【中央通町→犀川大橋→寺町】
前回、凡兆にのめり込んで、後回しになった犀川辺りの芭蕉の足跡の続きです。私のブログにはもう何回か登場している犀川右岸の芭蕉と希因の“秋”と”春”の句碑を訪れました。大橋からだらだら下っていくと左側の木陰に小松砂丘の書で、高さ1m40cmの自然石に句が刻まれています。
初めに句碑が有ったところは、犀川大橋詰めの左岸で、元交番で交番が道路を隔てた下流側に移動したため、前にも書きましたが、小松砂丘さんが、犀川振興会へこの跡地に芭蕉の句碑を建立するよう働きかけたことがきっかけで、昭和33年、犀川振興会と金沢煎餅組合が市や県の援助を得て建立したしたものでした・・・。
(当時、たびたび雪すかしで除雪車に犀川に落とされたとか、それで現在地に移されました。現在、以前の橋詰めは、何とも不思議な三角形の駐車場になっていることからも何方かの私有地なのでしょう。)
(木陰に句碑2基)
当時の句碑建立の案内状には「芭蕉の秋風吟に配して金沢産の綿屋希因が名作、“芝舟や立枝も春や朝がすみ“を添へ春秋永く犀川の風景を宣掦観光金沢の一翼に寄与したい・・・”とあり、煎餅の“芝舟”と組む辺り砂丘さんの抜け目のないプロデューサーぶりも窺えます。
蛤坂を登ると、左側に斉藤一泉の庵があったといいます。その松源(玄)庵の旧蹟を訪ねました。今は民家になっていますが、その近くで、遠く戸室山や医王山、眼下に犀川の流れが一望できる駐車場で“秋涼し・・・”の推敲前の“残暑暫 手毎にれうれ 瓜茄子”について、そして、奥の細道にある「二十日快晴。庵ニテ一泉饗。俳、一折有テ、夕方、野畑二遊。帰テ、夜食出テ散ズ。子の刻二成。」の件の解説がありました。
(一泉は、幕府から罪を得て、前田綱紀公に預けらていた一柳監物直興の四国西条以来の家臣斉藤主税ではないかといわれていますが、詳しくは分かりません。奥の細道では、芭蕉を翌21日、臨済宗で生駒万子の菩提寺でる高巌寺の一草庵に案内しています。)
成学寺もこのブログではたびたび登場しますが、「秋日碑」と呼ばれる碑があります。碑の正面には“蕉翁墳”があり、左側は「あかあかと・・・」の句、右面には「宝暦五乙丑穐金城麦水連中建立」とあります。芭蕉の来沢後60年ぐらい宝暦5年(1755)には、小杉一笑追善句会が成学寺で行われていたと思い込まれていたことが窺えます。
(追善句会が願念寺だった事が判明するのは、その後ずいぶんたってのこと・・・。)
本長寺さんの芭蕉の句碑は、大正4年4月の建立で比較的新しいものですが、戸室石に書かれた碑文は痛みが激しく読めなくなり、昭和57年1月、地元の俳人で画家でもあった今は亡き”馬酔木”の同人黒田桜の園の書により改修されたものです。
芭蕉が亡くなる元禄7年の春、自画賛の句が金沢の立花北枝の送られてきたというもので、金沢蕉門一同が芭蕉の四十九日の忌に集い、この句を追善の席に掛けて追悼したという金沢に所縁のある吟です。また、季語が2つある芭蕉の句としては珍しい句でもあります。
「春もやゝ けしき調う 月と梅 芭蕉」
(大正時代の建立で、句空庵五世の今村賢外が建立したもの、当時、正岡子規が提唱した新派俳句に抗した旧派最後の大物の宗匠で、明治26年「俳諧新誌」の選者であったというが、本長寺との所縁は知りません。ご存知の方教えていただければ幸です。)
今回の最後は願念寺さんです。一日千秋の思いで芭蕉に会うことを待ち望んでいた小杉一笑。芭蕉も金沢の子弟に会うことを楽しみに・・・。その一笑の死を金沢到着の日に知り、芭蕉は驚きと悲しみは如何ばかりであったであろうか。曾良の「随行日記」には「一笑追善会、於○○寺興行」と空欄になっています。
(一笑のお墓)
よって成学寺、願念寺とも一笑の菩提寺あることを示す証拠をもっていなかったのですが、戦後かなりたってから、殿田良作氏が願念寺の一笑の墓を発見し、一応の結論が下りましたが、墓石には、表「釋 浄雲 浄誉」右面には没した年よりかなりの後の「天明七丁未初春茶屋新七」と刻まれています。また、自然石に「一笑塚」その右に“心から 雪うつくしや 西の雲”の一笑の辞世が、金石の蔵月明氏の筆で刻まれています。
「つかもうごけ 我泣声は 秋の風 芭蕉」
(昭和42年8月に建立され碑は、那谷寺にあった芭蕉の真筆の色紙が、その頃、市内の料理屋に残っていたかことが分かり、その書を高さ1m20cm、幅30cmの御影石に刻み、子孫の小杉潔氏によって建立されました。)
金沢の芭蕉の句碑は、古いものから順に、成学寺、野蛟神社、兼六園、宝泉寺、上野八幡神社、田井菅原神社、本長寺、本龍寺、犀川河畔、願念寺、長久寺で、今回上げた句碑も含めて11基です。
参考資料:穴田克美さん資料・「金沢の文学碑」著者金沢の文学碑編集委員会、昭和43年発行