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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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玉泉院丸跡・・・新幹線開通にあわせて復元整備

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【金沢城玉泉院丸跡】
元旦は曇り空、それでも雨も降らず足場よし、少し遠まわりをして兼六園、金沢城公園を通り初詣に行きました。宮守坂では右手に工事中の玉泉丸庭園が目に入りました。見下ろせば高低差22mの大パノラマは、植え込んだ松には雪吊りが施され掘り込まれた池には水が張られ橋が架かり庭園らしくなっていました。


(工事中の玉泉丸庭園)


玉泉院丸庭園は、3代藩主前田利常公により寛永11年(1634)に作庭が始まり、廃藩時まで城内玉泉院丸に存在していた庭園です。この庭園は廃藩とともに廃絶され、かつての庭園の面影は失われていました。



(完成予想図)


伝承では、利常公が京より庭師剣左衛門を招いて作られたと伝えられています。明治の初めになると外人教師の宿舎に、その後、池も埋められ軍の監獄、大正期には露天馬場、厩が設けられています。戦後、金沢大学開学時には薬草園。昭和30年(1955)から石川県スポーツセンターが設置されました。



(工事中の玉泉丸庭園から金沢都心)


二ノ丸の西側にある玉泉丸は、古くは「西の丸」と呼ばれ、前田家の重臣屋敷があったと伝えられ、隠居して高岡に移っていた2代藩主前田利長公の没後、金沢に戻った正室の玉泉院(永姫)が屋敷を構えていたことから、玉泉院丸と称されるようになったそうです。



(幕末の絵図・下の橋は鼠多門)


≪歴史と沿革≫
天正11年(1583) 前田利家公が金沢城に入城
天正~慶長頃 一帯は西の丸と呼ばれ、重臣の屋敷が置かれた
慶長19年(1614)2代藩主前田利長公正室の玉泉院の屋敷造営
元和 9年(1623)玉泉院逝去し、屋敷を撤去(この後、玉泉院丸と呼称)
寛永 9年(1632) 辰巳用水を開削し城内に引水
寛永11年(1634)3代藩主前田利常公が京都の庭師剣左衛門を招き作庭
延宝 4年(1676)5代藩主前田綱紀公が蓮池御殿を造り周辺に作庭
元禄元年(1688)前田綱紀公が千宗室に作庭を申し付ける
厩をこわし、御亭や露地、花壇を作ることを命ずる
天保 3年(1832)13代藩主前田斉泰公がカラカサ亭の設置を命ずる
安政3年(1856)玉泉院丸に滝がつくられる
安政5年(1858)三十間長屋再建
明治4年(1871)金沢城が兵部省(後に陸軍省)の管轄になる
オランダ人医師スロイスの邸宅が置かれる
明治13年(1880) 兼六園の明治記念之標の土台石組に庭石を転用
明治17年(1884)鼠多門焼失
大正13年(1924)この頃 露天馬場、厩を設置か
明治30年(1955)県スポーツセンター(県体育館の前身)竣工
明治40年(1965)県体育館竣工
平成20年(2008)県体育館を取り壊し、発掘調査に着手
平成21年(2009)県が金沢城玉泉院丸跡調査検討委員会を設置
平成27年(2015)玉泉院丸の庭園及び園地・休憩所等完成予定




(玉泉丸の鼠多門今昔)


玉泉院丸庭園の遺構は140年以上も地中に埋められていたわりに、良好に保存されていたそうで、その上、幕末に描かれた詳細な絵図(横山隆昭氏所蔵)など、貴重な史料が残されていたこともあり発掘調査も進み、それらの史実を参考に池や島などが再現出来たといいます。




(色紙短冊積み石垣)


あわせて背後の有名な色紙短冊積み石垣などデザイン性に富んだ石垣群の修景など約2haの庭園内は、完成すれば兼六園とは異なる加賀藩の築庭様式では極めて珍しい「城の中の庭」が現代に蘇り“史跡金沢城”の価値をさらに高めることでしょう。



(幕末の玉泉丸庭園図)


工事は急ピッチで、庭園内を回遊できる園路の整備、さらに庭園の全景を眺められることの出来る休憩施設の建設など、北陸新幹線金沢開業の平成27年(2015)春までには完成の予定だそうです。


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