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卯辰山⑤卯辰山開拓(その4)

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【卯辰山】
今回は卯辰山開拓の核、卯辰山養生所です。養生所は、今風にいうと病院ですが、具体的には医学教授所、種痘所、応用化学研究所(舎密局)を含む総合医療施設でした。元は安政元年(1854)に13代斉康公によって開講された、西洋砲術、鉄砲火薬の製造法を講習するための洋式文武学校「壮猶館」に始まります。


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(壮猶館跡・現知事公舎)


文久2年(1862)壮猶館では、翻訳方であり蘭方医の黒川良安等により「蘭医講読」が始まり、藩士に教授するようになりましたが、慶応2年(1866)壮猶館の弾薬所で火薬製造の発火事故が起こり多数の死傷者を出したため、壮猶館の医学機関の学生・教師を翌年新設された卯辰山養生所に移されました。


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(卯辰山養生所図・卯辰山開拓録より)


種痘所については、安政3年(1856)に黒川良安が知人の児童の種痘を施したのが始めとされ、以後、壮猶館の蘭方医6人が私立の種痘所を彦三で起こしています。後、藩の種痘所が南町に、さらに卯辰山養生所に、しかし山に上では不便であるため、種痘所だけ麓に下ろしています。


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(左建物の一帯が卯辰山養生所)


(当時の天然痘の流行は、年によりますが年間30万人(当時の人口の4%前後か)が死亡、発病者の5人に1人が亡くなられたといいます。天然痘に罹り一命を取り留めた慶寧公は、西洋式病院の必要性を痛感したといわれ、元治元年(1864)藩は種痘所を南町に移転させています。また、慶寧公は世継多慶若(利嗣)に種痘が施されています。)


卯辰山養生所の着工は、慶応2年(1866)4月に養生所の主務を命じられた金沢町奉行の名で「病院仕法書」が示され、6月には病院建設の計画が公表され、それにあわせて身分の高い武士や分限者から冥加という上納金を求め、町人には1日、半日の地ならしなどの労働奉仕の提供を求めています。



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(卯辰山養生所の跡地の看板)


また、6月7日には黒川良安を主附(ぬしづけ)に命じ、6月18日の着工に際しては、各町から人夫として延べ4,5万人の人々が動員され、目印の旗や纏を立てて老若男女が集まり、花笠をかぶり衣装を飾って音頭をとり、賑やかに山を崩し出たといいます。


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(卯辰山天満宮(卯辰神社))

さらに藩は、鳶が峰に前田家ゆかりの天満宮を養生所の鎮守として造営し、9月には、天満天神など三体を遷座され、9月の23日から29日までの7日間、金沢惣祭と称し、町々から獅子舞、作り物、にわか、などが出て、その華やかな祝賀行事は、金沢では、かってない賑わいを呈したと伝えられています。なお、養生所は10月に落成しています。



≪卯辰山養生所の概要≫
(卯辰山開拓禄より・開拓山人(内藤誠左衛門)著)

養生所内諸局 俗事方役所三局 主附同心及び町役人日々相詰惣様の取捌きをなす役所
主附医師貸屋 主附は教師なり、この貸屋ハ主附棟取の内半年交代をもつと此に住す。
棟取所 教師の役所なり
当直副直の役所 当直副直は棟取の助役なり
調合所
診察所
 外より来る病人を診察するところなり
種痘所並出人溜
上等病室
 上等病人とハ治療入室の外衣食薬代は自分に弁す、富なるものなり
中等病室 中等ハ衣食自分に弁し薬種ハ上より与ふ、中貧なるものなり
下等病室 下等ハ衣食薬種惣て上より与ふ、極貧なるもの也
(病室1人1坪で、100人収容か)
看頭部屋 看頭医師ここに住し、看病人を指令し、病室内のことを勤とす
(看病人20人か)
病人向料理所  浴室  狂病の柵
会読所
入塾所 入塾生料理所
延齢泉
 養生所囲内にあり、開拓のとき新に出る清泉なり


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(現在の松魚亭の後ろに卯辰山養生所がありました)


養生所の目的は「貧民の救済のため疾病を診察する傍ら、医学研究の道を拓く」ことにあり藩主慶寧公の難民救済に対する強い思いが窺えます。初めはどうも撫育所のための病院であったのでしょう。管理は、町同心や町役人が当たり、病室は貧富により三等に分かれていて、下等はすべて無料になっています。


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(開拓山人(内藤誠左衛門)著・卯辰山開拓録)

入塾所は医師養成のための施設。この西洋式病院は、浴室を設置し患者の衛生面を考慮し当時の最先端の医療施設だといわれ、棟取(現在の教授役)には、当時藩で評判の黒川良安が任じられ藩がこの養生所に力を注いでいたとか、その他に付属施設として、舎密局、醋酸局、乗馬用十匹をつなぐ厩、牛小屋、普請局が置かれていたといいます。


開所から半年後の慶応4年(1868)4月に出された入所手続に関するお触れには、入所するには、居住地を支配する奉行の印がある願書が必要で、診察のみの場合は願書が不要だということなどが「御用鑑」に書かれているところからも、一般も診察するようになったのでしょう。


しかし、慶応4年(1868)1月から始まる戊辰戦争が奥羽戦争へ、その時出兵した加賀藩の藩士が同じ年、年号が明治と変った10月27日から翌年の明治2年(1869)2月に帰還しますが、負傷藩士(士卒226人)は皆この養生所は収容され、戦病院化したといいます。


また、幼少の頃、見舞いに養生所を訪れ、後に金沢医大の教授のなる金子治郎氏は、”全体は極めて粗末な「バラック」で、廊下に板敷きさえなく、壁は無論板壁であったことを確かに憶えている“と書かれているように、わずか4ヶ月の突貫工事の養生所は「卯辰山開拓禄」に書かれているような施設とはかなりかけ離れていたのではと推測されます。


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(大手町にあった津田玄蕃邸)

さらに養生所は、明治3年(1870)2月、貧病院と改称され一部はしばらく残ります。一方、養生所内で医師の養成を担った医学教授所は、医学館として大手町の津田玄蕃邸に移転し、12月には医学館内に病院を設け診察にあたります。


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(現在兼六園にある津田玄蕃邸の建物)

前出の金子治郎氏は養生所にについて「当時新進気鋭の若手蘭学者が泰西の規模を丸呑みして、これを一気に虹のごとく吐き出さんとせしか気概を窺ふに足るであろう。併し実際は無論声程ではなかった。」と述べられています。


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(彦三種痘所跡地と金大発祥の地の石碑)
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(現在の金沢彦三郵便局・種痘所跡地)


医学館は、金沢大学医学部の前身になるところから、その先が彦三種痘所ということで、現在「金沢彦三郵便局」前の「彦三種痘所跡地」と刻された石碑の側面に「金沢大学発祥の地」とも刻されています。


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(現在の金沢大学病院)


参考文献:「卯辰山と浅野川」平沢一著、活文堂、平成5年「金沢・伝統・再生・アメニティー」編者二宮哲雄、御茶ノ水書房。1991・2(第6章幕末期の金沢町における救恤、高澤裕一)「北陸史学」第54号抜粋2005・12(幕末維新期加賀藩卯辰山開拓に関する一考察、宮下和幸)「金沢大学医学部百年史」明治47年発行・「明治金沢の蘭学医たち」山嶋哲盛著、慧文社、平成17年発行など


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