【金沢城下】
父、4代藩主光高公が急死により正保4年(1648)綱紀公は、祖父利常公の後見で3歳の時、将軍家光公の命で父の遺領を継ぎます。襲封した綱紀公は、それから実に在職79年。享保8年(1720)81歳で将軍吉宗公に退老を願い出て、翌9年(1721)江戸本郷邸で死去し、柩は金沢に移され野田山に葬られました。ときに82歳、法号は松雲院徳翁一斎居士といいます。
話は突然、お金の話に飛びますが、時代は、幕府が諸大名の財産に神経質で、浪費を望み、祖父利常公の浪費もそれに添ったもので盛んに浪費をしますが、出入りの計算が出来る利常公は、一時、借金はあっても、返済の道を考えながらの消費であったようで、綱紀公にはその配慮がたりなかったらしく、ついに開かずのはずの御金蔵に手を付けています。
その開かずのはずの御金蔵とは、利家以来の貯銀で、城内の本丸の大獅子・小獅子の二つの御金蔵に収蔵されたものですが、利家公の直封で、軍用のほかは用いない掟となっていたそうです。その金額は、俗に9億8000貫といわれていますが、それは少し過大で、後に学者がその後の消費額から逆算して、10万貫余りと見積もられています。そして、このドル箱に初めて手を付けたのは綱紀公であったといいます。
(当時の1貫目を、分りやすく仮に現在の170万円に置き換えると、9億8000貫は約153兆円(今の日本の税収の約3,5倍?)、10万貫では約1700億円か?)
消費には一時的のものと、永久的なものがありますが、いずれにおいても綱紀公の大消費は桁はずれてあったようです。それが後に浪費家で贅沢大名だといわれている所以ですが、業績もまた桁はずれで、前にも図書の収集や御細工所など、学事業績を上げましたが、治世に関しては、今回は詳しくは書きませんが、列挙すると改作法の完成、加賀八家と職制の改革、藩士の救済、難民救済、農政統制、非人小屋の創設、国産奨励、等々。綱紀公の藩主としての79年間は名君といわれるのにふさわしい業績を積み上げています。
御金蔵役人田辺忠左衛門の明和8年(1771)11月の上書によると、綱紀公の時、引き出して消費したものは、後にその分は返納したといわれていますが、綱紀公の死後50年後、6代の吉徳公、そして若くして亡くなる3人の藩主を経て10代藩主重教公が冶脩公に藩主を譲る明和8年(1771)には、ついに返納はできず、すっかり御金蔵は空なっていたといいます。
当時、父の遺知450石を継いで御郡奉行や改作奉行をつとめた高沢忠順の「改作所旧記」には、綱紀公の治世のもう一つの側面が浮かび上がらせています。少しだけ紹介しますと・・・。
綱紀公在職中の万治2年(1659)から寛文5年(1665)までに、金沢城下の諸屋敷や地子町の拡大は、30万歩の田畠を失うことになり、さらに御長柄小者や足軽や御歩の召抱えや役小者など町に住む者が多くなり、それらは農民出のものが多く、農村人口の減少からの損失が、かなり影響したものと思われます。
農政も利常公が心血を注いで作り上げた改作法がゆるみ、せっかく利常公の仁政も、ただ年寄りからとりあげるだけで、人民の恨みを買う結果となり、また、奉行らの勤めぶりも表面の体裁を整えるばかりとなっていたといいます。
(現存する金沢城三十三間長屋)
綱紀公の業績として高く評価され他国に例のない「非人小屋」についても、その御慈悲をたたえながらも、高沢忠順は、乞食が出てからその対処をするより、凶作と災害対策の手抜きなど農政全般のゆるみを是正するのが先決であるといっているとか。(ご尤も・・・)。
高沢忠順は大変な勉強家で、過去65年もの改作所の記録を抜粋収集し、「改作所旧記」を表し、その剛直な意見は、天明5年(1785)財政に関する遠慮のない建議がたたって閉門を仰せつかり、翌年御免になったといいます。
何時の世も、芭蕉じゃないけど“物言えば唇寒し”ということ・・・か。
参考文献:人物叢書「前田綱紀」若林喜三郎著 株式会社吉川弘文館・昭和36年発行