【武蔵ヶ辻・青草町】
毎年、近江町市場の組合と近江町いちば館、そして金沢アートグミの共催で開催されている「金沢のしきたり展」が、今年は、かって金沢市内で使われた「引札」や「包み紙」を集め金沢アートグミのギャラリーで展示されています。
包み紙は、ショッピングバック、包装紙、お菓子屋や寿司屋の掛け紙など今もお馴染みですが、引札は、今はあまり馴染みがありません。実は、暦が付いたものは、今も年末の会社や商店がお客様に贈るカレンダーで、店名等が刷り込まれたのは宣伝ポスター、小さいのは広告チラシの原型で、江戸時代大阪で引札を町で散らしたので、その後、チラシと呼ぶようになったと聞きました。
引札は始め一色か二色で、よく知られている色鮮やかな引札は、文明開化で商業活動が盛んになった頃、江戸時代に浮世絵が流行ったこともあり、初めは木版刷りが用いられたそうですが、石版印刷が発展するとともに色鮮やかなものが大量に作られることになり、商店のチラシ、手配りのビラなどの商品の広告だけでなく、開店、改装のお祝い、得意先配り、街頭配りなどにも使われるようになったといいます。
明治から大正時代にかけて、金沢でも商店や問屋、製造業や販売元などが宣伝のために作られています。幸い戦災に遭わなかったことや、戦後、大学の先生が収集したこともあり、広告の資料としてだけでなく、独特の色合いと大胆な図柄など、美術的価値から資料館や博物館に所蔵され今もかなり残されています。
また、浮世絵の手造りの伝統を受け継ぐ最後の摺りもので、石版に直接描かれた版で摺ることから手描きの風合で、優れたものは美術品として扱われるものもあります。一方では、その時代の商店が扱った衣食住、日用品や産業、さらには絵に描かれている風俗や道具、また、当時流行った西洋の文物などが描かれていることから歴史資料としても貴重です。
物の本によると、13世紀に一遍上人が「南無阿弥陀仏」の札を出したのが初めといわれているそうですが、広告としては、天和3年(1683)に江戸の越後屋(現三越)が呉服の宣伝に「現金掛け値なし」という引札を十里四方に出したのが引札の始まりといわれています。
(現金掛け値なしは、今や商慣習としては常識ですが、当時は年に1、2回まとめて払う掛けりが大店舗では普通で、越後屋は、現金取引の正札売りにしたのが、大いに当ったと伝えられています。)
引札の語源は、江戸時代の「お客を引く」「引き付ける」から来ているというそうですが、他に、札回し、安売り目録書き、口上書、書付、挿広告とも呼ばれていたそうです。
(若い頃、市内の印刷所には、石版やジンク版に直接描く「描き版」という技術があり、腕の良い職人さんがいました。何回か、その技を見たことがあります。引札と包み紙の展示会を見ていると、あの頃の職人さんの作業風景が眼に浮かび感傷にしたっていました・・・。やっぱ歳やネ~。)