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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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明治の博覧会と博物館―金沢

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【兼六園】
先日、調べものがあり、古本を購入しました。読み進めるうちに、兼六園の成巽閣にあった博物館と展覧会(博覧会)のことが書かれているのに目に留まり、調べていた事とは、随分かけ離れていましたが、兼六園と聞いては目を離す分けにもいかず、脱線してしまいました。



(現在に成巽閣)


書物は、少し古い地元発行のもので、金沢の歴史概略でしたが、かなり詳しく書かれていました。その中には博物館、博覧会がともに、東京でも大阪でも前例がないもので喝采を受けたと書かれています。まさかと思いながらも、金沢が草分けなのかと思うと興味がそそられ調べてみることにしました。



(金沢の博物館と博覧会のことが書かれいる本)


金沢での博覧会は、明治4年(1871)金沢藩が巽御殿(現成巽閣)の隣接地山崎山下にプロシャの鉱山学者デッケンの居宅で鉱山学所を完成させますが、その年7月(旧暦)に廃藩置県により慶寧公は、藩知事を免職になり家族とともに東京に移住します。それに伴い鉱山学所も廃止されデッケンは解任されます。居宅は明治5年(1872)に成巽閣と合わせて、9月12日から30日間(旧暦)、金沢展覧会が開かれています。


(兼六園の成巽閣は、幕末に12代斉広公の正室隆子(眞龍院)の隠居所として造られた「巽御殿」ですが、明治3年(1870)には隆子(眞龍院)が巽御殿でお亡くなり、その間、明治2年(1869)6月(旧暦)に版籍奉還で国の所管となり、14代藩主であった慶寧公は金沢藩知事に任命されています。)



(現在の成巽閣)


金沢展覧会の展示物は、ウィーン万国博覧会の準備として、その年、明治5年3月10日から4月末日(旧暦)に行われた湯島聖堂博覧会と同様のもので、少し規模が小さく、出品点数も少なかったため、展覧会という名称にしたといわれています。



(現在の成巽閣の裏門)


この展覧会は、民間人の中屋彦十郎(薬種問屋)・森下森八(菓子商)の2人が発議したものでした。湯島聖堂博覧会の5ヶ月後の開催で、これがきっかけとなって、常設の博覧会会場つまり博物館を設けようという動きがおこり、金沢博物館そして後に金沢勧業博物館に繋がっていきます。


(明治になり日本で始めて開催された博覧会は、明治4年(1871)、東京の大学南校物産会や京都博覧会が開催されています。翌5年には、前出の湯島聖堂博覧会は全国に出品を呼び掛け、約600件が集まり展示されたものです。展示の内容は、御物(ぎょぶつ)や各地の文化財、書画、金工品、漆器、陶器、動物の剥製(はくせい)・標本などなど、ありとあらゆる物で、中でも「名古屋城の金の鯱」は大変な人気であったようです)。



(現在の龍石のところがデッケン館の車寄せ)


博覧会の始まりはやはり東京で、藩政末期にも小規模のものが開催されていますが、大々的な博覧会は前出の湯島聖堂博覧会です。その時の目玉「名古屋城の金の鯱」が金沢にお目見えするのは、2年後の明治7年に開催された豪商木谷藤十郎らによる兼六園の巽御殿(成巽閣)での金沢博覧会でした。



(この辺りにデッケン館が有りました。)

日本の博物館は、明治5年(1872)の湯島聖堂博覧会(文部省博物館)の出品物をもとに、翌年には太政官府に移管され、内務省管轄の博物館のなった伝えられています。


(デッケン館の模写)


金沢博物館は、正式には明治9年(1876)に木谷藤十郎らが博物館設立方願を県に提出され、県が内務省の許可を受けて、デッケン館と成巽閣に金沢博物館を設置されています。



(現在の成巽閣の裏の塀)


明治の金沢の博覧会、博物館は、やはり2番煎じでしたが、版籍奉還、廃藩置県と続く激動の明治初期、金沢ではその激流の中、外人を招き、また、兼六園や城内に洋館も建て、新しい文物を取り入れ、しかも民間人が主体で博覧会を開催し博物館を造ったことなどを再確認することができました。最近いわれている金沢人は「新しいものと古いものをうまく融合させる」というのは今に始まったことではなく、古い街金沢が持たざるを得ない自浄作用の様なものであり、宿命であったことを痛感しました。


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