【金沢・兼六園】
竹沢御殿は、斉広公が文政7年(1826)7月に卒去した5年後、文政13年(1830)春ごろから取り壊しに着手されたといわれています。取り壊しについては、浪費のため幕府に問題視される前に取り壊したという説があるそうですが、斉広公の死後5年も経って幕府の非難も無いと思われることから、維持管理の経費や手間そして解体した古材の活用や払い下げによる収益から取り壊されたという説のほうが妥当であるように思われます。
文政13年(1830・天保元年)に取り壊された竹沢御殿は、書斎や能舞台の一つなど一部が残されていましたが、すべての改修は天保8年(1837)江戸から斉広公の正室真龍院を迎えるために、行なわれたもので、天保10年(1839)栄螺山(さざえやま)の三重の石塔が建てられた意味からも推測できます。
実際には、随分後になりますが、文久3年(1863)に12代斉広公の遺した竹沢御殿の謁見の間や鮎の廊下を移築し、真龍院の隠居所巽御殿(現成巽閣)が造営されたことが何よりの証明のように思われます。
(栄螺山(さざえやま)は、霞ヶ池の工事で掘り下げた排土を積み上げた人工の山で、石塔は正室真龍院と側室栄操院(斉泰公の生母)が斉広公の供養のための建てたものであり、お庭は、斉広公を偲ぶ所であり慰霊空間でもあったともいえます。)
兼六園が現在のような形になるのは、万延元年(1860)だといわれていて、前年の安政6年(1859)から反橋や泉水の改修工事を、さらに竹沢庭にめぐらされていた土塀や水樋上門(今の徽軫灯籠の近くにあった)が取外され、蓮池庭と一体化され兼六園の扁額も水樋上門から蓮池門に移され、現在の兼六園の形になりました。それでも“兼六園”というのは、一般的な呼称ではなく、初めて一般公開された明治4年(1872)には、与楽園と呼ばれ拝観日を限定し開放されています。
明治7年(1875)5月7日には、石川県の公園として正式に開放され、名も兼六公園と改め、さらに大正に入り一時「金沢公園」と呼ばれたこともありましたが、大正13年3月兼六園に復しました。
(とはいえ、呼称としての「兼六園」が市民に定着するのは戦後、随分たってからで、今でも年配者の中には「兼六公園」という人も多く、私などはついつい「公園」といってしまいます。)
(現在の兼六園の象徴)
参考文献:「兼六園を読み解く」長山直冶著・平成18年・桂書房発行「よみがえる金沢城」平成18年・石川県教育委員会発行「魂鎮め・12代藩主斉広一代記」中田廉(雪嶺文学)・平成25年・雪嶺文学会発行など