【金沢城下】
細工者は、お目見得以下の御歩並ですが、藩主に御目見得できるエリート集団でした。というのも藩主自身が好みや考え方を直接細工者に申し渡す場合もあり、綱紀公の頃は、二ノ丸御殿に近い新丸にありました。宝暦の大火(1759)以後、城外に転出し今の中央公園の東側一帯にあったといいます。
(河北門前の新丸(芝生の辺り)に初めの御細工所がありました)
(宝暦の大火前の河北門櫓図)
御細工所は、綱紀公により貞享4年(1687)に制度化され御細工奉行により統括されます。奉行は職人の採用や技術評価の把握はもちろん、人事管理等職人の環境整備が主要な仕事で、細工者だけでは賄えない時は、城下の町方職人に応援を要請するための城下の職人の把握も重要な仕事であったといいます。
元禄元年(1688)には御細工奉行の下に三人の細工者小頭が置かれていたが、同3年(1690)には4人になり、職人数は50人を少しこえていて、12人から15人のグループが4つあって、1グループごとに小頭がついていたといわれています。
細工者は、一般の町職人のように期限付きで売らなくては生活できなのとは違い、生活に追われることなく、安心して技術の錬磨に励むことができ、年に1個、あるいは数年に1個しか出来なくても、藩は秀れた製品を期待し、同時に細工者もその間の生活が保障されていたので、自己の能力を十分に発揮できたといわれています。
(文政11年(1828)には細工者の人数は104人を数えています。)
享保(1716~1735)の頃になると、御細工奉行は財政悪化による倹約がさらに重要な役目となります。細工者には技術の程度により、上、中、下と未熟に区別され、と未熟の四段階で、さらに上・中・下があり十段階に格付されていたといい、分業も進んでいたといいます。
(禄高は、上は50俵、中は40俵、下は30俵・加賀では1俵は5斗)
前にも書きましたが、その資格は御歩の藩士と同格の御歩並で苗字帯刀が許され、そのために、町人で才能あるものは職人となり、細工者を目指したそうです。入所希望も町職人のなり手もきわめて多く、入所するためには細工者小頭の推薦で作品テストが行なわれ選抜されたといいます。
(その頃の金沢の職人は、御用職人(藩御抱え職人)細工者(細工所の工人)町職人があり、御用職人は、藩内外に住みながら藩から扶持を与えられ、藩とは密接に関わった工房を所有する親方で多くの弟子を抱え、今風にいうと経営者であり、デレクターでアドバイサー、そしてデザイナーでもありました。)
文政11年(1828)の史料によると、御細工所の作業は蒔絵細工、漆細工、紙細工、金具細工、絵細工、針細工、具足細工、董物(ふくべもの)細工、小刀細工、象嵌細工、刀鍛冶細工、硎物細工、韘(ゆがけ)細工、茜染細工、城端蒔絵細工、春田細工、輿細工、鉄砲金具細工、鞍打細工、轡細工、大工細工、竹細工、擣紙(とうし)細工、縫掛革細工、鉄砲方御用など時代のよって異なるものの24の部門の職種が記載されています。
(よく分らないものもありますが、江戸後期にも刀鍛冶細工、硎物細工、韘(ゆがけ)細工、具足細工、春田細工(甲冑)、鉄砲金具細工、鞍打細工、鉄砲方御用など、武具に関わる職種もかなりあります。)
細工者は、勤務態度や勤続年数、技能上達などの実績の応じ藩主から賞与を受けることもあり、兼芸の御能についても貢献度や優秀さに応じて奨励金や衣服が与えられ、逆に処罰では、禁固や追放といった厳しい事例もあったといいます。
(つづく)
参考文献:金沢の工芸土壌―加賀藩御細工所の潮流―小松喨一著、北国新聞社2012・8発行・「加賀百万石―前田利常から学ぶ日本と石川の再生―北国新聞1998・10・13の記事、他