【金沢・小将町】
今年4月に北陸新幹線金沢開業に向け、江戸時代の家屋を和食料理店に生まれ変るという西田家庭園「玉泉園(ぎょくせんえん)」にスポットを・・・。そう前回の玉泉丸つながりで玉泉園です。この庭園は江戸時代初期に加賀藩士、脇田九兵衛直賢から4代にわたり約100年をかけて脇田邸に作庭さたもので、庭の名前は、前田利長公の正室玉泉院に因んだものといわれています。
明治11年(1878)脇田家が家の事情から移住した後、数回の転売を経て明治38年(1905)金沢の資産家西田家の所有となり、長く非公開でしたが、昭和46年(1971)から公開されました。昭和34年(1959)11月園内の灑雪亭露地(さいせつていろじ)が金沢市の指定文化財として昭和35年(1960)5月に庭全体が石川県指定名勝として指定されました。
玉泉園は、池泉回遊式の庭園で金沢では兼六園より古く、園内には、現存する金沢最古の茶室灑雪亭露地(さいせつていろじ)や裏千家寒雲亭(かんうんてい)の写しの茶室があります。また、庭園内には街中には珍しいミズバショウが自生し、巨木は作庭以前から茂っていたと伝えられています。
(池泉の水源を兼六園の徽軫灯籠(ことじとうろう)付近の曲水から引かれているそうです。)
玉泉園は総面積約720坪(約2,370㎡)。兼六園の樹木をバックに、崖地を利用した上下2段式の庭園です。作庭の脇田九兵衛直賢は慶長7年頃(1605)に玉泉院(2代利長公の室・信長公の4女)の斡旋で家臣の脇田家(禄高450石)の養子となり、大坂夏の陣で戦功があり、御小将(姓)頭、金沢町奉行等を務め、禄高1500石に出世します。
上段の灑雪亭露地(さいせつていろじ)は面積約173坪(約570㎡)、慶安4年(1651)3代藩主利常公に招かれ御茶頭として仕えた千仙叟宗室(裏千家始祖)の指導によるもので、池を中心とする庭園と、庭東部の茶席「灑雪亭」からなり、亭前の茶庭には雲龍陽刻の蹲踞を配しています。
(朝鮮五葉松にまつわるノウゼンカヅラは、初代利家公の室お松の方から賜ったと伝えられています。)
灑雪亭(さいせつてい)の名は脇田家2代当主直能が、藩の招きで来藩していた儒学者木下順庵が庭に遊び詠んだ詩の一節「飛泉蔭雪灑」からとったもので、順庵が命名したといわれています。一畳に台目二畳の利休の侘びを尊ぶ簡素な席だといわれています。
明治38年(1905)西田家の所有となり、西田家2代儀三郎、3代儀一郎、4代外喜雄の3代にわたり個人の手で維持・管理されてきましたが、昭和46年(1971)4月、財団法人西田家庭園保存会の設立により当保存会が寄贈を受け、一般公開されるようになりまいた。
玉泉園の築庭が、全国に6例しかない「玉澗流(ぎょっかんりゅう)」という、幻の様式とされる珍しいものだそうです。「玉澗」とは、中国南宋時代の画僧芬玉澗のことで多くの絵を後世に残しているそうです。
元禄7年(1694)に京都で刊行された「古今茶道全書」の第5巻(後に独立して出版された「諸國茶庭名蹟圖會」)の巻末に三枚の山水図が掲載されていて、その刊行の時期が脇田家3代九兵衛直長が玉泉園を築庭していた時代と符合するそうです。
その三枚の山水図のうちの一枚(玉澗樣山水三段瀧圖)が、玉泉園の東滝を中心とした崖地部分の作庭とよく似ているそうで玉澗流庭園の特色がよく表われいるといわれています。
≪玉澗流庭園の特色≫
1. 築山を二つ設けてある。
2. 築山の間に滝を組んである、
3. 滝の上部に石橋(通天橋)を組んである。
4. 石橋の上部は洞窟式になっている。
玉泉園はこの四つの特色が全て備わっているといいます。
(つづく)
参考資料:「玉泉園パンフレット」「ウィキペディアフリー百科事典」ja.wikipedia.org/wiki/など