【卯辰山】
幕末、幕府にも長州にも義理立て?した加賀藩は“蛤御門の変“では、以前にも書きましたが、世嗣慶寧公は、何れにも加担すること無く帰国します。その為、数少ない優秀な側近を失いますが、2年後、慶寧公は謹慎も解け襲封します。焦りも多分に手伝ったのか14代藩主になった慶寧公は「三州割拠」を旗印に、加賀藩領内の自立を目指し政治的にも軍事的にも”領内富国強兵“の独自路線にシフトします。
(三州割拠とは:加賀藩領内の三州(加賀、能登、越中)が、藩の保持する権限や利害にこだわり、外からの干渉を排除しようとした。)
(慶応3年の卯辰山図)
卯辰山開拓は、慶応2年(1866)4月慶寧公が家督を相続すると、翌慶応3年(1867)3月、藩主としては異例の笠舞の御小屋を巡視したことに始まります。藩主慶寧公は、御小屋の待遇改善を命じ、矢継ぎ早に卯辰山に病院を設立することを告げ、8月には、鎮守である天満宮の地鎮祭が行われています。
(笠舞の御小屋は、5代藩主綱紀公の命により寛文10年(1670)に、飢饉などで自ら生計を維持できなくなった者を救うため設けられた施設で、小屋内では、若い医者の育成に加え収容者への授産も考慮されているところから、他藩にはない保護と更正を目指した加賀藩の仁政を象徴する施設でした。)
(天満宮)
まさに、この開拓は禿山だった卯辰山に「福祉」「医療」に留まらず、何故か山の中に町を造成し、産業振興、集学所(小学校)、失業対策事業、さらには娯楽遊興施設まで、極めて短期間に富国策としての一大プロジェクトが自動車も無い昔、不便な山中に建設されました。
(この開発については、昼間でも狐や狸の出る山中に、雨や雪の難を知りながら短期間に巨費を投じ建設したのは、藩が国内の混乱する世情を覆い隠すため、市民に開拓に集中させ、動揺を防ぐ姑息的政策であったという説もあります。)
(鳥居のところが帰厚坂)
この開発計画には下敷きがありました。着工の8ヶ月前の慶応2年(1867)10月に発行された当時のベストセラー福沢諭吉の「西洋事情」です。運営手法は、「西洋事情」そのもので“建設資金や運営資金は寄付募る”“貧富に応じての医療費”“看病人の数”“娯楽を持って利する者からの運上”等など、西洋事情の「病院」「貧院」に記されているシステムを丸写しして、一応、自立可能なように帳尻を合わせたもののようにも窺えます。
敷地は133,9haに及ぶ広大な土地を御用地として7ヶ村から借り上げ、記録では、明治の1年前の慶応3年(1867)9月には、かってない盛大は惣祭り(盆正月)が開催されたといいます。
(撫育所)
後の資料によると工事は“一気呵成にその計画のすべてを1年半で作り上げた”と書かれていて、当時、養生所(病院)を訪れた人の記述には、突貫工事の安普請だったとも書かれています。
(開拓録)
(当時の資料としては「卯辰山開拓禄」がありますが、身内が作った自慢の記録集のようで、真偽には疑問が残ります。それでも昔から興味持つ人も多く、今までにも諸説書かれています。それらの多くは推測の域はでませんが、以後、何回かに分けてその顛末を記します。)
(つづく)