東照宮を建てようとすると「いつまでも徳川の天下とは限らぬ」と咎めます。
等々。利常公は幕府と悶着を起こします。その多くはたわいもないものだったといいますが”加賀の前田は特別な家だ““加賀の前田は幕府も思うようにならぬ”ということを、幕府や世間に認めさせることで、そのためには、どんなつまらないことでもやったといいます。
それらについて利常公は、まことに愉しそうだったといいますが、改易に繋がるようなことはしなかったらしく利常公の傍若無人ぶりは計算されたもので、処罰されるかされないかのギリギリを見極めて、城の石垣など本当に処罰されてしまう修理などは、お家を守るため、極めて慎重であったといいます。
歴史家の磯田道史氏は、著書の中で「果たして、この男は何を究極の目的として生きていたのか。書き終えたあとも、この人間を理解できた気になれない。」とお書きになり、だだ一つだけたしかなのは、「織田信長公を創始とする、中世をぶち壊す狂気の精神を受け継ぐ最後の大名であった。」と書かれています。
参考文献:「殿様の通信簿」磯田道史著、株式会社新潮社、平成20年発行他