【東山界隈】
残暑も厳しい8月26日の午前中、まいどさん会員の40人が集まり勉強会です。今回で4回目の“金沢二十五天神巡り”ですが、何しろ今から260年も前の宝暦2年(1752)菅公850年祭に城下の二十五の天神を巡り俳句集「北の海」を編み、田井天神社に奉納したという記録に基づく寺社巡りのため、現存しない寺社もあり、今回は天神さん所縁の3つの寺社と寺社の跡地、界隈に残る川、道筋、最近、“心の道“に加えられた神社、そして旧卯辰村界隈を巡りました。
(乗龍寺と西養寺の間を流れていた水の谷川・戦前はここで洗濯もしたらしい)
≪260年前の金沢二十五天神≫
1玉泉寺(泉野菅原神社)→2 西方寺→3真長寺→4願行寺( 祇園摂社)→5 成学寺→6宝来寺(小橋菅原神社)→7宝久寺(犀川神社)→8常光寺(豊田白山神社)→9 成応寺(長田神社)→10出雲寺(豊田白山神社)→11放生寺→12 顕証寺(平岡野神社)→13灯明寺→14持明院(白髭神社)→15 安江社(安江八幡宮)→16 崇禅寺→17浅野社(浅野神社)→18神明社(小坂神社)→19乗龍寺(妙義社共々隣の西養寺に合併)→20来教寺→21 咸応寺(現松尾神社に移安)→22卯辰八幡(現在の宇多須神社)→23天道寺(浅野川神社)→24 乾貞寺(廃寺)→25 天満宮(椿原天満宮)
19乗龍寺の妙義相殿の跡地(東山2丁目)天台宗
山号は光明山。のち瑞雲山松寿院。西養寺の隣、水の谷川を隔てた地にあり、日御子大明神(現鶴来町日御子)の社僧時代、城の祈祷をして利常公の書を受け、城内の東照宮建立の折に、神役(神職)を併せ務め、妙義社も祀りました。後に乗龍寺も妙義社も西養寺に合併し、明治2年社号を廃止した。乗龍寺からの伝来は不明です。
(群馬の妙義社の祭神は、日本武尊、豊受大神、菅原道真公、権大納言長親卿)
乗龍寺が合併した西養寺:明治維新に天台宗の觸下の中に復職し神職になるところや廃寺になった寺もあり、お寺の仏像が西養寺に移されました。三社町の豊田白山神社は、藩政期、三社山常光寺という神仏混交の天台宗のお寺で復職に際し、ご本尊の十一面観音像を壁の後ろに隠し、後に觸頭の西養寺に移されました。
(西養寺)
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20来教寺の多聞天尊像(東山2丁目)天台真盛宗
山号は毘沙門山。弥陀、観音、三十三観音を主尊とするが、一般的には“毘沙門さん”と呼ばれ親しまれている。本堂内陣は珍しく神社様式を取っており、左側内陣は金比羅大権現が中心右側内陣は阿弥陀仏が祀ってあり、馬頭観音、不動明王、毘沙門天が配されています。寺伝では、永禄7年(1564)正林和尚が卯辰山の一本松に草庵を建てたのを開基とし、近江より金比羅大権現を、山城国鞍馬山から毘沙門天を勧請。宝永5年(1708)現在地に移転して、寺号を公称したと伝えられています。しかし、「貞享2年寺社由緒書上」では寛永9年(1632)の創立と書かれているらしい。宝永7年(1710)3月の大火で火元になり、明治の初めにも火災に遭い、古い文書が残っていないため、天神信仰は伝えられていないそうですが、明治の神仏分離令まで有ったという天神画像は今有りませんが、画像のコピーを何かの本で見たことがあり、どこかに移安されているもの思われます。来教寺には現在、天満宮の扁額が2枚掲げられています。
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11157554285.html
21咸応寺の鎮護尊像(鶯町)天台宗
山号は松梅山。慶長10年西養寺真運の弟子任秀が創建。曹洞宗伝灯院の南に接し、天神社の他、護摩堂を有していたというが、神仏分離令により明治2年寺号を廃止し、神霊などは卯辰祇園社(現松尾神社)に移されたそうです。この天神は津田玄蕃邸に有ったものを、その後作事所、さらに咸応寺に渡ったものといわれています。
(現在の松尾神社)
(松尾神社は、元亀3年(1571)頃、織田信長が近江の安土城内に、松尾大神を祭祀された。天正3年(1575)加賀藩祖前田利家公、越前府中へ入城の頃信長公より賜り、城内に祀り、同9年七尾入城の折も城内に祀り、同11年、金沢入城の折り城内二の丸附近に鎮座し(当時の社名額現存)、藩内の酒商業の守護として祀りあがめられました。その後前田綱紀公の元録11年、領国内酒造商の守護神として祀るべしとの台命があり、翌12年卯辰山麗祗園社の別当福寿院の境内に一社を造営しました。金沢の宮竹屋が酒造家及び酒商家の首棟となり三州の講を結び、以後祭祀におこたりなきことを盟約し、違背なきことを誓い、酒業家の守護神とし奉りました。)
22卯辰八幡の神明相殿 (東山1丁目)
現在の宇多須神社のところにあり、利長公の尊崇厚く、戦勝祈願ばかりではなく、利常公、光高公の安産祈願なども行なった前田家の祈祷所でした。末社天満天神と称されたのは、利常公像のことだといわれています。明治6年利家公像は尾山神社へ、利常公像は昭和12年小松梯天神社(小松天満宮)に移されました。神明相殿は、榊葉明神のことで、昭和20年社格を廃した。
(藩政時代の卯辰八幡宮)
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11463329041.html
≪東山界隈(昔の卯辰村)の川と道≫
今は、暗渠になっていますが、昔は来教寺の前に小川が流れていて、その川からこの辺りを明治以後「下小川町」「上小川町」といいました。この小川は「水の谷川」といい、水源は一本松(宇多須神社の奥社)の奥にあり、下流は小橋用水に合流し、浅野田んぼを潤していました。
(元如来寺町)
(一本松往来・慈雲寺横)
(一本松往来の道しるべ)
一本松往来は、今も春と秋に行なわれる「宇多須神社」の“お上がり”“お下がり”の神事の道で、昔も今もこの道を通って行なわれています。宇多須神社から蓮昌寺前の通り(藩政時代は元如来寺町)、慈雲寺の墓地の横を通りしばらく行くと二叉路があり、真直ぐ行くと宗龍寺へ、右は一本松往来でその道を行くと、昔の旧卯辰村を縦断し一本松への道に連なっています。今は、馬場小学校前の道を真直ぐ行くと慈雲寺の右側の矢の根川沿いから鶯町の松尾神社に繋がっていますが、この道は昭和32年に作られた新しい道だそうです。
(鶯谷焼の窯跡)
(上の道は旧一本松往来。下は新しい道)
(一本松往来の花屋の温室跡)
一本松往来には、鶯谷焼の窯跡や花屋の温室跡、宇多須神社の“お上がり”“お下がり”の神事費用を全部引受けたという人の屋敷や蓮如上人ゆかりの持名寺、卯辰山開拓の撫育所跡、卯辰村の墓所があり、さらに進むと現在の卯辰山工芸工房横にでます。
今回はじめて「御嶽山東山御嶽神社」に参詣しました。近年、前にも書いた東山の「心の道」に加わったとか、御嶽神社は、大正7年(1918)霊峰木曽御嶽山の御嶽大神と一願不動尊を祀る教会で、不動尊は木像の立像で(像は昭和8年に来教寺向かいの宮保さんの作)一丈六尺の巨大な不動明王です。
≪のちに祀られた、この界隈の天神さん≫
番外①:史跡卯辰神社(卯辰天満宮)。慶応3年(1867)卯辰山開拓の折、卯辰山“鳶が峰”に竹沢御殿の天神さんを遷宮し、卯辰山撫育所の守護神としました。
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11500858864.html
番外②東山の菅原神社。ひがし茶屋街の創設に際し、尽力した加賀八家の村井長世と奉行の山崎庄兵衛の頭文字から「村山大明神」として創建された茶屋街の鎮守社。後の菅原神社と改めました。