斉広公は、享和2年(1802)に相続し、一時、能に熱中していましたが、文化11年(1814)以降、財政悪化の中、年寄達から能を控えるようにいわれ控えていたようですが、文化15年(1818)3月江戸から帰国した後、引き篭るようになると、殆ど歩かないので年寄達は健康を案じ、せめて能を行い、身体を動かすように進めると、文政4年(1821)正月以降、能の回数が増え、翌年竹沢御殿に移るまで60回以上も能を演じたといわれています。
(竹沢御殿があった今の兼六園の千歳台)
隠居してからは、文政6年には64回。7年3月に当時はやっていた麻疹を患い、20日ほど休みますが、4月には、新藩主斉泰公が1年8ヶ月振りに帰国したので、麻疹も癒えたこともあり斉泰公を竹沢御殿に招き能を催し、8歳の次男他亀次郎も演じ親子で能を演じています。その時、死を予感したのか、最後の力を振り絞ったものと思われます。
以後5月に入ると体調は思わしくなく、6月になり、3月に患った麻疹が治りきっていなかったようで、再度麻疹と診断され、病状は一進一退を繰り返し7月9日昼過ぎ病状が急変し翌10日午前10時過ぎに卒去します。幕府には45歳と届けたれているが実際には43歳であったといいます。
(能を舞うイメージ像・杜若)
(それでも、それ年5月まで斉広公は45回と能三昧の日々だったといいます。斉広公の死後、竹沢御殿に居た京や江戸から招いた役者や囃子方達は、翌月に斉泰公により暇を出されたといわれています。)
財政悪化の中、斉広公は藩の財政も省みず浪費の限りを尽くしたと伝えられていて、家老本多大学政養(まさやす)は、豪奢な工事を批判したとして、禄高11,000石が3,000石減らされ、8,000石になり、逼塞を命じられていますが、浪費批判が原因であったとはいい難いところがあるように思われます。
(逼塞を命ずる際、斉広公は政養に対し「自分の才力を誇り、弁舌を以、理を非に申なし」と言ったとか・・・)
また、浪費家の斉広公の死を知った老臣達は胸を撫で下ろしたという話をありますが、いずれも、竹沢御殿が豪奢になったことに限って言えば、斉広公だけの浪費ではなく、家臣の大藩意識が財政より格式を優先したことによるところもあるように思われます。
(本多大学政養は、加賀八家の分家で斉広公が襲封以来の側近で極めて信任が厚かったと考えられますが・・・。)
(つづく)
参考文献:「兼六園を読み解く」長山直冶著・平成18年・桂書房発行「よみがえる金沢城」平成18年・石川県教育委員会発行「魂鎮め・12代藩主斉広一代記」中田廉(雪嶺文学)・平成25年・雪嶺文学会発行など