【金沢城下】
加賀藩には、9人のお殿様がいるといわれていたとか・・・。 天和4年(1684)正月、前田綱紀公は旧名の綱利を改め、その年の貞享元年(1684)11月将軍綱吉公より加越能三州に封ずるとの朱印状を受け、翌貞享2年(1685)、「由緒書上帳」を提出しています。こうした中で、貞享3年(1685)11月に綱紀公は加賀藩の藩政最高機関の職制を定めます。
定められた職制によると、他藩でナンバー2以下を家老といいますが、加賀藩では年寄(加賀八家・人持組頭)がいて、家老は年寄の下で、官僚の仕事をしました。それは戦国時代の軍制をそのまま行政組織として整えたもので、臨戦体制に応じられるようにしたので、組という軍役の名称がついています。
加賀藩の年寄は月番、加判制がとられ、合議で重要な決定事項を決めていました。時代が下るにつれ藩主の意志は直接には反映されず、そういった官僚構造は幕府の老中機構もよく似た構造で有ったものと思われます。
この綱紀公による加賀藩の職制の整備では、本多政長、前田孝貞(長種系)、奥村庸礼、奥村時成の4人を大老(大年寄)に、前田直作(直之系)、長尚連、横山英盛の3人を人持組頭に任命されます。これより藩の最高機関は、大老―人持組頭―若年寄の順が決まりました。そしてこれらの7人が七手頭として、藩政全般の取まとめ役に当たるようになり、その後、元禄3年(1690)に村井親長を加えて同列とし、これより加賀八家の制度が成立しました。
(七手組とは、軍事組織で、前田家は天正期から約70家あった人持を7隊に分け、7家の地位ある重臣が、一つの組の組頭を務めていて、その下に平士が付くという軍事態勢でした。)
≪加賀八家の来歴≫
本多家(5万石):初代政重は徳川家康の重臣正信の2男で、前田利長公に仕え、その後米沢へ行き、再任して利常公に仕えました。慶長19年(1614)に利長公の隠居料などで幕府から疑問が出されたおり、縁故をたより幕府と前田家の間を奔走し、前田家の危機を救っています。
長家(3万3千石):初代連龍より代々能登の守護畠山家に仕え、後、織田信長公より鹿島半郡を与えられ、利家公が能登に入封すると利家公の与力となり、関ヶ原の戦いでは、浅井畷では丹羽長重軍と戦い戦功を上げています。
横山家(3万石):初代長隆は、利家に仕え、賤ヶ岳の戦で戦死。2代長知は、慶長4年(1599)9月、利長公が家康から謀反の嫌疑をかけられたとき、弁明のため家康との交渉にあたり、和解に成功しました。
奥村宗家(1万7千石):初代永福は、尾張荒子で利家の父利春および兄利久に仕え、後、利家公に仕え、越中、能登と利家公に従い、末森城の戦いでは、佐々成政と戦いこれを破り、前田家の危機を救いました。
(奥村宗家跡)
奥村支家(1万2千石):初代易英は永福の2男で、父と末森城で戦い、大阪冬の陣で活躍し、初代藩主利家公から60余年、2代利長公、3代利常公、4代光高公に仕えました。
村井家(1万6千石余):初代長頼は、利家公の召抱えられた最初の家臣で、13歳で仕え、以来緒役に従い、特の越中蓮沼で佐々成政軍と戦い功を上げました。また、利家公死後、慶長5年(1600)の芳春院が江戸へ人質として赴くとき、これに従いました。
前田家長種系(1万8千石):前田家の本家筋といわれ、利家公の長女幸の嫁ぎ先。後の3代藩主前田利常公の幼少時養育しました。
前田家直之系(1万千石):前田直之の父利政は、利家公の2男で関ヶ原の戦いの後改易されたため、祖母おまつの方(芳春院)に引き取られ金沢で養育されました。藩祖前田利家公と芳春院の直系であったため、代々、子孫は加賀藩中でも別格の家柄とされました。
(本座者は奥村2家、村井家。新座者(府中以来)本多家、横山家、長家。前田家長種系、前田家直之系は、藩主の一族。)
それから、叙爵の推薦を受けるのもこの八家からで、位は従五位下にきまっており、これを陪臣叙爵(ばいしんじょしゃく)といいます。江戸時代通してとなるとその陪臣叙爵があったのは、徳川御三家と加賀前田家だけでした。
加賀前田家では最大4名の叙爵陪臣で、八家の中で最大五万石の本多家と、宗家に近い前田(直之系)家の二家が別格として優先されてほぼ常に叙爵されていたといいます。
参考文献:人物叢書「前田綱紀」若林喜三郎著 株式会社吉川弘文館・昭和36年発行
など