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卯辰山⑩浦上村キリシタン(その2)

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【卯辰山織屋跡・湯座屋跡】
キリシタン信徒は生きて再び浦上に帰るなどとは思いもよらなかったらしく、どこかへ連れ出されて殺されると信じていたようです。着の身着のまま12月4日に船と大雪の中の陸行で金沢に到着。第一弾の戸主を中心とした114人の男子は、その頃、廃屋になっていた卯辰山の織屋跡に収容されます。


(途中逃亡者も出ますが、大聖寺から金沢まで、彼等キリシタン信徒は行きかう人から穴の明くほど顔を眺められ、天狗か化けもの扱いで「耶蘇マも同じ人間じゃないか。目もあれば、鼻もあり、耳もあり、口もあるよ」いわれたという、また、ものの分った堂々とした役人もキリシタン信徒を牛馬扱いにして、人員を調べる時は「一匹、二匹、三匹」と数えたそうです。)


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(織屋跡・花菖蒲園)


記録によると、一行は織屋跡の2階建ての建物に連れてこられ、1階には老人を、2階は壮年が住むことになります。間取りは広く、部屋には新しい畳が敷かれていて、布団は山と詰まれ、火鉢には炭火がさかんにおこしてあり、鉄瓶の湯は音をたて、たぎっていて、一行には思いもかけぬ厚遇だったと書かれています。


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(この下が織屋跡)


彼等キリシタン信徒の生活は、1日に3,4回大声をあげて、お祈りをするのが日課で、食事はそれほど悪くなく、量は1食分が黒塗り碗に1杯。副食は朝夕茄子の糠づけが三切れ。昼は水のように薄い味噌汁、時に“にしんの塩漬け”か“いわしのかす漬け”がでたと書かれています。



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その第一弾のあと、12月8日、後続の410人が金沢藩の猶龍丸で玄界灘を通過して、12月12日七尾に到着し、雪が止まらないので3日後に出発して、1週間ほど歩いて、卯辰山湯座屋跡へ22日~23日に収容されました。


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(金沢ユースホステルの裏の谷に湯座屋跡が)


翌年になると、“はしか”がはやり42人の子供が亡くなり、その後“腸チブス”が伝染しますが、病院での手当で死者は3人ですんだといいます。


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(石川舜台)


8月に入ると金沢藩の仏僧による説得がはじまりました。漢訳の聖書を読み、キリスト教の教理にも通じた高僧、松任本聖寺の松本白華や金沢の永順寺出の石川舜台等が棄教への説得にあたりますが、無学であっても信仰強固な浦上の農民たちには通じなかったといいます。


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(木越邦子著「キリシタンの記憶)


(卯辰山のキリシタンについては、平成18年(2006)に発行された木越邦子著「キリシタンの記憶」に詳しく書かれています。この記事のほとんどは木越邦子さんが、永年にわたってお調べになった貴重な記述からの引用です。)


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(キリシタン殉教者の碑)


一方で、藩政期2030石の上級武士長屋八之門(後長尾)は、卯辰山に幽閉されたキリシタンの監督を命じられ、彼等に接することで、キリシタンの信仰生活に敬服します。幽閉の身ながら憂いも憎しみも悲しみも表すことなく重労働に耐え忍んで行く信仰の偉大さに強く心を打たれたといいます。


明治維新によって武士から髷を切って士族になり、改名し長尾八内になった八之門は、紆余曲折の後、明治13年(1880)51歳で洗礼を受け、金沢での第1号のキリスト教徒となり、その後、労苦の連続のなか多くの貧民を救ったという話が伝えられています。


(次男長尾 巻も、父同様キリスト教の伝道師になり、世界的に著名な伝道家賀川豊彦に「神に酔える伝道家というより愛の芸術家と言った方が相応しい。」といわせたと伝えられています。)


参考文献:「キリシタンの記憶」木越邦子著2006・10月、桂書房発行ほか


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