【金沢・長崎・マニラ】
高山右近の年譜などによると慶長18年(1613)12月、徳川家康が「伴天連追放文」を示し、翌年正月幕府は加賀藩に宣教師の国外追放の命じます。引き続き家康から利長公に高山右近、内藤如庵とその一族を京都所司代板倉勝重に引き渡すよう厳命が届けられます。
その一昼夜後の慶長19年(1614)正月17日、右近、如庵とその妻子、家臣、100人ほどが加賀を去り長崎へ、7月には長崎よりフィリピンへ出帆しました。その年末にはフィリピンのマニラに到着して市民の歓迎をうけるが、翌年元和元年(1615)右近はマニラに到着後40日にして熱病にたおれ、2月3日帰天、行年63歳。盛大な葬儀をもってイエズス会聖堂に葬られたといわれています。
金沢を立った一行は、右近を先頭に、夫人、横山康玄の嫁いでいた娘ルチア、亡くなった長男ジョアンの子(孫)たち5人、如庵も妻と4人の子と長男トマスの子4人、宇喜多休閑とその子3人。それに利長公の付けた護衛の武士、家臣、下男下女たちで、時節柄、北陸の険しい山路は深い雪で、老体、女、子供にとって、言語に絶する苦しいものであったといわています。
言い伝えによると、護送責任者であった篠原出羽守は、重罪人を護送する駕籠を自分の責任で排して、右近を貴人駕籠で帯刀のままとしようとするが、右近は「殿に相済まぬ」とそれを断ったという。篠原は右近を必ずしも尊敬はしていなかったが、武人としての右近の面目を重んじたのは、さすが“武士の情けを知るもの”と評判になったとか・・・。
1~2年前、右近の娘ルチアと重臣横山長知の長男康玄が結婚するにあたり、右近は、信仰のためを思い躊躇したといわれていますが、当時長知は理解をしめし結婚が成立しますが、慶長19年(1614)幕府の大禁教令「伴天連追放文」の発布で、右近の杞憂が現実のものとなり、国外追放の命を受けることになりました。
その年、慶長19年(1614)2月、横山長知とその子康玄は突如出家し、若い3代目藩主前田利常公の怒りをかいます。その後、比叡山に出奔し上方方面を流浪します。その年の10月、利常公が大阪冬の陣に出陣するに至ると横山長知は大阪出征の途上の利常公に御目見えし帰参を許されます。夏の陣で、人持組頭として手柄を上げ凱旋し、以後本多政重とともに3代藩主利常公を補佐し、本多・横山両体制といわれる藩体制をつくりあげます。
(キリシタン灯篭があるというお寺・他二ヶ寺のあるという)
出奔の原因については、派閥や政治路線から奥村摂津栄頼の計略説もありますが、長知は右近を筆頭とする藩内キリシタン武士の理解者であり、右近の娘が長知の嫡男康玄の室の迎えたことにも、その原因があったのではと推察できないこともありません。
しかし、元和以後の長知の行動は、キリシタン弾圧の先頭にたっていて、その路線変更ぶりから見ると理解しがたいものでありますが、長知と右近との関係は、長知が右近の人格や器量に触発されたものであると思われますが、それ以上に主君利長公への忠誠心によるものが大きかったともいえます。
長知にとって徳川家への従属は、自ら主唱してきた路線であり、異存のない選択でありますが、それが主君利長公への忠誠心から擁護してきたキリシタン藩士や右近を見殺しにしなければ、その路線を全うできないという深刻な問題は、当時、長知にとっては想定外であったいうことだったのでしょう・・・か?
参考文献::「高山右近」加賀乙彦著、講談社 1999年・「キリシタンの記憶」木越邦子著、桂書房2006年、「地域社会の歴史と人物」”横山長知の出奔と本多政重“木越隆三著、加能地域史研究会2008年、他