【小橋→昌永橋・横安江商店街】
今の金沢表参道は、寛永18年(1641)お東さんの別院の仮堂があった専光寺さんが火災に遭い、奥野屋敷の跡に建てられた真宗大谷派別院の門前町として現在に至っています。古くは東末寺といわれた別院は、加賀、能登、越中からの参拝者が絶えず、門前には仏具商や古着屋などが軒を連ね繁盛したと伝えられています。
金沢では、お東さんが多く我が家でも別院といえば、ここ東別院ということになりますが、若い頃を振り返ってみると、別院については昭和37年(1662)の大火事以外は思い出もなく、むしろ別院よりも門前町の横安江商店街(現金沢表参道通り)の方が印象深いものがあります。
(別院の火災は、元禄3年(1650)宝永6年(1709)天保6年(1853)安政2年(1855)明治9年(1876)そして昭和37年(1662)と、その火災の程はよく分かりませんが6度も見舞われその都度、多くの信者の寄進によって再建されています。他に別院は火災に遭わなかったものの昭和2年には商店街の大半が火災の被害に遭ったといいます。)
昭和34年(1959)天皇陛下の皇太子時代、結婚記念として完成した天蓋式のアーケードが横安江町の繁盛の象徴でした。当時、平日は午後3時頃から夜8~9時頃まで、休みの日には午後から、横安江町でうどんと寿司の出前のアルバイトをしていました。
その頃の横安江町通りでは、アーケードで雨の心配は有りませんが、日中、人出が絶えず、得意な自転車での出前が出来なくて、日曜日など出前はオカモチを頭上高く持ち上げ、もちろん徒歩で人に押されながら配達していました。遠い昔、横安江町は長さ330m、幅8mの通り一杯に洪水のごとく人の波が押し寄せていました。
今、振り返れば、当時の横安江町商店街や小路で繋がる彦三商店街は、まさに全盛時代であったように思えます。その頃の彦三商店街は物販店だけでなく、映画館もあり飲食店や飲み屋街もありました。雑居ビルには、1階がパチンコ屋で2階から上がバーなどテナントが入り上のほうにキャバレーもあり、繁華街の条件でもある夜歓楽街が隣接していました。
(今の彦三商店会入り口・郵便局の後のビルはパチンコ屋とキャバレーが)
その頃、市内で対抗する片町や香林坊の商店街は、昭和31年(1956)から41年にかけてすすめられていた近代化計画の真っ最中、工事中で足場も悪く、買い物客もこの辺り武蔵地区に集中し、日曜日には1万7000人もの集客があったとか、平日も七尾線や北陸本線で勤め先や学校の通う人々が駅前通り経由で横安江町を通り、職場や学校に通っていたこともあり平日も随分賑やかだったように記憶しています。
(繁盛したおでん屋跡と駐車場は飲み屋街跡)
(この辺りに有名な喫茶店モリナガがありました)
(昭和34年(1959)頃は「岩戸景気」といわれていて、「神武景気」や「いざなぎ景気」よりも長く高度成長期でも最長の42ヶ月も好景気が続いた時代で、岩戸というのは「天照大神が天の岩戸に隠れて以来の好景気」として名付けられたとか。)
(つづく)
次回、これより以前の横安江町とその後を予定。
写真提供 横安江町商店街事務所