【片町】
8月下旬のある夜あるホテルへ、よばれて”片町夏の会“に行きました。古希を過ぎてもまだまだ娑婆ッ気はあるものの、よばれれば何処でも行くという分けではありませんが、主催社交組合の理事長には、3代に渡って浅からぬ縁もあり、懐かしさも手伝って二つ返事で行ってきました。
会は、何回か回を重ねているようですが、金沢の夜のレジャーというか、片町のナイトクラブの組合のパーティーで、日頃はライバル関係にある方々が一同に集まりお客様もお招きし行なわれるもので、今回は新聞発表で350名を集め中々盛大なものでした。
私は、20代から50代の前半まで片町が職場で、朝、昼、深夜と駆けずり回りました。それは、それなりに書き応えの有る話もあります。また、何時かという事にしますが、いずれにしても私は紛れも無く”片町育ち“であるということです。
近年、有名人を招いて開催される派手なこのパーティーは地元の新聞や雑誌で紹介されていて、片町育ちとしては覗いてみたいという思いもありました。今回、ワクワクして行くと時代は遠く過ぎ去り、知った顔はほんの数人、それもお客様には皆無に等しく、不況が長く続き厳しい片町で頑張って、頑張って、生き残った何人かの顔見知りの経営者だけ、当然向こうは私のことなどは忘れています・・・。
(北国新聞の記事)
今回パーティーで、華やいだ会場を眺めていて思い出しましたことがありました。それは戦後25年、昭和45年頃でした。金沢にも大型のホテルがお目見えし、宴会は料亭からホテルに移りつつありました。ホテルの宴会となるとコンパニオンが必要になります。それを埋めたのが、当時のクラブやキャバレーのホステスさんでした。
当時6時半ごろから8時ごろまで、ホステスさんが、お店にまだお客様が少ない時間帯に、ホテルに出張してコンパニオンの代わりをするのです。しかも一般の高卒の初任給が2万円ぐらいのとき、1時間半で3分の1ぐらいのギャランティだったように記憶しています。
(この後、5年ぐらいすると初任給は2~3倍になりますが、それにしても当時のホステスさんは、パーティーの後、お店に出て給料も戴くわけですから随分高給取りだった訳です。)
(片町①)
しかし、そんなうまい話は長く続きません。というのはその後、時代のニーズは、一般人を集めたコンパニオンの派遣業がそれを担うようになります。そちらがホテルのパーティーの接客をするようになるとホステスさんのパーティーでの接客が無くなります。しかし、それを早めたのが誰でもなくホステスさんであり、クラブの経営者でした。
大きな原因となったのはパーティーのお客様との同伴出勤です。現在はどうか分りませんが、当時、どこのお店でもお客様を連れて出勤すると遅刻は免除されるなどの得点があり、ホテルのパーティーは絶好の集客マシーンだったという分けです。
一部のホステスさんは、パーティーなどはそっちのけで、誘客に懸命で、やがてはホステスさんにはハッキリ断れない男心がホテルへの苦情になり、やがて一部を除いてホテルからの要請がなくなってしまったというのが実情です。
今回のパーティーでも後半になると、あれだけいたお客様が段々に少なくなっていました。お開きの挨拶の頃には3分の1も居たでしょうか、そんな様子を見ていたら昔のことを思い出しました。
しかし、昔はホテルと各企業のパーティーという、人の“褌”で相撲を取って美味しいところを持って行ったのですが、今は自分たちの営業活動としてパーティーをやっています。そして、何故、商買敵が長い間、呉越同舟でパーティーが続けていけるのかが実感できました。
それにしても、お客様の殆んど皆さんは分け知りのはずですが、口には出さず、知らない振りして・・・。どうも男というのはそんなものなのでしょうネ・・・。
(片町③)
かく言う私も、その場の持つ雰囲気からか、何か何時に無く人恋しくなって、知らない店に行く気にはなれず、片町では数少なくなった知人の店に顔をだすと、本人は、お休みとかで、またまた消化不良になり、片町に住む、幼ななじみに紹介してもらった店に立ち寄りました。さすがベテランのマダムは、すばやく察して、その幼なじみに電話をしてくれ・・・、痛飲!!
しかし、いつに無く、すっきりした気持ちになり、その日の内に帰宅しました。