【金沢・小将町】
脇田九兵衛直賢は、朝鮮の漢城(ソウル)生まれで幼名は金如鉄(キム・ヨチョル)といい、朝鮮の翰林学士金時省の息子でした。7歳の文禄元年(1592)“文禄の役”で孤児になり、宇喜多秀家によって岡山に連れてこられ秀家の正室豪によって養育されました。
(翰林学士(かんりんがくし):中国の唐代以降の官名で、皇帝の意思を表した文書を作る役人。金如鉄は、「金如鐘」という記述もあります。)
秀家が関が原の合戦で敗れ親子共々八丈島に流刑となると、如鉄少年は里帰りした豪(前田利家公の4女)に伴われて金沢に入ります。聡明な如鉄少年は、始め芳春院(利家公正室松)の手元で育てられ、後に2代前田利長公の正室永姫(玉泉院)の養子として養育され、利長公の近習となります。
(永姫の男の養子は、前田利常公、兄信雄の子織田高長と脇田直賢の3人)
20歳の頃、玉泉院の斡旋で、越前以来の前田家の家臣脇田帯刀重俊(禄高450石)の養子となり、脇田姓を名乗ります。利長公の寵愛を受け出世を約束されていましたが、これを妬んだ者の讒言(ざんげん)のため一時屏居し公職を辞すが、大坂冬の陣では越中高岡から駆け付け、前田利常公から賞賛されます。
夏の陣では大阪城玉造口から城内に入り、その功で200石を加増され、後には知行1,500石の大小将頭を拝領します。御算用場奉行、公事場奉行、金沢町奉行などを経て万治2年(1659)に隠居。幼名と同じ「如鉄」と号し、連歌を良くし、藩主にも厚遇され茶会にも招かれといいます。また、高山右近の影響を受け、隠れキリシタンであったともいわれていますが、万治3年(1660)7月に没しました。
2代直能も茶道を能くし千仙曳宗室に師事して名手といわれ、茶杓もよく削ったといいます。この2代が玉泉園のおおよその形を造ったとされ、以後3代直長もまた仙曳宗室門下で茶室も多く手がけた人であったらしく、玉泉園の作庭は4代まで続いたといわれています。
その後の脇田家は5代直康、6代直温と続き、7代直与のとき明治維新を迎えますが、明治11年(1878年)家屋敷等一切を売却し、一家は金沢を離れることになりました。
≪その後に脇田家の消息≫
(その1、脇田巧一)
明治11年(1878)5月14日の「紀尾井坂の変」は、内務卿大久保利通を東京府麹町紀尾井町清水谷で加賀藩の不平士族等6名によって暗殺された事件で「紀尾井坂事件」とも「大久保利通暗殺事件」ともいいます。
その実行犯6人の中に脇田家7代九兵衛直与の3男脇田巧一が加わっています。脇田巧一は暗殺にあたり罪が家に及ぶのを恐れて士族を辞めて平民になったといいます。
脇田巧一は、明治6年(1873)頃、石川県変則中学の監正となり、生徒松田克之(のちに紀尾井坂の変で、朝野新聞に斬奸状を郵送し逮捕された人物)と県庁に民選議員設立を建言したが却下され辞職します。
翌年、鹿児島から石川に帰郷した長連豪と親交、西郷隆盛、桐野利秋らの人柄を聞き信奉するようになります。明治10年に上京、翌年島田らと大久保利通を刺殺。刑死しました。享年29歳。明治22年(1889年)に大赦になり、墓は谷中霊園と金沢野田山墓地にあります。
(紀尾井坂の変の中心的存在の島田一郎は、加賀藩の足軽として第一次長州征伐、戊辰戦争に参加し、明治維新後も軍人としての経歴を歩んだ人物で征韓論に共鳴し、明治6年(1877)政変で西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走しています。)
(その2、脇田和)
洋画家で昭和期に活躍した文化功労者の脇田和(わきたかず)は、加賀藩士脇田家の子孫で東京青山生まれ、ベルリンで油絵を学び、色と形が絶妙に調和した繊細で詩情豊かな作風が特徴で、昭和7年(1936)新制作派協会(現在の新制作協会)の結成に加わり、以後同協会展に出品を重ねました。
(兼六坂より)
脇田和(明治41年(1908)6月7日~平成17年(2005)11月27日)
昭和30年(1955)日本国際美術展で最優秀賞。
昭和31年(1956)グッケンハイム国際美術展国内賞を受賞。
昭和39年(1964)東京芸術大学助教授となり、1970年まで同校で教授を務める。
平成10年(1998)文化功労者。
平成15年(2003)先祖の地金沢の石川県立美術館で回顧展が開催された。
参考資料:「玉泉園パンフレット」「石川県史・第三編」「ウィキペディアフリー百科事典」ja.wikipedia.org/wiki/など