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藩政期末の金沢・ひがし茶屋街②

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【ひがし茶屋街】
文政3年(1820)に藩の許可を得た卯辰茶屋町のお茶屋には等級がありました。上・中・下の3等に分けられ、別に切店がありました。そのお茶屋は従来の構造で派手さを避けることになっていたそうですが、実際には新築、改築で外観を壮麗にしたり、表側にはそろった格子で、昼は定紋を染め抜いたのれんを吊るし、夜は家名を書いた四角い行灯に火を点けたといいます。中には研ぎの白木に“波”と“兎”を彫った欄間の店や2階残らず絵天井にする豪華な店もあったといいます。


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(ひがし茶屋街・旧3番丁)


抱えの女性は、芸者と娼妓が居たそうですが、花代は金一分(現在25,000円)銀10匁(現在15,000円)銀2朱(現在12,500円)銀5匁、銀3匁などに分け、衣装も下着、帯までその等級によって違え、金1分の女性を全盛(?)としたそうです。全盛の女性は、上・中・下のいずれの茶屋から出ても座敷に出るのは、上茶屋に限られていたといいます。


(換算は1両約10万円として計算しました)


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(ひがし茶屋街・木戸口跡・左の建物は検番(事務所))


勤めは、現在の時間でいうと午前6時~午後2時・午後2時~午後6時・午後6時~午後10時・午後10時以後とし、一昼夜4交代制になっていたそうです。文政の初め頃は、かなり繁盛したようで、昼夜とも酒宴、三弦、小鼓、太鼓の賑わいは、江戸・京・大阪に劣らなかったと書かれています。


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(検番前辺り)


遊び客の中でもお金を払わないものは「桶伏(おけふせ)」と言って、その客を一室に入れて外へ出さないようにしたといいます。そしてそのなじみの女性が折々見舞いにやってきたそうで、女性の中には、お金を都合して立て替て、救い出したこともあったと聞きます。また、そこに働く女性はお客の帰るのを木戸口までしか見送りができなくて外へは一歩もでることは出来ず、もし親元でも抜け出そうものなら、連れ帰り7日の間浴衣1枚で木戸口のさらし、その上でも商買させたといいます。

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(ひがし茶屋街・旧二番丁)


表は華やかではありますが、悲哀な半面をもつところで、随分悲惨な面もあり、無理心中騒ぎもよくあったそうです。また、足軽が囲いの女性と口論になり切り殺してしまった事件などは、最後に足軽は割腹してその刀を首にかけ、立ったまま死んだというもので、その場にいた人々は恐れをなしたと言います。この事件がそのまま「花紅雪東雲(はなくれないゆきのしののめ)」という芝居になり、文政5年(1822)に菊川の「川上南座芝居」で上演されたといいます。


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(現在の菅原神社)


今、宇多須神社の前にある菅原神社のことですが、始めは、前回言いました茶屋街の推進者であった八家の村井長世と金沢町奉行山崎頼母の徳としてこの土地の神として祀ったもので、場所は現在とは反対の旧愛宕一番丁の観音町西源寺の裏にあったもので、村井と山崎の頭文字から「村山大明神」といったそうで、しばらくして現在のところに移されたそうです。なお、天満宮は、官公の祭日の25日にここが許可されたからというもので、後に当時の藩主斉広公を祀るようになりました。


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(村山大明神は上の写真のブロックところにありました・旧一番丁)


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(旧観音町・西源寺)


斉広公がでたので、少し触れますと、文政6年(1823)春、斉広公は今の兼六園のところに竹沢御殿を造ります。その時、両茶屋街は、謝恩の意を表し銀15貫目(現在約2500万円)の運上金を奉っています。また、斉広公の逝去に際し、墓石運搬の役にあたり、またその時、領内では51日間の遠慮に対し、自発的に店を休ませ茶屋一軒ごとに銭3貫文(現在5~6万円)をくばり、生活費に宛てさせています。


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(ひがし茶屋街・旧三番丁)


その先の文政3年(1820)犀川と浅野川の大橋が洪水で流失した時、両茶屋街は、奉行の命に応じて橋の架設費に銀15貫目(現在約2500万円)を上納しています。


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(ひがし茶屋街・旧一番丁)


やがて禁を犯し外の出る女性も出だして、城下の町々ではそのファッションを真似するものも出てきて風紀がますます乱れて、収拾がつかなくなり文政12年(1829)11月、さらに茶屋の造りや抱え女姓の衣装を質素にし、侍の子弟、僧侶、医者などの遊興を締め出し、お客の身元に関わらず遊興費はすべて現金決済になり、店も客方に赴いて催促しないこと、抱え女性には非道の振る舞いをしないこと、実直に営業し高利をむさぼらないこと、客もかぶりものなどで、面体を隠すことが出来ないことなどが布達されました。


一方で、景気低迷の影響のためか、遊興費を値下げし、郭内の見回りも頻度を増やし、大きな茶屋は割屋にするなど改善をつとめたといいます。


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(現在のひがし茶屋街掲示板)


しかし許可されてから11年。天保2年(1831)8月。藩庁施政の方針が改められ風紀上許すべからずとして廃止になりました。


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(昔からの観音院四万六千日のとうもろこし)


それから36年後に慶応3年8月、藩政改革の機運に乗じて再び公許になります。そして9月9日開業しました。これには、どうも卯辰山開拓とは深い繋がりが有るように思えます。卯辰山開拓の史料には“娯楽を持って利するものへの運上”の記述があることからも、開発資金捻出の一環として再開されたものと推測できます。


参考文献「世相史話」金沢の花街―近世編―副田松園著


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