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藩政期末の金沢・ひがし茶屋街①

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【ひがし茶屋街】

昔の卯辰茶屋町を話せというご依頼があり、今までその場その場でお客様のニーズに合わせて短く当たり障りの無いような話をして来ましたが、もう少しまとまった話にしようと集めている資料を読み返してみました。思っていたより書けない言葉やコトが書かれていて、無難なものになり、おもしろ味に欠けるかもですが、その一部を2回に分けて紹介します。


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(今のひがし茶屋街)


“ひがし”と“西”の遊郭が藩の許可になったのは、今から約190年前、それまでのように黙認するより、むしろ許可をして厳重に監督したほうがいいという事から文政3年(1820)3月。八家の本多政和や人持組の横山蔵人らの風紀が乱れると言う反対もありましたが・・・。


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(今のひがし茶屋街)


金沢町奉行の山崎頼母(たのも)らは、八家の村井長世の後押しもあり、3月25日に藩主斉広公が「軽き者どもの渡世のため」にと言ったらしく、4月4日の令では、


“生活困窮者の救済“


”町民に開放感を与える“


”上納金が入る”


などの期待を込めて、卯辰茶屋町と石坂新地の2箇所が藩から許可されました。


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(当時からある裏山の宝泉寺)


その色里の発起人である綿津屋忠蔵の娘婿に政右衛門という人がいました。何時、娘婿になったのか、また妻女の名前もよくわかりませんが、その政右衛門の素性は、越中・砺波郡経田村の酒造業兼農家の次男坊で、幕末、越中や能登の金持ちが金沢城下で米穀の取引に来ていて、住み着いてはいるものの、彼等には金沢町の人別はなく、旅人(りょうにん)といわれていたそうですが、その旅人の一人だったようです。
(綿津屋政右衛門:文化元年(1804)生まれ、慶応元年(1865)没。)



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(今のひがし茶屋街)


その政右衛門には、当時の“ひがし”の様子も書き留た自伝があります。かな文字と方言まじりで読みにくい文書で、私はどうもよく読めませんが、昔読んで、それを分かりやすく書いた方がいて、私の話は概ねそれに書かれていることですが、少しそれに添って話します。


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(今のひがし茶屋街)


その文書は「綿津屋政右衛門自記」といいます。それによると、当時、政右衛門は卯辰茶屋町で茶屋経営に携り、興行師仲間の元締で、今風に言うと”ボス“でしたが、天保2年(1831)11年間続いた遊廓が閉鎮になり、政右衛門は”生活困窮者救済“を理由に、近くの妙義谷(西養寺下昔乗竜寺)や卯辰八幡宮境内で芝居興行をおこないますが、これも天保9年(1838)政右衛門35歳のとき禁止になります。流浪のすえ、七尾で軽業師の興行師と懇意になり金沢で興行して成功しました。その後、政右衛門はこの地域の分限者として著名になっていったといわれています。また弘化3年(1846)43歳のときは観音院に三重塔を再建し、「三重塔の政右衛門」と渾名されたといわれています。


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(昔ながら大戸)


安政5年(1858)7月11日、12日の夜中、「安政の泣き一揆」が起こりますが、2日間に渡り卯辰山からお城に向かい「ちきないワイヤ~。ひもじいいわいやァ~。食っていけんわいやァ~」と叫んだ泣き一揆も黒幕は、どうも綿津屋政衛門だと言われていますが、今日は“綿津屋”の話ではなくて“ひがしと卯辰山”の話ですから「泣き一揆」の話はこの辺にしてまたの機会にします。



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(今のひがし茶屋街・ガス灯)


さてと、遊郭は卯辰茶屋町と石坂新地で“ひがし”と“西”と通称で呼ばれ、“ひがし”はその年の10月11日に、西は9月11日にOPENしたといいます。約1町四方に囲いを設けて入り口は黒塗りの木戸を立てて番所を置き帯刀の者(侍)や袈裟賭け(坊主)は入場を禁じたといいます。やがて木戸口に刀を預かるところができ、坊主は頭巾をかぶって遊びにきたといいます。


いずれも一歩内に入ると、武士も町人も百姓も、身分階級などかなぐり捨てて、一切合財挙げて歓楽に耽ると言う不夜城だったそうで、当時の自由平等は、まさにここのみで味わえたものと思われます。


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(今のひがし茶屋街・自由軒)


木戸口の番所では、昼夜、役人が勤番で、木戸側に牢屋をつくり、掟を犯して遊びに来たものや、無銭遊興をやったりする不心得物などは、ここに拘留され、働く女性達の笑いものになったのだそうです。また、木戸を通るお客は、地方、遠所とも町方の身元の良いものの子弟または番頭、手代などで、役人が一人一人顔を改めたので、素面を見せる事を嫌う客はいろいろと工夫をして通ったと伝えられています。


(つづく)

参考文献:「世相史話」金沢の花街―近世編―副田松園著


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