【金沢城下】
5代藩主綱紀公は、3歳で父光高公が急逝したため、その年に家督を相続し祖父利常公が後見にあたることになりました。しかし、祖父は聡明な孫に「わしに学ぶな」「わしの真似は無理だ、百万石をつぶしかねぬ」と言ったといわれています。
利常公は、若さゆえの覇気から徳川家と張り合い、一触即発の危機を経て、老境に至り、自ら生涯をかけた文化事業や農政を綱紀公に引き継がせようと思っていたのでしょうか・・・。そして「加賀守(綱紀公)は今後、江戸の風に従うがよかろう」と・・・。
綱紀公を中心に考えれば、利常公の孫であると同時に、母は大姫で3代将軍家光は義祖父、副将軍の水戸の光圀は義叔父、会津の保科正之は舅で、いうまでもありませんが祖母は2代将軍の娘球姫。綱紀公は徳川体制の偉大な君主の血脈で、利常公のように幕府を刺激し、危ない橋を渡る必要がないことから「わしに学ぶな」と言ったものと思われます。
利常公の没後、綱紀公は祖父の期待にこたえ、文化政策での偉業を発展させます。学者で文人として高い教養を備えた綱紀公は、祖父が天性の審美眼で集めた芸術品を、より体系的に収集し、御細工所も綱紀公の時代に整備されます。
当時、藩政では、藩の重要なボストとして、めずらしい書物奉行、御細工所奉行、茶道奉行がおかれ、他藩では見られない役職を設け、加賀藩独自の文化政策が実現していきます。
〈石川門)
御細工所も、貞享4年(1687)綱紀公が藩の「組織格式改め」で、御細工所も奉行が統括する組織になり、利常公が20年かけて基礎をつくり、綱紀公が35年かけて組織や活動の充実に努めました。
(藩内の町人の中から技能に優れたものを選抜して、1代限りですが名字帯刀を許され、御歩並の士分で任用されるようになり、御細工所は町人の憧れの職場になったといいます。)
加賀藩の文化政策の中で特に注目されるのは、学者、文人としても高い教養を備えた綱紀公の収集による「尊経閣文庫」と「百工比照」だといわれています。文庫は綱紀公の思想や思考の裏付けとなる資料の収集で今の図書館であったものと思われます。以後は「百工比照」と御細工所について進めていきます。
全国から工芸技術の粋を集め製品や標本が12の箱に整理された「百工比照」は、安土桃山時代から元禄時代に至る伝統工芸の見本やひな型、図案、材料、用途が形態別に整理され、2000点以上が収蔵されたもので、「百工比照」とは工芸百般を比較するという意味だそうです。
(御細工所の工人は「能樂」を兼芸とされ、」やがて、それが町人に広がり「加賀宝生」として現在にも引き継がれています。)
(つづく)
参考文献:金沢の工芸土壌―加賀藩御細工所の潮流―小松喨一著、北国新聞社2012・8発行・「加賀百万石―前田利常から学ぶ日本と石川の再生―北国新聞1998・10・13の記事、他