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卯辰山⑧どじょうの蒲焼

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【卯辰山】
金沢では、この時期夏を告げる風物詩といえば“氷室のまんじゅう“が良く知られていますが、いま一つ、忘れられないものに甘辛いタレで焼かれた“どじょうの蒲焼“があります。今では近江町市場にも何軒かあり年中焼かれていますが、昔はあちこちの街角にもあり、お店によっては、普段は別の商売をしていて、この時期だけどじょうの蒲焼屋を開くところもありました。


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(近江町の蒲焼屋)


泥鰌(どじょう)は、今も根強い人気の夏のスタミナ食ですが、栄養面でもカルシュウムは魚類の中で最も多くうなぎの何と9倍近く、鉄分はほうれん草より多く、ビタミンB2はレバーに次ぐ多さで、ビタミンDも豊富で、滋養強壮、疲労回復、はもとろん二日酔いにも効果があるといわれています。


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(1本100円のどじょうの蒲焼)


蒲焼!!子供の頃、私は“どじょう”の事だと信じて疑いませんでした。その頃にも市内の広坂通りには、鰻屋もあり名前も知っていましたが、入った事もありませんので、当然、鰻と蒲焼が結びつきません。それより何といっても高価な鰻は家庭の食卓にはのることもなく、蒲焼といえば“どじょう”だと思い込まされていました。


(味は、焦げとタレの味が強くて、一寸苦味もあり、これがどじょう~といつも思って食べていましたが・・・癖になる味で、これを食べないと金沢の夏が始まらないように思っていました。)


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(横山町の蒲焼屋)


どうも金沢での“どじょうの蒲焼”の起こりは、明治初期に長崎から流されて来た浦上村のキリシタンによるものだいうのが、もっぱらの伝説になっています。伝承では当時卯辰山に軟禁されていた彼らの禁が少しゆるんできた頃、少しでも栄養をつけようと小川で獲った“どじょう”を蒲焼にしたそうです。やがて、それを麓の界隈に売り歩いたことが起こりだというのです。


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(織屋跡・現花菖蒲園)


少し調べてみると金沢の郷土史家和田文次郎氏(1865~1930)のお書きになったものに、、長崎から金沢へ明治2年(1869)に預けられ同6年(1873)に帰されたキリシタンが街中で売り歩いたことにあるとし、その味は、すぐさま金沢の人々の舌を魅了し、その後、大正時代に入ると盛んに作られたとあります。


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(左の道を下ると湯座屋跡)


また、和田文次郎氏が大正から昭和にかけて執筆した「稿本金沢市史」の中では、“どじょうの蒲焼“は“奴豆腐”や“いなだ”と並ぶ金沢の「お盆」の味として書れていて、他に「金沢にては、土用に餅を食い、武家には“鰻”を食い、町屋には“どじょう“を食うを例としたが、今は”どじょうの蒲焼“を”鰻“に代わって食べられる」というようなことが書かれています。


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(長崎キリシタン殉教者の碑への)案内標識

この背景である卯辰山のキリシタン幽閉は、明治期に入り、幕府のキリスト教禁令政策を受け継いだ明治政府により、長崎の浦上村に住んでいたキリシタン住民が金沢市郊外の卯辰山に流されています。浦上のキリシタンが収容された場所は、幕末の卯辰山開拓の跡地で、廃屋になっていた湯座屋跡と織屋跡が当てられたといいます。


昭和43年(1969)8月11日、カトリック金沢教会では「長崎キリシタン殉教者の碑」を建て、碑には「義のため迫害される人は幸せである。マテオ第五章十節」と刻まれています。


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(金沢カトリック教会)


この後、何回になるか分かりませんが、不本意ながら死を覚悟し、金沢に流され、過酷といわれるキリシタン弾圧でも信仰を翻さかった浦上村キリシタン500余名のお話の幾つかを伝えことにします。


(つづく)


参考文献:「キリシタンの記憶」木越邦子著2006・10月、桂書房発行ほか


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