【小橋→昌永橋・横安江町】
大名行列!!といっても藩政期前田家のお殿様の行列ではなくて、「百万石まつり」の大名行列です。「百万石まつり」は、戦後、昭和21年(1946)6月「尾山まつり」が、翌昭和22年(1947)4月に商店街の連合会が主催の1回目の「金沢商工まつり」がはじまりです。
(戦前、昭和11年4月にも「商工まつり」がありました。全市上げての福引大売出しや広告行列や武者行列があり花電車も出たそうですが、第3回の昭和13年を最後に国家動員法が施行され戦時体制になり中止されました。)
戦後の「金沢商工まつり」は3回目から6月になり、4回目はまた4月にもどり、それが第1回の「百万石まつり」になりました。昭和33年(1958)の第7回から金沢市も参加し、会期は6月になりますが、私が知っている限りですが、コースは今のように金沢駅ではなく金沢城からのスタートでした。当時は、横安江町商店街も通り、東別院で列を整えたとかで、見物客がすごくて、危険を感じシャッターを閉めたお店も有ったといいます。
(最近、寺町蛤坂の妙慶寺のご住職に聞いた話ですが、第1回目は、妙慶寺がスタートだったとか。当時、県の商店街連合会で発言権が大きかったと思われる太田呉服店(横安江町)の松平利吉氏の菩提寺だったこと、また、馬を調達するのに都合がよかったとかで、妙慶寺が選ばれたそうです。祭りが終わってからも、しばらくの間、境内は馬の垂れ流した小便の臭いが消えなかったとおっしゃっていました。)
(横安江町の前田利家公の行列)
(商工パレードのデコレーションカー)
(当時のアルバムより)
その後の横安江町は、前出の昭和33年(1958)の天蓋式アーケードの設置や東別院会館の建設は、さらに商店街の活性化に拍車をかけ、飛ぶ鳥を落とす勢いで雨や雪の心配のない、"横のデパート"として大変な賑わいを見ることになります。しかし、良いことずくめという分けがないのが世の中のようです。
(今も有る東別院の大銀杏)
昭和37年(1963)年7月には、別院が大火事に見舞われます。本堂や、隣の金沢幼稚園を焼失、西側の本町にも延焼し、住宅17棟を全半焼しました。しかし、東側では横安江商店街及びアーケードには被害がなく、近隣の方の話では「ビルと山門近くの大銀杏が火除けになった」と伝えられています。
(昔から銀杏が類焼を防ぐといわれていますし、それも有りなのでしょうが、この大火事で商店街に火が入らなかったのは、後で検証すると本堂に面する東別院会館ビルの西側壁面は猛火で焼けた跡が有り、このビルが商店街への類焼を遮ったというのが本当のところのようです。)
昭和38年(1964)別院の大火事から半年後、未だに雪害が出ると比較される「三八の豪雪」により自慢のアーケードが崩壊します。雪すかしにダンプカーが出動し、まる2日徹夜、3日間で片付きたそうで、当時を知る方の話によると除雪にかかった費用は100万円だったそうです。(当時、高卒の初任給が8,000円~9,000円くらい)
その年には、横安江町では、昭和27年(1952)に組織された協同組合を改組し、県下ではじめての横安江町商店街振興組合が設立され、組合員は94名、理事長松平利吉で昭和42年(1967)には融雪装置をアーケードに付設。昭和44年(1969)に、290mの大理石のカラー舗装、昭和45年(1970)には商店街の共同駐車場や商店街会館も建設され、その間、昭和45年には、理事長で商店街に絶大の功労があった太田呉服店(松平利吉)が倒産というショッキングなことも有り、理事長もモード中山の中山喜作氏に引き継がれています。
(つづく)
参考資料:「むさい―限りない未来に向けて」平成5年・武蔵活性化協議会発行、横安江町商店街振興組合専務理事篠田直隆氏「横安江町商店街―横安江町商店街今昔、そして未来へ」など
写真提供:横安江町商店街事務所