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高峰譲吉②アメリカへ

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【高岡→金沢→アメリカ】
明治13年(1880)高峰譲吉博士は、英国グラスゴー大学へ3年間留学し、そこで興味を持ったのが、スコッチ・ウイスキーの製法だったといいます。ウイスキーは、大麦のモヤシ麦芽酵素でデンプンを分解し糖化させモルトを蒸留し、ウイスキーになります。



生誕地・高岡市の高峰公園)

高岡の造酒屋の孫にあたる譲吉博士は、幼い頃から日本酒造りを知っていたようで、デンプンの分解なら、大麦の麦芽酵素より、日 本酒に使う麹(こうじ)を使用したほうが効率的であると考え、麹(こうじ)を使うことにより、ウイスキーが、多く作れると英国留学中に、「高峰式元麹改良法」を考案しています。



(高岡の高峰譲吉博士の銅像前で山野金沢市長)



英国から帰国後、明治16年(1883)農商務省に入省。明治17年(1884)12月16日から明治18年(1885)6月2日まで開催されたアメリカニューオリンズの万国博に事務官として派遣され、そこで出会った米国人女性、キャロライン・ヒッチと婚約します。プロポーズの言葉は「公費で渡米しているから、今は結婚できない。だから、2年間待って欲しい」というもので、当時、日本では官職にある者は外国人と結婚することが出来なく、結婚したのは明治20年(1887)になります。帰国後の明治20年(1886)、専売特許局局長代理となり、欧米視察中の局長高橋是清の留守を預かって特許制度の整備に尽力します。



(金沢で子ども頃過ごしたエムザ裏の碑)


官職を得た譲吉博士ですが、ただのお役人になっておとなしくしているわけもなく、英国や米国の活気ある社会を見てきた譲吉は、日本の農業用肥料を改良し、農作物の収穫を飛躍的に高めようと考えます。


(現在のエムザ裏)


そして日本の土壌にあった肥料を研究するとともに、それを製造して販売する会社を設立しています。このような研究開発や、技術指導は、お役所仕事よりも民間企業でやる方が速いと考えたのでしょう。


(その肥料会社は、当時、明治の大実業家渋沢栄一から資金を提供してもらった東京人造肥料会社で、現在の日産化学の前身です。)



(明治5年父精一が建てた金沢の高峰邸)

(現在の高峰邸跡)


(明治19年(1886)帰国した博士には、かねて米国で特許出願中だった「高峰式元麹改良法」を採用したいという連絡を、米国の酒造会社から受けます。)



(移築された金沢の黒門緑地にある高峰邸の一部)



そして、来日したキャロラインは明治時代の日本での質素な生活に耐えられず、母親から偽の電報を送らせ、明治23年(1890)譲吉博士を含む家族4人で渡米しアメリカへ永住することになります。


(夫人は、その後肝臓を患った譲吉博士を幾度と助けますが、譲吉博士の死後は息子の友人(23歳年下)の男性と再婚するなど、活発な女性だったようです。)



(黒門緑地にある看板)


当時30歳半ばになっていた博士は、株主であった渋沢栄一に渡米を止められ、当初渡米を渋っていたそうですが、三井財閥の益田孝の強い勧めもあって、渡米を決意します。渡米後、譲吉博士の麹を利用した醸造法が採用されたことでモルト職人から儲からなくなると怒りを買い、一時は高給でモルト職人を雇うことで和解しましが、モルト工場に巨額の費用をつぎ込んでいた醸造所の資本家達が、譲吉博士の新しい醸造法を止めようと、夜間に譲吉博士、キャロライン夫妻の家に武装して侵入し、譲吉博士の暗殺を試みたといいます。


その時は、譲吉博士は隠れていたので見つからず、そのまま醸造所の資本家達は譲吉博士の研究所に侵入、結局譲吉を発見できなかった所有者たちは、研究所に火を放って研究所を全焼させたといいます。


当時、日本人はイエローモンキーと呼ばれていた時代。白人は黄色人種など猿並みの動物としか思っていなく、侮蔑などという言葉では言い表せない人種的迫害に遭い、譲吉博士は木っ端微塵に砕かれました。しかも、新しい醸造工場は、譲吉博士の米麹醸造法ではなく、モルトを使った工場で、譲吉博士の考案した米麹ウイスキーは、現在もよくある東西の文化摩擦で挫折してしまいます。


譲吉博士は失意のうちに、重い肝炎にかかり、以後、闘病生活を米国で送っています。
しかし、そこでくじけないのが明治の日本人です。譲吉博士は、麹の研究を通じて、明治27年(1894)、デンプンを分解する酵素であるジアスターゼ(アミラーゼ)を麹菌から抽出することで成功しタカ・ジアスターゼと命名し、特許を申請しました。




(金沢ふるさと偉人館にあるバイエルヘルスケア社から寄贈された
 北欧神話でノームと呼ばれる地中を宝を守る地霊の像)


タカ・ジアスターゼは消化剤で、何と、お餅を大根おろしで食べると消化が良いというアレがヒントだそうです。どうも譲吉博士は、日本の独自性にこだわりがあって「欧米の物を作るなら欧米から人を呼んでくればいい、日本人は日本の独自性を発揮すべきだ!」というような事をいっていたそうです。


さらに明治33年(1900)、譲吉博士はアドレナリンの抽出に成功します。廃棄される家畜の内臓から世界ではじめてホルモンを抽出したのです。翌年、アドレナリンの特許を取得します。アドレナリンは、今も止血剤として、あらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献しています。


(ジアスターゼの発見、アドレナリンの発見によって、譲吉博士は巨額の特許収入を得るようになります。)


しかし、アドレナリンについては、譲吉博士の死後、とんでもない言いがかりから問題が起こります。昭和2年(1927)アドレナリンの生成に成功したのは私の方が先で、「高峰譲吉博士の成果は、自分の手法を盗んだ」とジョンズ・ホプキンズ大学のエイベル博士が主張しました。それを受けて米国医学会は、エイベル博士の言い分を全面的に認めてしまい、以降、米国内では「アドレナリン」という名称は廃止され、エイベル博士が名付けた「エピネフリン」という名称が用いられることになります。


裁判が行われたわけでも、証拠の検証が行われたわけでもなく、譲吉博士の家族から、すべてを奪おうという動きだったのでしょうか、しかし40年以上たった昭和40年代(1965~1974)になって、譲吉博士の研究助手だった上中啓三の実験ノートから、エイベル博士の主張がまったく的外れであっただけでなく、エイベル博士の方法(ベンゾイル化法)ではアドレナリンが結晶化しないことが判明し、譲吉博士の盗作疑惑は、まったくの濡れ衣だったことが明らかになります。


それが間違いとわかり、譲吉博士が名誉を挽回したのは、平成13年(2001)でアドレナリンの名称が米国内で復活したのが、平成14(2002)でした。そこへくるまで、なんと75年の歳月が流れていました。


(つづく)


参考資料:「日米友好の桜・寄贈100周年記念高峰譲吉邸と松楓殿」展の資料・金沢ふるさと偉人館(平成24年)ほか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B0%E8%AD%B2%E5%90%89


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