Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

12代藩主斉広公が残したもの

$
0
0

【金沢】
斉広公は30代後半頃から、鬱症状がかなり進んでいたようで、残された書状などによると“藩政のことが気になり、気鬱が増長し、そのことを年寄達が不安に思うだろうと考えるとそれが心労になる”とか“藩主の地位が恐ろしく、恐ろしい身分から逃れたい”などと書かれていて、公務は勤められないといっています。



(現在の金沢城二ノ丸五十間長屋)


また、自分は気楽にいたいのに、“大名としての格式が気になり、それがまた心労になり、症状が重くなる”といいながら、政策は、仕法調達銀仕法や十村断獄事件など随分強引で、藩士の風俗の乱れを問題にし、多数の藩士を処罰。さらに余技の耽ることを戒め、女子の琴や三味線を禁止しながら、しかし、自分は能に没頭しています。



(能舞台のイメージ)

(現在の竹沢御殿書斎前の辰巳用水)


従来禁止されていた芝居や遊郭を町の賑わいのため、という上申をまる呑みして許可。また「軽ろき者共の渡世のために」と下層民に仕事を与えるという名目で、当時、全国でも稀な藩公認の芝居小屋と茶屋街が創られています。



(現在のひがし茶屋街)


いずれにしても、病気がちで、あき性、しかも強引で、まさに迷君斉広公が、成し遂げたという分けではないのに、偶然か!!見方を変えれば、後世、金沢の命運を握るような優れた仕事が残っているのに驚きます。



(現在の金沢城菱櫓)


(現在の西茶屋街)


1、 幕府に歳まで誤魔化して作った隠居所竹沢御殿が「兼六園」に。
2、 軽ろき者共のために許可した遊郭、人気の「ひがし・にしの茶屋街」に。
3、 十村断獄では「豪商銭屋五兵衛」を生むきっ掛けに。
4、 竹沢御殿の建設では「金箔」の全国唯一の国産化へ。
5、 現実逃避から「能」を。
6、 春日山窯の開発から「九谷焼」の再興へ。
7、 金沢の地名由来、金城霊澤の整備が「芋掘藤五郎」伝説の復活に。
8、「金沢城」の再建。

等々、



(現在のひがしの金箔土蔵)


現在、金沢観光の目玉といわれる拠点や文化、伝説の発掘などは斉広公の治世時に生まれたものだと思うと、斉広公は迷君ではなくて、やっぱ、名君だったといえなくもないのでは・・・。




(現在の兼六園)

(現在の金城霊澤)


参考文献:「兼六園を読み解く」長山直冶著・平成18年・桂書房発行など


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles