【金沢市南町~野田山墓地】
一昨年、茶道遠州流の祖であり前田家との深い交流があったという小堀遠州の流れを汲む2家の墓地(本家新十郎、分家孫兵衛家)および屋敷跡などの所在が確定され、この度、関係遺跡の整備保存と先人の遺徳を偲び広げることを目的に”遠州一族遺跡保存会“の設立が成り、5月6日、発会式と屋敷跡に建てられた石碑の除幕式、遠州茶道宗家十三世不傳庵小堀宗実家元の講演会などが行われ、ご縁があり参加させて戴きました。
午前9時から、バスで有志と整備された野田山の墓地に詣で、あと、南町のニューグランドホテルアネックス前の小堀新十郎屋敷跡に建てられた石碑の除幕式、さらに、ホテルのすぐ隣の金沢市文化ホールの茶室「閑清庵」で記念茶会に参加させて戴きました。
引き続き、発会式、保存会の結成に際し名誉顧問に就任された遠州茶道宗家十三世不傳庵小堀宗実家元の金沢で初めての記念講演会が行われました。予想以上だという約300名の参加者は、家元の深い見識と実のあるお話に聞き入りました。
(家元の講演会①)
お話は、遠州の生い立ちから始まり、遠州と前田家、遠州流の茶道、小堀遠州の人物と総合芸術家としての遠州の美意識に至るまで短い時間に関わらず、素人にも分かるように話して戴きました。とはいえ、私自身、どれだけ消化出来たかは分かりませんが、以下、特に私が関心を持った幾つかのうち一つでも二つでも心に刻めればと思い記しておきます。
「ご機嫌よろしゅうございます」
家元の耳慣れない挨拶に、場違いなところに来てしまった!!と只々畏まってしまいました。“どうぞご機嫌よくお過ごしください”という相手を気遣う気持ちが込められた言葉だそうで、今よくいわれる”おもてなしの心“だとか、お茶の世界では当たり前の言葉で、意味はともかく、意識過剰かコソバしく気恥ずかしく思いましたが、お話に入るとすぐに忘れてしまいましたが・・・。
「すぐに応える遠州」
前田家の3代利常公、4代光高公とは「茶の湯」の師弟関係であり、また、前田家は後ろ盾でバックアップする関係だったそうで、茶の湯については道具の鑑定や設えから、お点前に至るまでこと細かく質問した往復文書が残っているそうです。家元の話によれば遠州はすぐに応えていたそうです。そして、当代(ご自身)は瞬時に応えているとおっしゃっていまいた。
(千宗室が30歳にして、前田家に仕官出来たのは、遠州によるもので、遠州と前田家の関係は頼めば何とかなるという間柄だったとか。)
「綺麗さび」
遠州は和歌や藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れ、幽玄・有心の茶道を創り上げ「綺麗さびの茶の湯」と評され、天下第一の茶匠の地位に上りつめ、武芸茶人の筆頭に挙げられました。徳川将軍家茶道師範を得て、「格より入り、格より出る」ことを主義としたそうです。
「織理屈 綺麗キッパは遠江 お姫宗和に ムサシ宗旦」
織部は理屈っぽく、切れ味のよい刃物のようにきっぱりしているのは遠州、お姫様風の華奢好みは宗和、わび茶に徹しているのは宗旦。利休はありませんが、そぎ落としたシンプルで、遠州はそれに近いがさらに品格が、とおっしゃっていました。
(宗旦(金沢に来た千宗室の父)の“ムサシ”はむさいのむさしらしい・・・。)
「遠州の造園」
遠州は日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとも謳われる、総合芸術家で建築・作庭家でもありました。作庭の特徴は、様々な切石を組み合わせた大きな畳石と正方形の切石を配置した空間を作ったこと、反りのない石橋を用い直線と組み合わせることにあります。シャープな直線と曲線の組み合わせ、自然石と切り石との組み合わせなど、京都の清水寺成就院庭園、円徳院庭園、金地院庭園、南禅寺方丈庭園や和歌山の天徳院庭園。そして金沢城の庭園も手がけたといわれています。
(除幕式④)
「満つれば欠ける」
満月になるとともに欠け始めた月がほどなく三日月となるように、物事は、絶頂期に達すると同時に下り坂になるのが世の道理です。ということから、満月より前日の方がいいという、ゆわゆる不足の美は、不足を心で補うということらしい。
「余白の美」
南禅寺の白砂を例に余白の美を語られました。相手に対して心を預けるということで、完全なものより見た人の想像力を喚起するというか、相手の心を引き取っていくということで、遠州は役目で様々な人々と交わる中で会得したものであろうとおっしゃっています。
その他、保存会の会長に就かれた本多家15代当主本多政光氏の加賀本多家との関わりや藤堂高虎、禅の春屋宗園のこと等々、短い時間に、盛りたくさんの消化できない多くの宿題を戴き帰ってきました。
PS:お家元は約400年前に分家した一族に心を砕き、わざわざ金沢にまで足を運ばれ、墓参や講演会までなさった懐の深さに唯々感心するばかりです。
ご機嫌よろしゅうございます。
有難うございました。