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卯辰山⑦一本松

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【卯辰山】
今、3代目の“一本松”が卯辰山工芸工房のすぐ下に寂しく立っています。しかし藩政期には堂々と城下を見下ろしていたことでしょう。文書によると宝泉寺の“五本松“と並び称せられる向山(卯辰山)を象徴する存在だったようです。


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(3代目の一本松)

慶長5年(1600)加賀藩の太田但馬守長知の家来で、浅井畷の合戦で勲功があった槍の名人井上勘左衛門が亡くなり、寛永2年(1625)に、その灰塚に植えられた松だといわれています。藩政期を通し金沢の名所として知られていて、度々俳句などに詠まれ、元禄期の俳人立花北枝の”一本の 松の力や ほととぎす“や”木枯らしや 卯辰の松の 年とわん“という発句が伝えられています。


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(一本松の解説)


加賀の柴野美啓が著した「亀の尾の記」には、一本松あたりは「春秋遊山人多く、茶屋をかけ、今は金城名所の其の一となり」と書かれていたり、幕末の町人の日記「梅田日記」の解説に若林喜三郎氏は“当時、市民の行楽地についてみると、何といっても卯辰山が第一で、その中心は一本松であった”と書かれています。


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(藩政期の一本松)


当時、この辺りは春夏秋冬の行楽の目標となっていたようで、梅田日記の中にもしばしば書かれ、観音院から庚申塚を一巡して一本松に出るというコースで、この辺り(今の一本松から卯辰山工芸工房辺り)で野宴を開いたと書かれています。以後、戦前まて蓮如忌ともなると多くの市民が野宴を開き賑わったといいます。


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(今の卯辰山工芸工房)


(藩政期、卯辰山は登山禁止と伝えられていますが、確かに軍事的には重要な山で、鉄砲を撃つことや幕張は禁止されていたそうですが、藩政後期、文政11年(1827)には金子鶴村が庚申塚から一本松まで山遊びをし、前出の梅田日記などでも山に登っています。そして今のところ登山の禁止令は見つかっていなと聞きますが?)


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(一本松からの眺望)


初代の一本松については、地元の方が父親から聞いたという記述が平沢一氏の「卯辰山と浅野川」に書かれています。その記述によると「幹の外周は男帯3本分(12m位か?)木の中は空洞になっていたそうで、明治23年(1890)2月23日、乞食が中に入り暖をとるため火を焚き、それが火事になり3日3晩燃えたと書かれています。


(一説には、行楽客の焚き火による失火ともいうのもあります。)


その後、植えられた2代目は昭和54年(1979)に枯死し、現在の3代目は平成10年(1998)に植えられています。


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(すく横に、宇多須神社の奥社があります)


一本松には、もう一つの伝承があります。真偽はともかくこの辺りに伝わる一連の”義経伝説“に繋がるもので、何と奥州に向かう源義経主従が安宅の関を通り過ぎ、この地で休息し、袈裟をこの松の木に掛けたことから「袈裟掛けの松」と呼ばれたといわれ、何時からかは分かりませんが、地元の人々は親しみを込めて、そう呼んでいたといわれています。


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(鹿島神社)


多分、近くにある義経伝説「鳴和の滝」になぞらえての伝承のように思えますが、この近くにはその時、矢尻を洗った川だというので「矢根川」という義経伝説も語り継がれています。


(鳴和の滝とは、「安宅の関」から逃れてきた義経主従がここまでくれば一安心と、今の金沢・鳴和の鹿島神社で休憩します。そこへ弁慶の知恵と義経の勇気に感服した安宅の関守富樫泰家がやってきて地元の酒を差し入れ、その酒で義経主従と富樫は宴を開いたといいます。)


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(現在の矢根川)


謡曲「安宅」では、弁慶が“これなる山水の、落ちて巌に響くこそ、鳴るは瀧の水(勧進帳より)”と舞ったといます。弁慶が舞っているそばには見事な滝が流れており、この滝は「鳴和の瀧」と呼ばれ、それがこの地“鳴和”の地名の由来となったといいます。


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(筧から一筋流れる水)


当時は見事な滝だったそうですが、今は、音のわりには、控えめに一筋ひっそりと流れ落ちています。


参考文献:日置謙編「加能郷土辞彙」平沢一著「卯辰山と浅野川」など


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