【市内あちこち】
天正16年(1588)頃、加賀藩お預りの形で金沢の下った高山右近が最初に住んだのは現在の金沢21世紀美術館の敷地内であったと伝えられています。しかし、利家公の金沢への誘いに対し右近は「禄は少なくてよい、南蛮寺一ヶ寺でも・・・」は、利家公の存命中に実現されたかどうかは定かではありません。
(慶長4年(1599)右近の恩人前田利家公が逝去。利家公は死に臨んで右近の忠誠を称え、2代藩主となる利長公に、右近を大切にするよう遺訓を与えています。加賀藩史料によると「長九郎左衛門、高山南坊世上をせず、我等一人を守り、律儀人に而候間、小宛茶代をも遣わし、情を懸けられ可然存候。」と書かれているそうです。)
〈金沢で右近のはじめの屋敷があったところだと伝えられています)
外国人宣教師がイエズス会本部に送った記録では、慶長6年(1601)右近の費用で建てた教会で120人の洗礼を授けたという記述があることから、もう教会はあったことが窺えます。
さらに、その記述によると120の内12~3人が利長公の家臣で、その後も51人の洗礼の内24人が利長公の家臣だった書かれています。利長公は自らキリシタンになるよう奨励したので、さらに20人の家臣が説教を聴き、母である芳春院や姉妹、また、信長公の娘の正室にもキリスト教の説教を聞き、洗礼を受けることを勧めたといいます。
このように、加賀藩では藩主利長公の保護下キリシタン宗門は拡大していきます。慶長8年(1603)には、金沢の多くの人を収容できる司祭館を建設し、能登の知行地に2つの教会を設け、1つは右近の弟太郎右衛門が、もう1つは右近の家臣の1人が世話をしたといいます。その頃、北国のキリシタンの総数は1,500人に達していたといいます。
かって、丹波八木のキリシタン大名、内藤飛騨守徳庵は、関が原の役後、所領を失い加藤清正の所領肥後へ移るが、右近のとりなしで、利長公に迎えられ、知行4,000石を、長男好次は1,700石を受けています。
また、慶長12年(1607)宇喜多秀家の室となった利長公の妹、豪姫は、関が原の役で宇喜多家が没落した後、北政所に仕えますが、洗礼を受け金沢に帰ってきます。それに伴って、宇喜多秀家の従兄弟キリシタンの宇喜多久閑も金沢に入り、知行1500石を受けます。その年、利長公は彼らのために紺屋坂に南蛮寺が新しく建てられました。この年の洗礼者は50人だったと伝えられています。
このような利長公の手放しのキリシタンへの好意に対して、右近は困惑したこともあったらしい、慶長9年(1604)宣教師が金沢の来たときなどは、多数の家臣たちを前でキリシタン宗門を賛美し、皆はキリシタンにならなくとも、宗門を尊び保護しなければならない、自分はすでの半分キリシタンである、と語ったといいます。
(金沢城の黒い鉄板の隅柱の意匠は右近によるといわれています)
慶長13年(1608)利長公は、隠居した翌年(慶長11年)からこの年まで、しばしばはっきりとキリシタンになりたいと語っていたが、家康を恐れて実行出来ずにいたといわれています。この年のクリスマスに、右近は自分の費用で豊富なご馳走を準備し、自筆の招待状を送ったところ、大勢の人が来て、右近もキリシタンも心打たれという。この年の洗礼者は140人だったといいます。
(つづく)
参考文献:「高山右近」加賀乙彦著、講談社 1999年・「キリシタンの記憶」木越邦子著、桂書房2006年、他