【山ノ上町→下新町】
今更、私がいうまでもありませんが、松尾芭蕉が高岡から倶利伽羅を見て金沢に着いたのは元禄2年(1689)7月15日(8月29日)でした。馳せ参じた金沢の俳人たちは、7月24日(9月7日)芭蕉が金沢を立ち去るまで、もてなし、句会を催し、芭蕉の心を会得しようとつとめ、金沢の俳壇が、芭蕉一色に塗潰された観があったといわれています。
そして芭蕉が「奥の細道」を完成させた同じ年の元禄7年(1694)旅に病み不帰の客となると、その門人たちは各地に句碑を建立して、亡き師の心を石碑にとどめようとしたといいます。金沢においても、長きに渡って芭蕉の足跡を標す句碑が建立され、今もお寺の境内や道端に残されています。
句碑の場所は、言い伝えや所縁の人々によってそれなりの所に建立されたものですが、散策しながら何時も思うのは、どの句碑の前に立っても芭蕉やその門人たちが、その辺りにいるような思いに駆られ、感慨深いものがあります。
10日。久しぶりに仲間達と、句碑巡りしました。今回は浅野川辺りで、句碑だけではなく、芭蕉所縁の人々やその界隈に残る史実や言い伝えをお互いに語り合うもので、金沢の芭蕉の足跡を知り尽くした穴田克美さんを中心に25人、好天に恵まれ和やかな散策会になりました。
浅野川辺りとは、小坂神社より“心の道“を逆回りして、あめや坂(光覚寺)心蓮社、妙国寺、全性寺、蓮昌寺、宝泉寺、観音町、新町まで、参加者の知識を交換しながら、とは言っても、当然ですが結論はもちろん議論も進展せず、それでも楽しく有意義な2時間でした。
≪小坂神社≫
石碑は石段を登って行くと右側の木陰に、昭和24年(1949)金沢蟻塔会建立の碑で、正面に「芭蕉翁巡錫地 紅果」 と刻み、側面には北枝の句「此の山の神にしあれば鹿と花」と刻まれていますが、今はかなり剥落しています。句は「此の山の神にしあれば鹿と月」という説もあります。
(塩田紅果は、芭蕉の生誕地である上野に生まれ、弁護士・歌人、本名塩田親雄。若いとき作家を志したが父の反対にあい、判事になりました。昭和2年(1927)「蟻乃塔」を創刊。金沢蟻塔会を主宰しました。小坂神社の石段を登り詰めると本殿左手前に紅果の句碑が有ります。)
≪あめや坂≫
飴買い幽霊伝説の光覚寺前の坂は昔から“あめや坂”といわれていました。芭蕉等は7月15日この坂を下り小橋辺りに宿を取ります。曾良の随行日記には“・・・京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑へ通ズ、艮刻、竹雀・牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死亡ノ由・・・“とあります。
≪心蓮社≫
蕉門の十哲立花北枝の墓と句碑、そして芭蕉没後60年、京都に芭蕉堂を興した金沢の高桑蘭更の墓もここにあります。
「しぐれねば また松風の ただをかず 北枝」
「枯葦の 日に日に折れて ながれけり 蘭更」
≪妙国寺≫
江戸後期、京都の芭蕉堂二世を継いだ成田蒼虬(元加賀藩士400石)の墓があります。
「ゆく春は 筏の下に かくれけり 蒼虬」
≪全性寺≫
通称赤門寺、鏡花所縁のお寺で、この山門には”大草鞋“の奉納があります。鏡花も芭蕉を意識していたのであろうか・・・。芭蕉の仙台に訪れた折、あやめを藍染緒の草鞋に結んだ・・・。
「あやめ草 足に結はん 草鞋の緒 芭蕉」
≪蓮昌寺≫
北枝とは言い争いが絶えなかったという“秋の坊”は僧寂光と称し、初め蓮昌寺境内にあった末寺に住み蓮昌寺住職の弟子だったという。
「正月四日 よろずこの世を 去るによし 秋の坊」
(この句は、6年も前の正徳2年(1712)に開版された金沢の百花堂文志編「布ゆかた」に、「正月四日 よろずこの世を 去るによし イセ凉菟」が載っているとか・・秋の坊は死に際し、思わずと口に出たのでしょうか・・・。)
「ひと雫 今日の命ぞ 菊の露 梅室」 上の写真
「屋の棟に そうて殖えけり 梅柳 梅室」 下の写真
≪宝泉寺≫
俳諧を蘭更に学んだ金沢生まれの桜井梅室の句碑があります。また、曾良の随行日記に、元禄2年(1689)7月21日寺に遊ぶ・・・というのがあり芭蕉はこの日、柳陰軒の句空を訪れたのだろうか・・・。
「散る柳 あるじもわれも 鐘を聞く 芭蕉」
≪観音町≫
芭蕉から北枝そして綿屋希因へと受け継がれた加賀俳諧ですが、希因は酒造業と銭屋をこの観音町で営んでいたといいます。
「芝舟や 立枝も春や あさがすみ 希因」
≪新町≫
元禄2年(1689)7月17日、新町立花北枝の源意庵の句会にて、芭蕉が発表した句は・・・。
「あかあかと 日は難面も 秋の風 芭蕉」
穴田克美さんは、話の内容も深く素晴らしい、そして語りも上手。次回、金沢の犀川辺りから寺町界隈の芭蕉の句碑を巡ります。
(つづく)
参考資料:穴田克美さんの資料を参考にしました。