【小橋→昌永橋・横安江商店街】
横安江町は、藩政末期の地図で見ると、武蔵ヶ辻から白銀町に繋がる上安江町から右に入った通りで、町の真ん中に東末寺(東別院)があり、約330mの通りの突き当りには西外惣構の堀があり、その向こうに照円寺が見えます。町は、現在のように町家が連なっていたわけではなく、むしろ武家屋敷の間に小間物屋や古着屋、米仲買や商人宿が20戸ぐらい軒を連ねていたようです。
(明治4年(1871)に近接する元乗善寺町(磯部屋小路)、東末寺町、極楽橋が合併し戸数74戸になり大正5年(1916)には188戸718人になっています。)
(今の別院前から照円寺方面)
(今の目細小路(裏安江町1番丁)
明治も20年後半から30年代になると、日清、日露の戦勝ムードもあり、鉄道も敷設されたことにより加賀、能登、越中からの別院への参拝客が多くなり、金沢駅から歩いて来ることの出来る横安江町は、仏具や小間物、古着の町から、やがて時流を先取りして着るものを扱う繊維や女性を対象にした町に発展していったものと思われます。
(安政年間の地図、名前の有るのは武家地、グレーのところは町家)
大正初期には、横安江町商工会が組織され商店街活動が活発になり、参拝客に留まらず、多くの市民で賑わったといわれています。昭和10年(1935)頃には、商店街の通りにはすずらんの花を模した街灯が設置されたことから「すずらん通り」と呼ばれ、商店街の入り口の大きなゲートには「別院前新天地」と大書されていたそうです。
商店街が大いに様変わりするのは、戦後、昭和20年代から30年代、まさに横安江町商店街の全盛期で、町を牽引したのは太田呉服店やモード中山の隆盛でした。戦後、商品が少ない頃の太田呉服店はキュウリやナスビまで売ったと聞きますが、昭和22・3年(1947・8)から繊維が出回り業績を伸ばし、能登方面のお客様から絶大な支持を得て、呉服中心の繁盛店に発展していきました。
モード中山は、もともと布団屋さんでしたが、東京で婦人服が飛ぶように売れるのを見て、婦人服屋に商買替えをして、金沢一の婦人服屋になっていったといわれています。そして、昭和28年頃には、当時珍しいネオンゲートが設置され、納涼大売出しに点灯式を、他に売出し期間には「おいらん道中」や別院境内での「菊人形」など、市民の目を楽しませるイベントが企画されるなど、商店街は大いに発展し昭和34年のアーケード設置に繋がっていきます。
(ちなみに横安江町の商買替えは、乳母車屋がカバン屋に、文具屋が玩具屋に、帽子屋が毛糸屋など、時流に乗って成功したお店が随分あったと聞きます。)
当時、アーケードの設置にあたり、別院の敷地が広く、極楽橋側にも土塀が繋がっていて、その負担分が大きいため、別院に頼み、土塀のところに3階建ての東別院会館を横安江町の責任で建設し、その家賃で借金を完済したら別院に寄付するということでビル化し1階に11店舗のテナントが入居しています。
(当時の東別院会館)
(ビルは、昨年解体されましたが、昭和37年(1962)の別院の大火事では、ビルがあったため横安江町へは火が入らなかったと伝えられています。)
一方、隣接する彦三商店街は、昭和25年(1950)頃のスタートだそうです。戦後、彦三の大通りがヤミ市になり、畳1枚半程の板戸を並べたような店が通りの両側に立ち並び、物がなかった時代、ヤミ市に行けばなにかあるだろうと、毎日、買い物客や引揚者で賑わったといいます。それが昭和24年(1949)、道路交通法の取り締まりで、立ち退きに遭い尾山商店街と彦三商店街に分かれたことによるのだそうです。
(つづく)
参考資料:「むさい―限りない未来に向けて」平成5年・武蔵活性化協議会発行、横安江町商店街振興組合専務理事篠田直隆氏「横安江町商店街―横安江町商店街今昔、そして未来へ」など
写真提供:横安江町商店街事務所