【金沢~】
高峰譲吉博士は、今から100年も前に酵素を使った胃腸薬「タカジヤスターゼ」の創製と止血剤のホルモン「アドレナリン」の発見という今も世界の医療現場で使われている薬を開発した世界的な化学者です。晩年は日米友好に尽くし「無冠の大使」ともいわれました。
金沢では、昭和25年に設立された「高峰譲吉博士顕彰会」が行っている事業の一つとして高峰賞が制定され、毎年、市内の中学生から10名ぐらいが受賞し、受賞者は各界で活躍していることから、知らない人がいないくらい高峰譲吉博士は有名で、金沢が生んだ偉大な科学者であり国際人として金沢人が誇りにしています。
(博士は、年譜によると現在の富山県高岡市で生まれ、1歳の時、父の仕事で金沢に移り、10歳で加賀藩より選抜され七尾経由で長崎に留学しています。京都、大阪で学び、藩の選抜生として七尾語学所で英語を学び、26歳で工部大学校を卒業し、3年間イギリスに留学しています。博士は人に聞かれると「高岡に生まれ、金沢に育て、七尾から長崎に出たから加越能三州が我が故郷」と語っていたといいますが、今も金沢の人の中には、何に拘っているのか金沢生まれといい張る人も多くいます。)
博士のもう一つの偉大な功績は日米親善に力を尽くしていることです。象徴的なのは日米友好のシンボルとして、ワシントンやニューヨークへの桜の寄贈に大きく関わっていることですが、あまり知られていませんでした。私も、近年、映画が製作され、金沢で「日米友好の桜、寄贈100周年記念」の行事が大々的に行なわれるまで、高峰譲吉博士が関わっていた事を知りませんでした。
(一般的にワシントンの桜の寄贈は、当時のアメリカ大統領夫人の桜植樹計画を知った尾崎行雄東京市長が、日露戦争の終結のため1905年、ポーツマス条約の仲介をとった米国への謝意を表し、日本とアメリカの友情に願ってもないチャンスだということから寄贈されたという認識で、大統領夫人の桜植樹計画を博士が東京市長の尾崎行雄に伝え、苗木の寄贈に尽力したことは、知る人は知っていたのでしょうが一般的には知られていなかったようです。)
研究も事業にも成功した博士は、アメリカにあって日露戦争が勃発した明治37年(1904)頃には、主な関心は研究から社会活動に移っていきます。開戦後、日本政府は当時のアメリカ大統領ルーズベルトのハーバード大学の同窓で貴族院議員金子堅太郎をアメリカに派遣し直接交渉を期待しました。
その時、金子は一般市民に「国民外交」と呼ぶ広報活動を行いますが、アメリカに於ける実業界や社交界に信頼があった博士は、各地で開く金子の演説会の人集めやキャロライン夫人はアメリカでの金子夫人代理として協力し、ポーツマスでの日露平和交渉の頃には、アメリカの世論は9割方日本支持となっていたそうです。その働きを金子は「無冠の大使」と称えたといいます。
翌明治38年(1905)には、ニューヨーク在住の日本人によって、日本への関心を深めてもらう目的から「日本倶楽部」が創設され、博士が会長につき、ニューヨークの「高峰譲吉邸」や万博のパピリオンを移築した「松楓殿」を舞台に日本への理解を深める活動をしています。
アメリカへの桜の植樹は、明治17年(1884)アメリカの写真誌記者エライザー・シドモア女史が来日。日本の桜に感動し、ワシントンに植樹しようと市当局に訴えますがなかなか実現しませんでした。転機は、明治42年(1909)タフト大統領の就任により、大統領夫人ヘレン・ヘロン・タフトと旧知のシドモア女史は、大統領夫人にボトマック河畔の桜の植樹を提案しました。
(当時ワシントンにいた博士は、桜植樹の噂を聞き、タフト夫人と面会し、2000本の桜の寄贈を申し込み、週末には博士の提案が受け入れられる手紙が届き、その瞬間、実質的な「ワシントンの桜」が実現しました。)
(平成24年の記念展の資料)
明治42年(1909)日米友好の桜がシアトルに上陸しますが、この桜が検疫で病害虫に犯されていることが判明し、すべて焼却処分されます。その結果、日本外務省は、後に東京大学総長になる農芸化学の権威古在曲直氏に苗木の準備を依頼し万全の準備を整え、明治45年(1912)に再び6040本の桜をアメリカに贈ります。今も日米友好のシンボルとして咲き続けているそうです。
(つづく)
参考資料:「日米友好の桜・寄贈100周年記念高峰譲吉邸と松楓殿」展の資料・金沢ふるさと偉人館(平成24年)