【卯辰山】
卯辰山開拓は、極めて史料が少なく制約があるものの、私の知るかぎりでも大正以後、好事家といわれ方から大学の先生や研究者がお書きになられています。テーマはそれぞれで“三州割拠の富国策”または“藩営まちづくり論”さらには“藩主の救恤(きゅうじつ・御救)”についての研究です。
(救恤(きゅうじつ)は御救ともいい、今風に言うと福祉政策でしょうか。以後福祉政策と記します。)
今回は、儒学が説く封建的道徳において、福祉は領主の当然の条件だとする視点から 、加賀藩の福祉政策と「撫育所(ぶいくしょ)」について、研究者の労作を参考に卯辰山開拓を捉えてみようと思います。
卯辰山開拓の契機は、前にも書きましたが、14代藩主慶寧公が笠舞の御小屋の待遇改善を命じ、卯辰山への病院(養生所)の設立を告げ、領内(加賀、能登、越中)の窮民の対策を管轄する算用場奉行と町奉行に対して改善策を命じたことに始まります。
加賀藩では、5代藩主綱紀公が他藩にはない”笠舞の御小屋“の設置以後、この恒常的福祉施設を通し福祉政策が実施されてきました。本来、領民の生計破綻に対して福祉政策は封建藩主の必須条件ですが、しかし、一方で、古来から領民同士の相互扶助の慣わしもあり、藩主はそれを前提に支配し、実際に施行される福祉政策は、藩主も領民との関係のもとで行なわれてきたといえます。
しかし幕末になると、加賀藩も恒常的な財政破綻状態が続くと、藩は福祉政策が従来のように義務を十分果たせなくなり、領民の相互扶助に頼らざることになります。特に天保飢饉に際して、藩の財政悪化は厳しく、困窮者の増加から藩も対応しきれなくなり、藩は裕福町人等に身分相応に福祉行為を求めるようになっていました。
天保9年(1838)には、従来の「笠舞の御小屋」とは別に新規の施設三ヶ所に公費で「棚小屋」を建て、収容者には生業を与え、作業をさせ、各人に除銭をさせ蓄えを作らせ、早く小屋を出て自立するように促しています。
(卯辰山開拓の時造られた帰厚坂と帰厚橋)
また、藩は町人を世話役に任命し、官民共に取り組む態勢をとり、13代藩主斉泰公は、5代藩主綱紀公の使ったという「養民堂」の古い看板を蔵から取り出し掲げるなど、藩主自身がこの福祉政策により深く心を寄せたことが伝えたれています。
推測ですが、襲封した14代慶寧公は、時代の要請から軍制改革は当然としても、実際に領主権力主導による福祉の実施が困難になっていたにも関わらず、現状を省みず取り組んでいます。うがった見方をすれば、慶寧公が福祉政策に力を入れたのも父君の斉泰公の強烈な影響によるものと思われます。
≪撫育所の概要≫
慶応3年(1867)11月、笠舞の御小屋が撫育所と改称され、明治元年(1868)春(厳密には慶応4年春)に卯辰山の地に移転され、移転の理由は病院と貧院は撫育の観点から一体であるということから、前年に作られた卯辰山養生所の隣に設置されました。
(左の坂上が撫育所)
施設は「親子が入室する株小屋」「独身男性の男小屋」「独身女性の女小屋」に分かれ、撫育人は生業に力を入れるようにと、笠舞にはなかった風呂場が設置されています。撫育所では、撫育人への授産や除銭させた額に利息をつけて出所時に渡すことで、彼らの自立を支援した向きもみられます。
具体的には、付属の所作所や屋外の作業場を設け、おかせ、ぞうり、わらじ、たび、笠ぬいの業を興し、また、屋外での茶摘み、桑取り、薬草取り、養蚕などを命じ、その他、薬草所、釘鍛冶場、綿布織場を設置し、その品々を買い上げて、彼らの社会復帰を支援する体制を整えようとしています。
≪撫育所の墓碑≫
現在卯辰町の共同墓地に「卯辰山撫育所千五百六十二人君羊霊位」の墓碑があります。以前は撫育所あとの台地の中腹にあり参詣の人も少なく淋しく不便であったため、昭和40年3月に有志により現在地に移されたものだそうです。
(旧卯辰村辺り左の道を上がると右の山の中腹に墓地があります)
一説によると、卯辰山開拓に伴い、笠舞の御小屋が卯辰山に移された当時の収容者は3,000人を数えられたといわれています。明治3年(1870)貧民病院を建ててから次第にさびれ、生活が苦しくなり泥棒をする者がふえ、そのため明治6年(1874)に取りつぶされ、その頃までに死亡した1,562人の霊をなぐさめるため建てられた石碑であると伝えられています。
しかし、古老の言い伝えとして“3日3晩燃えつづけ悪臭地に満ちた”というのも聞かれ、また、明治2年(1869)の夏、米飢饉で一挙に死んだという話もあります。なんとも悲惨な話です。墓碑は明治22年(1889)の建立で、碑に書かれた「明治元丁卯年夏死亡」という年号と干支の違いなどもあり、詳細については疑問が残ります。
もう一つは、ここに移されてから1年間に死亡した人の数だとする説もあります。となるとここにいた人々がどのような形で離散していったのか・・・。他に、この地で全員が死亡したという説もあり、詳細はどうあれ、結末は、なんとも淒惨な出来事です。
(小野太三郎翁)
後日談ですが、明治に入ると公による救済活動は途絶えてしまいます。しかし、金沢では、藩でも中途半端に終わった救済活動を、かって御小屋の小者として勤務した小野太三郎が、日本で始めてといわれている個人が私費で救済活動を行なっています。後に社会福祉法人になりますが、現在も引き継がれていることを伝えしておきます。
(つづく)
参考文献:「金沢・伝統・再生・アメニティー」編者二宮哲雄、御茶ノ水書房。1991・2(第6章幕末期の金沢町における救恤、高澤裕一)「北陸史学」第54号抜粋2005・12(幕末維新期加賀藩卯辰山開拓に関する一考察、宮下和幸)「卯辰町のあしあと」著者西村五門1975・8