【卯辰山湯座屋跡・織座跡・卯辰山養生所跡】
平成10年(1998)10月15日。国道159線卯辰山トンネルの工事現場から身元不明の人骨が発見されました。年代については、江戸末期から明治期にかけてのものだろうということで調査に入ると、明治2年(1870)から金沢に送られ明治6年(1874)に長崎に帰る浦上村キリシタンの死亡者103名の1部である可能性が極めて高いという事が分かりまいた。
(人骨の数は、40体。その内22体は女性で残り18体は不明で、幼児は5歳以下、成人は60歳まで、成人の身長は145cm前後だといいます。)
(地図によると山側環状線の卯辰山トンネル管理棟から北西の約200m山に入ったところ)
卯辰山の浦上村キリシタンの幽閉については、前に“卯辰山⑧どじょうの蒲焼”のところで少し書きましたが、明治2年(1870)の浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)といわれるキリシタン弾圧で、江戸時代末期から明治時代初期にかけて長崎で起きた大規模なキリスト教信徒への弾圧事件によるものです。
明治維新で、江戸幕府のキリスト教禁止政策を引きついだ明治政府の手によって村民たち約3700人が、当時の政府の支配領域である富山以西の10万石以上の藩には流罪とされ、金沢には2回に分け516人が送られてきました。(北陸では富山、金沢、大聖寺)
当時金沢では、やってきた浦上村キリシタンを、織屋跡、卯辰山養生所跡、湯座屋跡、奥のトキエなどの卯辰山の山中の牢屋に幽閉します。飢餓と拷問の苦しみを受ける浦上キリシタンたちを垣間見た一人の外国人がその様子を英字新聞に告発されたのがきっかけとなって諸外国の激しい非難を受けます。言い逃れできなくなった政府は富山・金沢・大聖寺の各藩へイギリス大使と外務省による現地調査を実施されます。
その頃、欧米へ赴いた遣欧使節団一行は、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていることに驚き、本国に打電したことから、明治6年(1874)にキリシタン禁制は廃止され、慶長19年(1614)以来259年ぶりに日本でキリスト教信仰が公認されることになりました。
(ちなみに、「浦上一番崩れ」とは、寛政2年(1790)から起こった信徒の取調べ事件、「浦上二番崩れ」は天保10年(1839)にキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件、「浦上三番崩れ」は安政3年(1856)に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ、拷問を受けた事件のことです。)
織屋跡、卯辰山養生所跡、湯座屋跡は、幕末金沢藩による「卯辰山開拓」の施設跡で、織屋跡は織物工場として建てられましが、維新後開発は中止され、2階建ての建物は空き家となっていたところに浦上から金沢に流された、おもに戸主によって編成されたキリシタン123名(浦上出発時は124名であったが1名が途中脱走)が、明治2年12月(1870・1)から収容されました。
(殉教者の碑の付近図)
卯辰山養生所跡は金沢藩が建てた病院の跡で、明治5年(1873)6月、大聖寺から移動を命じられた者たちが収容されたといいます。
湯座屋跡は、金沢ユースホステルの裏手に在る谷間で、今の末広運動場横の坂道を下った先にあります。現在建っている興川貞次郎紀功の碑の手前にあったという収容所は「卯辰山開拓」の薬湯の浴場跡で、戸主たちの家族、400名以上が収容されたそうです。
奥のトキエは、二重柵をした16間に4間の牢獄で、改宗の説諭の応じない中心人物が収容され、12月の雪の中、今までの着衣をはぎとり、袷一枚着ただけ寒ざらしにしたと伝えられています。
今回の終わりとして、写真では見づらい、「長崎キリシタン殉教者の碑」の脇にあるカトリック金沢教会建立の由来解説の文章を記します。
「長崎キリシタン殉教者の碑・キリシタン弾圧で信仰を翻さなかった長崎の浦上村キリシタンのうち、政府による明治2年(1869)の金沢藩預けの五百余人は、明治6年(1873)に送還されるまで、卯辰山の花菖蒲園と湯座屋跡の牢舎に幽閉されていた。その間、百余人が折檻、飢餓や病魔で命を落とした。・昭和43年(1969)8月11日、カトリック金沢教会は、このことを後世に伝えるため、ここに碑を建立した。」
(つづく)
参考文献:「キリシタンの記憶」木越邦子著2006・10月、桂書房発行ほか