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卯辰山は“向山(むかいやま)”①

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【卯辰山】
向山(むかいやま)!!私が小学生の頃、卯辰山のことを金沢では誰もが「向山」といっていたような気がします。あれは昭和の中頃だったか・・・。山頂に金沢ヘルスセンターが出来、その頃から「卯辰山」という呼び方が定着したように思います?


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(かって金沢ヘルスセンターがあった見晴らし台より)


金沢城の向にある山だから「向山(むかいやま)」といったのでしょう。それが今では”向山“という者は極めて少なくなりました。とくに若者の中で”向山”などと言おうものならなんとも怪訝な顔が返ってきます。


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(兼六園の向側)


一方”卯辰山“という呼称は、「宇多須山」として歴史に登場するのが室町時代だそうで、その後、正式?には「卯辰山」ながらも、地元の人々は、昔から城の向かい、自分たちの住む町の向かいの”向山“・・・。方角も卯辰(東南東)でなくて、城から卯寅(東北東)の方角であるためか「卯辰山」より「向山」のほうが一般に定着していたのでしょう・・・。


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(山頂の庚申塚・かって歴史の舞台)


(何故、城から卯寅の方角なのに「卯辰山」なのかという疑問は、研究者の資料によると、山は、かって河北郡小坂庄に属していて、その庄の中心から卯辰の方角にあったからだと書かれています。)


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(秋声の文学碑)


向山の通称は、何時ごろからいわれていたのかは定かではありませんが、幕末の記録にもあり、徳田秋声の自伝的小説「光を追うて」にも、秋声ご本人と思われる主人公の姓を「向山」の名をかり“向山等”としています。


(秋声も「向山」には、思い入れが強かったのでしょうか、作品には“小学校時代にも、この山は自分の庭のように行きつけになってゐた。”と書いています。)


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(現花菖蒲園・かって歴史の舞台)
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(現卯辰三社・かって歴史の舞台)
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(現運動場・かって歴史の舞台)
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(キリシタン殉教の碑・かって歴史の舞台)


「卯辰山(向山)」は、今は周辺に多くの文化施設や史跡、碑が点在し、一時ほどではありませんが、金沢市民の憩いの場として親しまれています。しかし藩政期は、城の防衛上の要所として、山の木々は刈り取られ、山頂付近は立入禁止となっていたといいます。


(明治35年(1902)より金沢市では禿山だった山に163,000本の木を植え、明治43年(1910)に市有公園地に、大正4年から公園として本格的に整備されました。)


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(鏡花所縁の摩耶夫人像のお寺)


山の高さは141,2m、周辺8km。山名も前にも書きました 「卯辰山」「向山」の他に“臥龍山”“夢香山”そして丘や峰にも名前があり、春日山、油木山、毘沙門山、愛宕山、摩利支天山、茶臼山、観音山、鳶が峰、鈴見山といい、名前を聞いただけで、何か物語が・・・と思わせる名前もあります。そう~、この山は伝説や伝承の宝庫なのです。


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(日蓮上人の銅像)


次回からそのあたりを幾つか綴ることにします。


(つづく)


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