作家と職人は同じか
【鈴見橋→浅野川大橋】 先日発行された山出保氏の「金沢の気骨」に“作家と職人は同じか”という件がありました。来沢したフランスのエルメス社のディレクターが市内の工房やお店で、「作家と職人は同じか、違うか。あなたはどっちですか。」と職人や店員に聞きくと、“返事がない”か、あっても不十分であったと言うことが書かれています。 (山出保著「金沢の気骨」)...
View Article金沢の「奥の細道」を歩く①浅野川辺り
【山ノ上町→下新町】 今更、私がいうまでもありませんが、松尾芭蕉が高岡から倶利伽羅を見て金沢に着いたのは元禄2年(1689)7月15日(8月29日)でした。馳せ参じた金沢の俳人たちは、7月24日(9月7日)芭蕉が金沢を立ち去るまで、もてなし、句会を催し、芭蕉の心を会得しようとつとめ、金沢の俳壇が、芭蕉一色に塗潰された観があったといわれています。 (小坂神社集合)...
View Articleのとキリシマツツジ
【中能登町→羽咋市】 14日午後、知人に誘われ中能登町井田の圓光寺さんの“のとキリシマツツジ”を見に行ってきました。何処かの新聞で取り上げられていたとかで、真っ赤なツツジが満開だと聞くと、いてもたって居れなくて二つ返事で出掛けました。 (圓光寺ののとキリシマツツジ①)...
View Articleひがし茶屋街と秋聲
【旧御歩町とひがし茶屋街】 先日、地元の公民館の方々30人と徳田秋聲記念館の企画展「ひがし茶屋街と秋聲」を見学し、その後、“ひがし茶屋街”から、解説にもありました“浅野川桜馬場芝居小屋跡”まで足を伸ばし散策しました。 (徳田秋聲記念館)...
View Article金沢の「奥の細道」②犀川辺り(その1)
【中央通町→犀川大橋→寺町】 前回に引き続き“松尾芭蕉“金沢10日間の足跡の後半です。5月21日午前10時、中央通町の真言宗養智院さんからスタート。最初のお目当ては、金沢の蕉門の方々より1年も前から芭蕉に入門したといわれている“凡兆”の墓参です。 (養智院さん)...
View Article金沢の「奥の細道」②犀川辺り(その2)
【中央通町→犀川大橋→寺町】 前回、凡兆にのめり込んで、後回しになった犀川辺りの芭蕉の足跡の続きです。私のブログにはもう何回か登場している犀川右岸の芭蕉と希因の“秋”と”春”の句碑を訪れました。大橋からだらだら下っていくと左側の木陰に小松砂丘の書で、高さ1m40cmの自然石に句が刻まれています。 (犀川河畔①)...
View Article3日間も秋元氏と
【金沢市内】 秋元氏とは、金沢21世紀美術館の秋元雄史氏のことです。氏の人物や仕事のことなどを書こういうのではなく、私が先週3日続けてお会いしたということで、めったに会えない人に3日も連続してということは私にとってはニュースでした。 (陶壁トークでの秋元氏)...
View Article着物が目立った“友禅燈ろう流し”
【天神橋→中の橋】 “友禅燈ろう流し”を書くのが今回で3回目。今年は、最近face bookで“友達”になった素敵な加賀友禅のスタイリストの方に“行きます”と書いたので、美人に弱い私としては”何はともあれ“と出掛けました。 (ミス加賀友禅)...
View Article卯辰山は“向山(むかいやま)”①
【卯辰山】 向山(むかいやま)!!私が小学生の頃、卯辰山のことを金沢では誰もが「向山」といっていたような気がします。あれは昭和の中頃だったか・・・。山頂に金沢ヘルスセンターが出来、その頃から「卯辰山」という呼び方が定着したように思います? (かって金沢ヘルスセンターがあった見晴らし台より)...
View Article卯辰山②”卯辰山開拓(その1)“
【卯辰山】 幕末、幕府にも長州にも義理立て?した加賀藩は“蛤御門の変“では、以前にも書きましたが、世嗣慶寧公は、何れにも加担すること無く帰国します。その為、数少ない優秀な側近を失いますが、2年後、慶寧公は謹慎も解け襲封します。焦りも多分に手伝ったのか14代藩主になった慶寧公は「三州割拠」を旗印に、加賀藩領内の自立を目指し政治的にも軍事的にも”領内富国強兵“の独自路線にシフトします。...
View Article卯辰山④卯辰山開拓(その3)
【卯辰山】 卯辰山開拓は、極めて史料が少なく制約があるものの、私の知るかぎりでも大正以後、好事家といわれ方から大学の先生や研究者がお書きになられています。テーマはそれぞれで“三州割拠の富国策”または“藩営まちづくり論”さらには“藩主の救恤(きゅうじつ・御救)”についての研究です。 (救恤(きゅうじつ)は御救ともいい、今風に言うと福祉政策でしょうか。以後福祉政策と記します。)...
View Article卯辰山⑤卯辰山開拓(その4)
【卯辰山】 今回は卯辰山開拓の核、卯辰山養生所です。養生所は、今風にいうと病院ですが、具体的には医学教授所、種痘所、応用化学研究所(舎密局)を含む総合医療施設でした。元は安政元年(1854)に13代斉康公によって開講された、西洋砲術、鉄砲火薬の製造法を講習するための洋式文武学校「壮猶館」に始まります。 (壮猶館跡・現知事公舎)...
View Article卯辰山⑥庚申塚
【卯辰山】 庚申塚は、帰厚坂から20分ぐらい登ったところにある玉兎ヶ丘(ぎょくとがおか)の北部にあります。ここは卯辰山開拓まで、三つの小山になっていて、今は海抜141mほどですが、開拓に際して山頂を18m削ったので、今より高く159mあり、日本海を往来する船からの目印になっていたといわれています。 (庚申塚)...
View Article卯辰山⑦一本松
【卯辰山】 今、3代目の“一本松”が卯辰山工芸工房のすぐ下に寂しく立っています。しかし藩政期には堂々と城下を見下ろしていたことでしょう。文書によると宝泉寺の“五本松“と並び称せられる向山(卯辰山)を象徴する存在だったようです。 (3代目の一本松)...
View ArticlePR: ポストGoogleリーダー7選 引越は6月中に
Googleリーダー7月1日終了前に、登録済みフィードの簡単インポートをご紹介! Ads by Trend Match
View Article卯辰山⑧どじょうの蒲焼
【卯辰山】 金沢では、この時期夏を告げる風物詩といえば“氷室のまんじゅう“が良く知られていますが、いま一つ、忘れられないものに甘辛いタレで焼かれた“どじょうの蒲焼“があります。今では近江町市場にも何軒かあり年中焼かれていますが、昔はあちこちの街角にもあり、お店によっては、普段は別の商売をしていて、この時期だけどじょうの蒲焼屋を開くところもありました。 (近江町の蒲焼屋)...
View Article金沢二十五天神巡り(第2回)
【三社→長田→本町】 6月27日。金沢二十五天神巡りの2回目40人が石川県女性センターに集合し、参加の皆さんも余り歩いたことの無い三社周辺から駅西、駅前の本町まで2時間。昨日の雨が嘘のような上天気の中、牛歩のごとくゆっくりと長蛇の列をなし五社を巡りしました。 (豊田白山神社にて)...
View Article