【卯辰山】
当時の加賀藩は、財政が逼迫し家中には元治元年(1864)から4年間借知が申し渡され、慶応元年には、町方や郡方に5,000貫の借上銀を課しています。卯辰山開拓は、そんな中での一大プロジェクトでした。そして、同時に天保2年(1831)に廃止されていた“ひがし”と“西”の新地(茶屋街)が36年ぶりに再開されています。多分“娯楽を持って利するものへの運上”を期待するもので、開発資金の捻出のための再開であったものと推測されます。
≪“卯辰山開拓禄”に見る事業概要≫
① 土木開発
天神橋、帰厚坂、帰厚橋、梅渓、蓮池、五十間土手、千杵坂、草花園、日暮ヶ丘、三の坂、滝が丘、咸泉ヶ丘、景雲台、表て坂、子来坂、扇ヶ丘、天然台、玉兎ヶ丘、茶摘ヶ丘
② ニュータウン開発
子来町、御廻町、常盤町、御影町、粒谷町、玉兎町、末広町、西御影町(飛び地で今の犀川御影橋辺り)
③ 産業振興
常盤町:産物集会所、生産店、揚場、錦絵所、鏡製造所、錫細工所、化同金製造所、錦手陶器所、水機織物、唐紙地製造所、紅染所、製油所、製綿所、製紙所、綿羊小屋
粒谷町:綿糸製造所、晒蝋所、陶器所及び陶器窯、大茶園
御廻町:織り場、撫育店、
子来町:瓦及び陶器所、毛織所、工芸局、鉄工所
御影町:製土所、造硯所、製茶所
(粒谷町と常盤橋の製紙所)
④ 教育事業
集学所(後の小学校)
⑤ 神社
天満宮、招魂台(仮)
⑥ 医療福祉施設
卯辰山養生所、舎蜜局、撫育所
(卯辰山開拓録の養生所の記述)
⑦ 失業対策
撫育所方役局並び所作所(綿布織物、刀鍛冶場、薬草所、釘鍛冶場、からむし、草履、草鞋、足袋、笠縫、茶摘み、桑取り、養蚕)
⑧ 娯楽遊興施設
芝居小屋(末広町)、寄席、料理屋、鴨鍋屋、茶屋、揚弓場、大弓場、薬湯、馬場
(料理屋と養生所の一部)
⑨ 軍事
小銃角場
(いずれ詳しく書きたいと思いますが、並べてみると、当時の先端事業や娯楽施設にビックリです。よくよく見て戴ければ、やたら広範囲で、いかに大事業であったかがお分かり戴けると思います。そして、これらの殆ど全てが僅か1年半で建設されたのですから驚きます。)
私には、どうもこの卯辰山開拓は、庶民に対し“新藩主への期待”を煽る仕掛けのようで、只々、庶民をたぶらかす、お神輿だったのでは・・・。と疑ってしまうような杜撰な計画に思えます。無論、これは私の邪推であり、疑り深い老人の下種の勘ぐりでしょう・・・。
何時の世も、若いトップや元首が登場すると、夢のようなコンセプトや政策が打ち出され、影で誰かが知恵を付けたり、コントロールしたと聞きますが、多分それは、大昔の事か、よその国の事、現代はもちろん、幕末の金沢でもある分けがないと信じていますが・・・。
(卯辰山から金沢城)
しかし、幕末という内憂外患な不安定の時代、藩内の人心動揺を防ぐためという側面もこの開発に込められていたのでしょう・・・か、また、娯楽遊興施設まで設けられ、古代ローマの”パンとサーカス“の匂いもします。しかし、この開発計画は紛れもなく、加賀藩が生き残るための“三州自立割拠”の実現であったことは、実証はといわれても困りますが・・・、私には疑う余地はありません。ウッソウ~。
“三州自立割拠”とは、今風に分かり易く言えば、地方分権ですか? しかし、この割拠策は、後世から見ると、次の時代が読めなかった井の中の“お偉いさん”の悪あがきとしか思えません。皮肉にも貴重なサンプルとして後世に有効な教訓になっています。それにしても、史料が乏しいというのは、何時の世も失敗は語りたくないという人間の性でしょう・・・か。
しかし、この卯辰山開拓は、マクロに見れば金沢に於ける近代化の先駆けであり、藩主慶寧公の功績であり、大いに評価されるべきであることを付け加えておきます。
(つづく)
参考文献:開拓山人著「卯辰山開拓禄」明治2年2月発行