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金沢の「奥の細道」②犀川辺り(その1)

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【中央通町→犀川大橋→寺町】
前回に引き続き“松尾芭蕉“金沢10日間の足跡の後半です。5月21日午前10時、中央通町の真言宗養智院さんからスタート。最初のお目当ては、金沢の蕉門の方々より1年も前から芭蕉に入門したといわれている“凡兆”の墓参です。


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(養智院さん)


お御堂は、超満員40名が寿司詰め・・・、外の騒音も聞こえ、坊守さんが気をきかせて戸を閉めてくださったり、参加者の皆さんは、黙して、耳を澄まし、ガイド穴田克美さんの解説に聞き入りました。その後、きれいに掃かれた墓地に入れて戴きました。


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(穴田さんの解説・養智院さんで)


(凡兆は、加賀の国の人。野沢氏とも宮城氏ともいわれ京で医者をしていたとか、剛毅な人、若い頃より俊英で、元禄3年ごろから芭蕉をしばしば自宅の招く、元禄4年に”去来“と「猿蓑」編むが、後に急速に芭蕉から離反したという・・・。芭蕉も一目置いたという人物だといわれていますが、何か事に連座して入獄、出獄後は大阪に移住するが、以後、精彩を欠いたという。)


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(凡兆さんのお墓)


(猿蓑:元禄4年7月3日編集の去来・凡兆編は俳諧の古今集であり、蕉門の最盛期の作品「奥の細道」以後の変貌した俳諧を発表したもので“凡兆”はその選者、自身の発句が芭蕉の句より多く42句を入集し秀吟が多いといわれている。全382句で芭蕉41句、去来25句他、其角25句、北枝2句。)


初しぐれ 猿も小みのを ほしげなり   芭蕉


また、こちらのお寺は、元禄年間、住僧元徹阿闍梨は号を”素然“といい、俳諧をたしなみ蕉門十哲の一人”支考”が来沢の折、金沢蕉門の“北枝”“秋の坊”等と寺の烏水亭で俳諧を開いたと伝えられています。


上行くと 下来る雲や 秋の天      凡兆


すいせんや 時にしらけて 涅槃経   素然


夏の橋 この川上や 菊と月       支考


凡兆のお墓は、五輪で現在は風化が激しく墓面の文字は全く分かりません。また句碑には、養智院の近く旧長門町で亡くなったと書かれているそうですが、よく分かりません。“凡兆”の甥に当たる養智院の“素然”が建てたのかもという言い伝えもあります。


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(養智院さんの凡兆所縁の扁額・小松砂丘書)


(凡兆の祖父弥三衛門は加賀藩で200石の台所横目であったが、残酷な話が「三州遺事」という文書に書かれていて、その文書によると、妻を殺害した侍女を“のこぎりひき”で引き殺し、磔にしたという。「三州遺事」は石川県立図書館協会刊)


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(片町スクランブル交差点にある”芭蕉の辻”の碑)


片町スクランブル交差点の”芭蕉の辻では、かって芭蕉が宿にした宮竹屋そして亀田薬舗の竹雀、小春兄弟を偲び、向かい側にあったという“小杉一笑”の「新七茶屋」に思い馳せながら交差点を渡り金劇前へ、騒音を避けるためガイドを囲い込み耳を澄ませました。


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(現在の芭蕉の辻)


(竹雀・小春は、兄弟で次男の竹雀(宮竹屋武富)は本陣蔵宿”宮竹屋”を継ぐ。小春(亀田勝豊)は三男で長兄勝則から家督譲られ亀田薬舗を継いだ。両家は近くにあり、その向い側に“小杉一笑”の「新七茶舗」が、その裏に、後に野町に移転する願念寺があったといわれている。)


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(現在の犀川大橋)


そして、芭蕉も通った犀川大橋を渡りました。


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(現在の犀川大橋から見える山々)


「途中吟」
あかあかと 日は難面も あきの風    芭蕉


今日は、謎の“凡兆”にのめり込みスペースと時間が足りなくなりました。
すみません。ここまでにします・・・。


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(養智院さん)


(坊守さんから、8月24日養智院さんの「地蔵まつり」のお知らせが、ご利益あり・・・です。)


(つづく)


参考資料:穴田克美さんの資料より


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